第67話:夢物語をかたる
ここはイングランド。私は日本人で、この町には友だちの実家へ遊びに来ただけ。
今の時間は――スマホを取り出してみると、表示が正常に戻っている。出発した同じ日付のままで、時刻は午前二時を過ぎている。
「あれだけの時間が、たったの一時間くらいか……」
あの世界そのものが象徴する、ドロシーの気持ち。パパとママ。愛されることを待ち望んで、焦がれて、裏切られたと感じて。それでもまた次の時を待つ。
二つの世界の時間差が、ドロシーと両親の心の差なのだ。それを思うと、息が苦しい。
――よし。夜も遅いとか、私が何者だとか、そんなことで迷っている暇はない。
鼻から強く息を吐いて、扉の脇にあるチャイムのボタンをそっと押した。
「……寝てるよね」
見える範囲の窓からは、灯りが見えない。街の他の人たちは、今もルナを探してくれているのに。
ドロシーがかわいそうだと、膨らみ続ける両親への怒り。そこにまた別の感情も加わってしまう。
今度は強くボタンを押した。さっきは聞こえなかったチャイムの音が、家の中で響いているのがはっきり聞こえる。
苛立ちを物にぶつけてしまうなんて、そんなではダメだ。冷静に、冷静に。
大きく息を吸って吐いて、かるく深呼吸みたいなことをしていると、家の中を誰かが歩く気配がした。
「どなた? こんな時間に、なにかご用ですか」
寝ていたのだろうに、はっきりとした発音。この女性の声は、お手伝いさんだろうか。
「夜遅くにすみません。キャロル家でお世話になっている者です」
「キャロル家――ああ」
扉の向こうで、低く抑えた話し声が聞こえる。増えたのはおそらく男性。となると、ドロシーのパパだろう。
内側から錠を開ける音が二つして、扉が開かれた。寝間着姿の男性と、同じく女性が一人ずつ。
「どうしたのかな。娘さんを探しているとは聞いたが」
ブラウンの髪の男性が言った。不躾な訪問に、気分を害した様子はない。少なくとも、目に見える表情としては。
でも、戸のあちらとこちら。その境界を越えようとする素振りはなかった。代わりに、そうすることで今が何時だか分かっているのかと告げるように、上目遣いで空を見上げている。
「え、ええ。そうなんです。それで――」
「どうかしたの?」
奥からもう一人、女性が現れた。先に居たレディシュの女性よりも、歳上に見える。グレーの髪をしたその女性が、きっとドロシーのママだ。
「ルーナという子が居なくなったって聞いただろう? そのことらしいよ」
「そうなの、こんなに遅くまで探していたのね。私たちは帰宅したのが遅くて、心当たりがないのよ。ごめんなさいね」
名前はたしか、ベネットとキャサリンと言った。二人はお手伝いの女性に「ここはいいよ」とさがらせて、私にも役に立てないことを詫びた。
「そもそもこの町のことも、それほど知らないんだ。町の外で働いてるからね。すまないけど――早く見つかることを祈ってるよ」
それでベネットは、戸を閉めようと手をかける。でもこれで「そうですか」なんて言う話はない。
「待ってください! どうしてもお聞きしたいことが。聞かなきゃいけないことがあるんです!」
「……うん?」
まばたきもせず、ベネットの両目を見つめて一歩踏み出して言った。
言わなきゃ。伝えなきゃ。聞かなきゃ。そう思うばかりで、具体的にどんな言葉を出せばいいのかなにも思い浮かんでいない。
その焦りが、たぶん顔に出ていただろう。夫婦の眉間に、揃って皺が寄った。
「眠ったままのドロシー。どうされるんですか」
「誰からそれを!」
「キャサリン――」
ドロシーのママ。キャサリンが、顔色を変えた。私の目の前に来ようと歩み寄るのを、ベネットが止める。
「君がどこでそれを知ったのか分からないが、娘は病気なんだ。つまり僕たち家族の問題だ。なにを言おうというのか知らないが、それはとてもデリケートな話題になる。分かるね?」
深夜に面識のない家を訪ねて、プライベートな情報を口にする。それがどれだけ非常識か、それくらいは私にだって分かっている。
この場にポリスが居れば、私はどういう扱いをされるやら、だ。
現にベネットがデリケートと言ったのは、そういう意味での脅しだろう。
「信じられないかもしれない。でも信じてもらわなきゃ、ドロシーが危ないんです。ドロシーはもう、いつ死んでもおかしくない!」
「キャサリン! キャロル家のナンバーは知っているかい? このお嬢さんを引き取ってもらうように言ってくれないか!」
「ええ、もちろんよ! なんてことを言うのかしら!」
キャサリンは扉からまっすぐ奥にある、電話機に向かった。そこにアドレス帳でもあるのだろう、小さなノートのような物をめくっている。
「信じてください。私はこの目で見てきたんです。ドロシーは心を閉ざしたまま、朽ちてしまいそう。日曜日にだけはあなたたちに愛してもらえるって、それだけが最後の希望だったのに。それさえも奪ってしまったから……」
「どこまで人の家のことを――どうやらポリスも呼んだほうが良さそうだね」
違う、こうじゃない。怒らせてどうするの。
分かっているのに、どうしていいのか思い付かない。肩のミントが「クソッ、分からず屋め!」と怒ってくれているのが、せめても救われる。
――そうだ。
「この子! ミントっていうの! あなたたちがドロシーに贈ったぬいぐるみでしょう!?」
ドールの国の証拠になるはず。これにベネットは、この上なく怪訝に眉を歪ませた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます