第60話:探していたもの

 ライターを握る手が、ぶるぶると震える。これは寒さだけのせいだろうか。

 猛烈な勢いで体温を奪っていくアルコール。それは激しく気化しているということで、そこに引火したらどうなるか。

 誰も動かない。予定と違う。私がどうなるかはともかく、ルナとポーは先へ進ませてあげられるはずなのに。


「さあ!」


 あまり近付くと、ライターを奪われるかもしれない。だから踏み出す振りだけをして、道を空けるように促した。

 でもまた、予定と違う事態は起きた。「ちぃっ!」と苛立たしげに操ったケイトの鞭が、私の指を打つ。


「あぃっ……!」


 乾いた音を立てて、ライターは床に落ちる。数歩で届くところだったけれど、私が動くよりも前に、ぶうんと。また鞭が鳴る。

 しゃらしゃらと軽薄な音。滑っていくライターを見送る私たちの頭上で、可愛らしい声が張られた。


「今よっ!」

「なっ、なにをっ!」


 肩車をしても全く手の届かないような、高い天井。太い梁のいくつかは剥き出しになっていて、そこからなにか小さなものが二つ落ちてくる。

 それはベンとケイトそれぞれに、一方は胸元、もう一方は手元へと。齧りつくように――いや、齧りついた。

 意図を察したのだろう。ミントを始めとしたネズミたちも、同じように飛びかかる。


「か、返しなさい!」

「痛っ――く、ないじゃないか!」


 仲間の協力を得て、ケイトの手から鞭を奪ったのはソーダ。彼女の牙も尖ってはいるけれど、全く痛くない。ケイトは思い込みで手放してしまったらしい。


「ヒナ、あったわ!」

「これ……これなの?」


 同じくベンの胸の隠しポケットから、中身を奪ったのはマギー。長い鎖の付いたそれを、目の前に見せてくれた。


「そう。この世界に正確な時を刻む物は、たった二つ。どこにあるのかなんて、考える必要はなかったのよ!」

「ああ……」


 長い鎖の付いた、時計。きっと重要な意味があると、探していた物だ。

 そうだ。考えてみれば私自身、ベンが時計を取り出すところを見ている。自分のうっかり加減に呆れてしまう。


「彼が持っているのなんて、当たり前すぎて、最初からだと思い込んでいたわ。私も随分、うっかりしたものね。でも必ずここに来て、隙を見せると思ったのよ。こんなことになるとは、思っていなかったけど」

「私まだ、あなたにお礼をしていないのに。そんな無茶をしないで」


 どうやらマギーとソーダは、ここに居ればベンが現れるだろうと待ち構えていたらしい。


「そ、それを――返し、返しなさい」

「返しなっ……」


 燕尾服の二人は、頭を抱えて苦しげな声で訴える。まさかこの二つが、彼らの命に関わる物だとでも言うのだろうか。

 よろよろ、ふらふらと、足をもつれさせる二人。腕を伸ばして取り返そうとするのも、あさっての方向だ。

 マギーたちが降ってきたのもだけれど、その結果が予想外すぎる。時計と鞭を返す、という選択肢さえ思い付かなかった。

 でも返そうと言ったとして、マギーとソーダが応じなかっただろう。痛々しくは思いながらも、決して返さないと、強い意志をその目に感じた。

 やがて二人は膝を突いて、そのまま床に倒れた。顔や胸を手で庇ったりもせず、ばたりと。


「え、えぇ……し、死んじゃったの?」


 腕と顎を震わせて、ポーがベンに駆け寄った。何度か肩を揺すって、次はケイトにも同じようにする。


「ねえ、ねえ! ダメだよ。これじゃ、ドロシーが悲しんじゃうよ。あなたたちだって、ドロシーと一緒に居たいんでしょう!」

「ポー……」


 必死に呼び起こそうとするポーの脇に、ルナがしゃがんだ。彼女の背中に手を当てて、そっと撫でている。


「奪い取っては、いけなかったのかしら……」


 私の傍で身を固くしていたマギーが、誰にともなくぽつりと漏らす。

 それにはなんとも、答えられない。女王の支配下に置かれて、自身の思い込みも強かった二人。協力してくれたとは思えないから。


「私たち、ドロシーを元の世界に帰してあげるの! 元の世界。元の通りなのよ! そこにはあなたたちも居なきゃいけないの!」


 ポーはそんなことを、何度も叫ぶ。ケイトの胸を叩き、ベンの頬を叩いて、またケイトの頬も叩く。

 それはきっと、ドロシーのためというだけでなく、彼らも命を持っている。少なくともこの世界では、自分自身の意思を持っている。その命を、どうであれ失わせたくないのだ。


「私、あなたたち二人とは、まだご挨拶していないわ……必ず行くから。ドロシーの部屋に。あなたたちと、あなたたちの仲間とみんなで遊ぶために。だから、だから目を覚まして!」


 絶叫と呼んでいい声が、その一瞬だけは城を揺する音さえも掻き消した。ポーの優しい心の雫が、ケイトの胸に落ちる。続いて叩いたベンの胸にも。


「――えっ。こ、これどうしたの!」


 慌てたような驚きの声は、ソーダ。その目は自身の抱えているケイトから奪った鞭に向けられていて、それはまるで命を持ったみたいに脈動していた。


「なに、こっちもよ!」


 マギーも思わず、時計を取り落とすところだった。焦って持ち直したところで、マギーの身体には少し大きかった時計が、ぎゅぎゅっと縮む。

 長い鎖は消え失せて、代わりにカラフルな組紐が。それは小さなウサギのぬいぐるみが首から掛けるのに、ちょうど良さそうだ。

 すると鞭は。同じく姿を変えていたけれど、こちらは全く別の物になった。


「木の棒と糸?」

「操り人形の、だね」


 それが彼らを繋ぐ、支配の足枷だったのかもしれない。ベンとケイト自身も、着ていた燕尾服がなくなっている。それから身体が、マギーと違わないほどに縮んでいった。

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