第62話:取り戻すために

 今度は慎重に行くから任せてくれ。ハンスがそう言うので、奥の部屋に続く扉を開けてもらった。

 彼がノブを捻って押すと、小さく金属音をさせて扉は動いた。錠はかかっていないようだ。

 軋む音を少しばかり立てて、そのまま素直に開いていく。ハンスが手を離しても、戻ってくることはない。それにその周囲にも、誰も見えない。

 こちらと同じ石の床が続いて、白い壁の果てしなく伸びるのが見えるだけだ。

 ――ゆっくり。ハンスは向こうを覗こうと、顔を出した。あちらから見れば、長いソンブレロがにょきにょきと伸びていくように見えただろう。

 キュン! と、これまでに一度も聞いたことのない音がした。強いて似た音を探せば、ジェット機とかF1とか、そういう物が通り過ぎたような。

 数拍を遅れて、ぱさっと乾いた音もした。これは誰かが、布を落としでもしたのだろう。


「この先は、どうやら危険のようだよ」

「どうしたのハン……」

「その帽子!」


 振り返った彼の頭上に、帽子はなくなっていた。唯一、広いつばの部分が僅かに残っていたけれど、それも見る間にはらはらと塵になった。


「それも女王の魔法、なの」

「そのようだね」

「初めて見たけれどね」


 マギーも見たことのない魔法。相手に命令を聞かせるとか、姿を変えるとか、そんなことが可愛らしく思えるほどに残酷な魔法。


「あ。こういうのって、鏡で跳ね返したり出来るものだよね」

「そうね、聞いたことあるわ」


 ルナが思い付いて、ポーが同意する。まあまあ、そういうお話もよくあると言えばある。古くはペルセウスとか。いやあれは、単に相手を見ずにすんだだけだったか。

 しかし悩んでいても仕方がない。ものは試しで、私がバッグに入れていた手鏡を出してみる。

 さっきと同じ音がして、結果も同じだった。


「どうしよう……」

「こんな状況じゃ、どうしようもないわ」


 みんなが頭を悩ませる。諦めたわけじゃない。状況が悪いから出直す、なんて時間はないのだ。

 でもきっと、この魔法を受ければ死んでしまう。その事実がもちろん怖いし、そんなことをドロシーにさせてしまうのだって、許されない。


「確証はないんだけど――」


 森の主の言葉を考え続けていた。そしてそれは、この不思議な国の女王ドールを、現実のドロシーに戻す方法なのだろうと思う。

 けれども私では、その役を担えない。現状を思うと、危険を押し付けることになって、言うのをためらってしまう。


「いいよヒナ。言って。私はあなたの言うことなら、信じられるから」

「ありがとう――でも、ポーを危ない目に遭わせてしまうんだよ」

「……ポーなら大丈夫だよ」


 ルナは驚かなかった。それでも覚悟をし直す必要はあったらしい。ひとつまばたきをして、深呼吸もしてから「ね?」と愛する妹に同意を求める。


「ええ。ドロシーを連れ戻すのに必要なんでしょう? 私がやるわ。どうすればいいの」

「――うん。でもその前に、誰か知っていたら教えて。あの赤と黒のビスクドールたちの名前を」


 マギー。ハンス。ネズミたち。

 この世界で出会った、心強い仲間たち。たくさん居るひとり一人の顔を、順に眺めて聞いた。


「ディルと、アンジー」

「ソルといったかな?」

「あとはプレスね」

「やっぱり……」


 思った通りだ。それなら方法はある。あとはポーが、どれだけ頑張れるか。それをドロシーが、どれだけ受け止めてくれるか。

 そこはその二人を信じるしかなくて、運試しのようになってしまう。


「あのね。森の主が言った、あと一つ」

「ただし四つだ」


 元気よく、ハンスが補足をしてくれる。そうねと頷いて、私の推測を言った。


「森の主の正体は、ドロシーの心なの。伝えるための言葉と、記憶はもう繋がったって言ってたでしょ?」

「うん、聞いたよ」

「それから時計を取り戻した。そうしたら、あと一つだって聞いたよね。言葉と記憶と、あと二つ。心ってどうして出来てるんだろうって思うの」


 なんだか、今度は私が謎かけを出している気分だ。順を追って話そうと思っただけなのに。

 現にルナもポーも、答えが分からない様子だ。もちろん私には、彼女たちに意地悪をする理由がない。


「いま分かったの。あのビスクドールたちは、感情だよ。喜び、怒り、哀しみ――それから楽しいっていう感情」

「それをドロシーはなくしてしまったの?」

「そうだと思う。パパやママに見せるための、嘘の感情だけが残ってるんだよ」


 残る時計は、意思だろう。

 意思と感情で人は動いて、言葉と記憶でそれを残す。そしてそれは、また次の意志と感情を生み出す素となる。


「それを取り戻せば、ドロシーは帰れるのね」

「そうだと思う。だからポーは、ドロシーに話しかけてほしいの。嬉しいとか楽しいとか、悲しいでもいいから、あの子の感情を動かすようなことを」

「その隙に人形たちを捕まえるの?」


 さすがルナは、よく分かってくれる。ここまでが目に見える形になっていたのだから、今回もきっとそうだ。


「分かったわ。私が先に行ってドロシーと話すから、あの魔法が来ないうちにみんなで捕まえて」

「ごめんなさい、ポー。あなたに一人で危険を負わせることになって」

「気にしないで。約束したでしょう? どんなことがあっても、私が頑張る限り手伝ってくれるって」


 約束した。でもそれは、私が頑張るための理由として言ったつもりだった。幼いポーを責任で縛るためではなかった。

 またそれを悩みそうになって、ルナが私の腕を軽く叩いた。真剣な顔で頷いて、気にするなとその目が言っている。


「お願いね。元の世界に戻ったら、みんなで魚釣りにでも行こうね」

「必ず行くわ。その時は、ヒナも行くのよ」

「もちろん!」


 必ず行こう。魚釣りのために、はるばる日本からでも。行き方も帰り方も分からないこの世界よりは、よほど近いというものだ。

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