第68話:越えられぬ障壁
「君はなにを言っているんだ? ぬいぐるみだって?」
私が示す肩の辺りと、ついでにその周りのなにもない空中までを、ベネットは見回した。「ここだよ、ここ」と手を振るミントにも、視線を素通りさせる。
――見えないの?
「ダメみたいだなぁ。オイラたちを連れてきたくせに、忘れちゃったのか?」
「違うよ。大人だから、見えないんだよ……」
「大人だから? なんのことだか、分かるように話してもらえるといいんだが」
通じない。こちらが確信している、こうだと思うことが伝わらなくて空回りする。
まだたった二言三言で、それでドロシーの気持ちが分かるなんておこがましいことは言わない。
だけど一つ分かったことがある。この人たちは、自分の思う物ごとの前提から外れるなにかを、まるで想定していない。
自分でない誰かの話す言葉が、自分の知っている語彙や事象の中に必ず収まると考えている。
この調子で話していたら、幼いドロシーは自分の考えが間違っていると思いこんでしまう。
「キャロル家は留守みたいだわ」
「モバイルは知らないのかい?」
「そこまでは聞いていないわ。やっぱり、ポリスに連絡する?」
でも私は大人だ。そういう相手にどうすればいいのか、正解は知らなくても考えることが出来る。それくらいの経験ならある。それでもダメなら仕方がない。
また、次の方法を考える。
「あの。その前に、話を聞いていただけませんか。突然に言いたいことだけ言ってしまって、失礼しました。順番に説明させてください」
ビジネスマナーの講習を、もっとちゃんと聞いておけば良かったなんて、いま考えなくてもいいことが思い浮かんでしまう。
おぼろげな記憶を頼りに、両手を前で揃えて深く頭を下げる。背を丸めないように意識して。
そのまま動かずに、返事を待つ。ただ「お願い」と念じ続けていて、どれくらい待ったか定かでない。
けれどもたぶん、数分くらいの単位ではあったと思う。
「……なんだかさっぱりだが。君がなにかを思い詰めているのは分かった。まさか自殺などする気じゃないだろうね? 話してごらん」
ため息混じりに言われて、私も詰まりかけていた息を吐き出す。まずは伝わったと、安心した。
顔を上げると、キャサリンが持ったままの受話器を置くように手を向けている。後ろを向いたベネットに、「ありがとうございます」ともう一度頭を下げる。
「頭を下げるのが好きだね。君は日本人かな――まあ、入ってくれ」
ベネットは一歩さがって、入り口を空けてくれた。相手は若い女が一人だし、奥さんも目の前に居るし、問題ないと判断したのだろう。
入った中はリビング、いやラウンジというのか。テーブルやソファがあって、ちょっとした来客ならばこの部屋だけで用が済む。
「君はそこだ」
他の部屋に行けるらしい扉は三つあって、どれも閉じられている。どれがドロシーの部屋に通じるのか眺めていると、ベネットがソファを指して言った。
所在なさげに見えたのかもしれない。
「座っても?」
「もちろんだ。ソファというのは、そのためにあるんだよ」
これは彼なりの冗談らしい。笑う気分ではもちろんないけれど、笑顔くらいは見せておこう。うまく出来たかは分からない。
並べられた椅子に夫妻が座って、さあどうぞという空気が漂う。どうもお茶もお茶菓子も出てこないようだ。
いや出てこられても困るけれど。
「私は日本から来ました。大学で友だちのルーナの家に、遊びに来たんです。妹のポーリーンと湖畔に居ると、背の高い黒ウサギに出会いました」
「すまない。その話で合っているのかな?」
「そうです。ちょっと長くなるかもしれませんが」
息を継いだタイミングで、ベネットは問う。答えると、やれやれという表情はするものの「どうぞ」と先を促す。
私はドールの国のことを話した。穴から落ちて、不思議な森で生きた人形たちに出逢ったこと。
七本キャンドルと、それがよく見えるお城と町のこと。それらを治めているのは、たった一人の女王であること。
「なるほど君の話には、概ね筋が通っている。信じるならば、いま私たちの娘は君の友人を苦しめている最中ということになるね」
「そうなります」
森の主が見せてくれた、ドロシーの心についてだけは話さなかった。あれは私が勝手に吹聴していいとは思えないから。
「残念だが、信じる根拠にまではならないけれどね」
「えぇっ?」
夫妻は。特にベネットは、きちんと話を聞いてくれた。時に頷いて、相槌もしてくれた。
その時と今で、座る姿勢も表情も変わらない。なのにそのひと言で、テーブルを全てひっくり返された気分だ。
「そんな夢のような場所があって、自分の娘がそこを創り上げたなんて話と。君がどうにか知った情報を繋ぎ合わせて、その話をでっちあげたと考えるのと。どちらが現実的だと思う?」
私には現実でも、普通はどうかと問われれば言葉がない。見聞きしたこと以外に証拠がないのだから、無理もないと納得もしてしまう。
「その話が本当だとして、あなたはここへなにをしに来たの?」
「……ドロシーは自分の心を見失っています。それは彼女から完全に離れてしまっていて、私たちはそれを集めました」
「集めた? 触れられる物になっているというの?」
黙って聞いていたキャサリンが問うてきた。詳細を聞くなんて、信じてくれたのだろうか。
「そうなんです。言葉は木の葉に、記憶は本に、意思は時計になっていました。残るは感情だけで、それがこの家にあるはずなんです」
「それは?」
「四人のビスクドールです」
フッ、と。キャサリンが笑う。
届いた。我ながらうまく話せなくて戸惑わせたとは思うけど、ドロシーのためだと分かってもらえた。
そう思った。
「ベネット。やっぱりこの娘さんは良くないわ」
「そのようだ」
「え……」
期待を裏切る言葉が投げられる。なにを言っているのか、今度はこちらが戸惑う番だった。
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