第61話:ひとつはよっつ
ベンとケイトは、ただの人形になってしまったのだろうか。見た目にはそうとしか思えないけれど、素よりここはそういう世界だ。人形が人形のまま、意思や感情を持って動いている。言葉も話すし、自分や周りの出来事を覚えている。
その辺りのことを思うと、私たちが見ているのは人形であって人形でない。だとすれば、きっと二人とも気絶しているだけだ。
「ねえ、ヒナ」
ポーは二人を両腕に抱えて、大丈夫かと声をかけている。さっきまでの、いかにも死にそうという風ではなくなったのを、彼女も感じているようだ。
それを見ていると、ルナが私の腕を引いた。痛くもなんともないけど、少し強く。
「本当に心中する気だったの?」
「……ううん。これはね、水で薄めてあるよ。だから臭いだけで、火は点かないの」
水鉄砲を示して、へらへらと笑う。それでごまかせると思っているわけではないけど、怒ったルナにどんな顔を向ければいいのか分からない。
「そっちは、でしょ」
脅しに使うためと割りきって、水で薄めていたのは本当だ。でもそれは、水鉄砲の中身だけ。ボトルのほうは、アブサンがそのまま入っていた。
火が点くことを見せるために、私から滴り落ちた水溜まりを燃やしたのだ。言いわけのしようがない。
「無茶なことして、ごめん――でも」
「今はいいよ。でもポーには、脅しのためにそう見せかけただけって言っておいて。火が点いたのは、トリックがあるんだってことにして」
「分かった……」
分かってる。
ルナが怒っているのは、せっかく懐いてくれているポーに、ドロシーのことで心を傷めているポーに、なんてものを見せるんだと。そういうことだ。
それと、もう一つ。
私が自分に危害を加えようとするなんて、そんなことは許さないと。
ルナはとても優しいのだ。私はそれを知っている。
「ハンス。あなたも勝手なことしたらダメ。なにがどうなったのか、分かってる?」
「そうだね。いや僕は頭が悪いから、分かっていないのかもしれないよ。でも綺麗なお嬢さんに、とても危険なことをさせてしまったのは分かるよ」
だから申しわけなかったと、彼は帽子を少し浮かせて謝った。
「ううん。ハンスも女王さまが心配なんだよね。仕方ないよ」
彼がドロシーと出会ってから、どれだけの時間が経っているのか。あちらの世界では数ヶ月だけれど、こちらでは百年近くだ。
その内の半分くらいでも、ドロシーは優しい女王さまだったのだろうか。残りがどれだけ怖ろしかったのか、体験したことから考えるだけでも震えてしまう。
彼はこの城に来ることを、ためらった。それでもやはり、心の底では心配しているのだ。彼のような純粋な想いを向けられるのは、とても羨ましい。
きっとそれだけ、ドロシーが優しい女の子なのだ。元の世界で話してみたいと思う理由が、また一つ増えた。
「ルナ、ちょっといい?」
ルナの怒り。ドロシーのこと。整理をつけかねていると、ポーが姉の傍へとトコトコ寄っていく。
「この子たちを預かってくれる?」
「いいよ。どうしたの?」
「うーん、なんだか変なの」
彼女自身、曖昧な言葉通りによく分からないのだろう。首を捻りつつベンとケイトをルナに渡して、ポーは自分のポーチの蓋を開ける。
中にはそれほど、物があるわけでない。ハンカチやリップクリームくらいのものだ。
そこへ少し前に入れたのは、タオルに包んだ紙束。なにかおかしいというのなら、もちろん疑うべきはそれだろう。
思った通り、慎重な手つきでそれが取り出された。異変があるのも間違いないらしく、ポーは触れた瞬間から何度も「ん?」と訝しむ声を発した。
「これ……」
応接セットのテーブルで、タオルが解かれた。その中には、触れる度に損傷を増しそうな紙の束があるはずだった。
けれど実際に見えたのは、ちゃんとした体裁を保つ本だ。
あちこち古くて、ボロボロという印象はある。でもこれなら大きな図書館の隅の方に忘れられて存在しても、おかしくない。
表紙が開けられると、そこは白紙。けれどもそこに、文字が浮かび上がる。さらさらと素早い筆致で、短い文章が書き上げられた。
「あと一つ。ただしそれは四つ。急いで」
目の前を、そよ風が吹き抜けた気がする。そこから聞こえた、というかそれそのものが声だったのかもしれない。
はきはきとした、大人の女性の声に囁かれると、本に浮かんでいた文字も弾けとぶように消える。
「森の主――?」
これまで聞いた声は、性別はどちらとも言い難くて堅い印象の声だった。
でも間違いない。この本は、ドロシーの心なのだ。それが元の姿を取り戻しつつある。私はそう確信した。
「あと一つ、だけど四つ?」
そんな物があるのかと、マギーは言った。ネズミたちは、「チーズじゃないか?」と言っている。
ルナとポーは、どう思っただろう。私には、そんなものはあれしかないと思えたのだけれど。
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