第65話:絶望と寂寥の光
女王もまた表情を失って、床に膝を突いた。それでもキャンベルたちは、ベッドから立ち上がろうとしない。
「ドロシー!」
ポーが走る。決意に満ちていた目を一転、心配の色に変えて。その後ろを、マギーとハンスも続く。
たぶん大丈夫だ。ドロシーが傷付いたりはしていない。ハンスの子守唄でああなったのだから、きっと強烈な眠気にでも襲われたのだろう。
朝の満員電車の中で眠気と戦う、夜勤明けの会社員みたいなものだ。いやまあそれも、健康に良いわけではないけれど。
私はビスクドールのところへ走った。ルナは少し離れてしまう妹を眺めたあと、私のあとを着いてくる。
「――良かった。壊れてない」
床に落ちても、焼き物の身体に傷はなさそうだった。持ち上げてみると、四人とも見た目通りただの人形のように、手足がだらんとしたままだ。
これで、いいのだろうか。
四人を抱きかかえて、少し待つ。きょろきょろと、辺りを見回したりもした。しかし、なにも起こらない。
「この子たちじゃ、ない?」
険しい顔のルナが漏らす。その声には、焦りがあった。姉としては、妹を矢面に立たせることは了承しても、自分の手で早く終わらせるつもりがあったのだと思う。
その当てが外れたとなれば、強大な力を持つ女王に駆け寄っていったポーのことが気が気でないはずだ。
「森の主! ドロシーの心は、言葉と記憶、意志と感情に分かれていたんでしょう? 全部集まったはずよ!」
どこへともなく、宙に叫んだ。あのツンデレが、聞いていないはずはないのだ。
でもなにも反応はない。もう一度「森の主!」と呼びかけても。
「どういうこと……四つで一つ。間違ってないはずなのに」
「四つ。四つのものなんて……」
なにか見過ごした物があるのだろうか。だとしたら、もうそれを探しに行くことなんて出来ないのでは。
それともあの本を持っているポーが、ここに居ないからだろうか。
いや。最初に私たちは言葉の森を見つけただけで、そこで物的ななにかを手に入れてはいない。
それが良くてこちらはダメというのは、とうにもおかしい。ならばやはり、見落としたものを探しに……。
「その子たちを――探しているのですか」
ルナと顔を突き合わせて、ここまでのあれこれを思い出していた。そこに小さな声が届いた。
ルナの抱えている、二人の人形。そのうちのベンが喋ったのだ。
「気が付いたのね」
「ええ。ゆっくりと眠ったようでいて、悪夢から飛び起きたような。あまり気分は良くありません」
「そ、そう――」
彼は僅かに身震いをして、汗を拭う素振りをした。悪趣味な冗談を言ったのかと思いきや、真面目な感想だったらしい。
「この子たちを探す、って。まるでここには居ないような言いかただけど」
「その通りだよ。その子たちは、ここに居ない」
表情もまばたきもないので分からなかったけど、ケイトも目を覚ましたようだ。
「この国に居る人形たちはみんな、ドロシーの人形とそのコピーさ。でもその子たちだけは違うんだよ」
「どういうこと。ううん、それはいい。どこに居るの」
時間を費やせば費やすだけ、妹の危険が増すのだ。ルナは本題の解決を急いだ。もちろんそれに異論はない。
「あそこだよ」
「あそこから行けます」
二人が同時に、同じ方向を指した。
入ってきたのとは別の、片開きの扉がそちらの壁にある。
「あの中に?」
「中ではなく、外ですね」
「外? ええと、とにかくあの扉の向こうに居るのね」
「いえ。扉をくぐった先の、どこかです。詳しい場所までは、私たちも分かりません」
そこがどんな場所かは、行けば分かる。二人はそう言って、詳細を語ろうとしない。
「私たちがあれこれ言うまでもないってことさ」
「まさか、教える振りをして罠に嵌めようとしてる?」
「そう思うのも当然だね。だけど違うよいますよ」
「あなた方がなにをしようとしているのか、理解しているつもりです」
その証拠は。なんて、そんなものがあるはずもない。
他に当てはないのだから信じてやってみるか、信じずにドロシーが死ぬのを待つかしかないのだ。素より選択肢は存在しない。
「分かった。私が行く」
ルナはベンとケイトを、私に突き出した。とても分かりやすく、焦燥とした顔をしている。こうやって話している間も、ちらちらと視線が同じ方向へ何度も動く。
だから。いや、そんなことを考えるまでもなく、私は出されたルナの手を柔らかく押し返す。
「私が行く。ルナはポーを守ってあげて」
「ヒナ……」
声にもなっていない声で、「ごめんね」と聞こえた。いいってことだ。ポーだって、頼れる姉が傍に居たほうがいいに決まっている。
「あなたたちが道案内してくれたりはしないの?」
「お役には立てないと思いますよ」
「それよりこっちで、ドロシーをどうにかするさ」
「そう、分かった」
当人がそう言っているものを、これ以上言い合っても時間がもったいない。「じゃあ行ってくるね」と、ルナに手を振った。
扉までは五十歩ほどもあるだろうか。駆ける私の後ろを、可愛らしい声が追いかけてきた。
「私も行くわ!」
「オイラも!」
「うん、お願い」
青いリボンをぱたぱたと揺らして、ソーダが走り寄ってくる。少し遅れて来るのは、ミントだ。二人ともそのまま私の両肩に上って、行こうと言った。
どこへ行くのか知らないけど、一人や二人くらいは居てくれると、心強いというものだ。
そのまま、あと数歩で扉に手が届くというところで、女王の絶叫が聞こえた。
地平線が見えるかというほどに、果てしなく続く床。視界を遮る物は、洋服タンスとベッド。
私たちと女王との間には、なにもない空間だけがある。
そこに、青い光が見えた。思わず身を竦めてしまう、あのキュンッという音も聞こえた。
それは私の立つこの位置へ、寸分違わず向かってくる。
「私を置いてどこへ行く! 許さない! 私を見捨てることは許さない!」
そんな女王の叫びから出された答えが、その光だった。
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