第66話:乗り越えて先に

 スローモーションのようだ。眩い光球を振り返って見送る、ポーやルナの動きも。そんな中でも、相当にあった距離がどんどん縮まっていく。私の全身をすっぽり包むくらいの、青い大きな光の球。

 避けなきゃ。

 そう思って身体を動かそうとするのに、ちっとも着いてこない。


「間に合わな……」

「行きなさい!」


 肩に乗っていたソーダが、後ろ脚で蹴りつけて飛んだ。指で強めに押したくらいしかないその感触が、あっという間に消えていく。

 私の手に乗れるほどの、小さな身体。可愛らしい青のリボンを自慢げに振って歩く、ネズミの女の子。

 そんなソーダが青い光に飛び込んで、飲み込まれた。

 光球は身悶えするようにぶるっと震えて、急速に縮んでいく。音もなく、そのままそこにはなにもなかったかのように、色と大きさを失くした。


「ソーダ……?」


 飛び込んでいったはずの、ソーダが居ない。どこかへ移動したのを、見過ごしでもしたのだろうか。

 きょろきょろと見回したけれど、見通しのいいどこにも姿は見えない。


「ソーダァぁっ!」


 理解した。

 いや。認めたというのが正しいだろう。ソーダは、消えたのだ。この世界から、存在を失くしてしまったのだ。つまり、死んだ。抱きかかえる遺体さえも、残すことなく。


「ぁぁぁぁああああああああ!」


 唸り声。低く、苦しそうに。喉を掻きむしって空いた穴から漏れでもしたかのような声が響いて、それがいつしか狂ったような叫びに変わる。女王の目が剥かれて、そのままぼとりと床に落ちそうな血走った瞳がこちらを睨めつける。

 手にした杖の先には、また光が集まりつつあった。


「またあの光が来る! 行くんだ!」

「だって、ソーダが――」


 消えてしまったあとの、ほかと何ら変わらない空間から目が離せない。

 そこから視線を外して、次にはそれがどこだったのか分からなくなってしまったら、その時こそソーダは帰ってこれなくなる。

 そんな思い込みが私を縛っていた。

 だって、あの子が座っていた重さも、蹴られた力加減も、もう分からない。あまりにもあっけなく、なくなってしまったのだ。

 そんな私の頬に、軽く引っ掻かれたような感触があった。柔らかなミントの牙が、渾身の力で突き立てられていた。


「ああ居なくなった! このままだと、次はオイラが同じことをするぞ!」


 視界へ強引に割り込んできて、そんなことを言う。

 そんな脅しを言うなんて、酷い。でも同じことだ。私がここへ突っ立っていれば、どうしたってそうなるのだ。


「分かった」


 返事をすると、ミントは元の位置へと戻ってくれる。

 この部屋を出る前に、もう一度ソーダの気配を見届けたかったのだけれど、やはりもうどこだか分からなかった。

 目を閉じて、扉の前へと向かった。手に触れたノブを回して、くぐり、後ろ手に戸を閉める。

 切り替えよう。

 胸に詰まったもやもやしたものを、吐き出そうとした。でも一度には無理で、お腹から突き上げてくるような思いを噛み潰して、細く細くストローを吹くようにした。もしも今シャボン玉を作ったなら、大きなのができたかもしれない。


「ここはどこだ? 急がないと」


 彼のいつもの元気な声。言葉の通りに辺りを窺っているようで、慎重さみたいなものはあったけれど。

 淡々としているんだな、と。

 がっかりしたわけでも、そんな薄情なと怒りを覚えたわけでもない。せいぜいが驚いて、閉じていた目を開いただけだ。

 ただ。そうなんだな、と思った。


「――ミントは強いね。お友だちだったのに、悲しくないの?」


 そこへきて、だからと言うのもおかしいけど、そんなことを聞いてしまった。口にした瞬間にしまったと思っても、もう遅い。


「そう思うのか?」

「ううん。ごめん」

「行こう。女王さまを助けるんだ」


 ミントはある一方を見つめて、顔を動かさなかった。彼がぬいぐるみでなかったら、どんな表情でどんな感情を見せたのだろう。

 黒くて大きな目が、いつもと変わらぬ深い色をしていた。


「この扉かな」

「分からない。オイラもここには来たことがないよ」


 ミントでも知らない場所が、この城にあるなんて。

 市松模様の床。高い天井は真っ白で、同じ色の壁が両側に。装飾も置き物もないまっすぐな廊下が伸びて、その先に扉が見える。

 ――ああ、そうか。ここはあの、無限にループする廊下だ。

 ここはきっと、この世界の端にあるのだろう。揺れ続けていた振動も音も、ここでは全く感じない。


「行くよ」

「一緒に行くよ」


 小さなレバーと持ち手とを、同時に握ると開く扉。彫刻風の模様が施されたそれを開くと、そこは黒一色だった。


「壁……?」


 おそるおそる触れ――られない。触ろうとした指先が、突き抜けてしまう。ということは、通り抜けられるということだ。


「行くよ」


 間抜けにも、さっきと同じことをまた言ってしまった。


「一緒に行くよ。仲間だから」

「ありがと」


 心強い。

 この世界に来て、それほど長くもない時間に色々なことがあった。凍てつくような気持ちにも、燃え尽きそうな気持ちにもなった。

 そんなことも全部、くぐり抜けてきたんだ。それも全部、きっともうすぐ終わるんだ。


「終わらせないと、意味がないよね」


 なんの意味なのだか、私は努めて考えないようにする。唾を飲むと、私はもうためらうことがなかった。力強く、黒の扉をくぐり抜ける。

 一歩進んだだけで、あっさりとそこへ着いた。その景色は、ある意味で予想通り。ある意味では驚いた。


「ここって……」


 目の前に見えるのは、夜に沈んだ街。遠くで、捜索の声が聞こえる。

 私が立っているのは、どこかの家の敷地の中だろう。小さな門が私と街とを隔てていた。

 振り返ると、すぐ後ろに扉がある。たった今、私が通った物に違いない。でももうこれは、世界と世界を繋ぐ扉ではないはず。

 それはドロシーの家の、玄関の扉だ。

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