第57話:救われるオモイ

 私が我がままを言うから。私が病気だから。パパもママも忙しくて、私から離れていくんだ。

 まだ確信とまでは言えない。けれども確実に、ドロシーの胸にはそんな予想が立っていた。

 ――気分が悪くて昼食が食べられず、ひと眠りすると少し良くなっていた。あるそんな日に、なにか食べ物をもらおうと住み込みの女性を探す。薬を飲むのに、全くの空腹ではダメだと言われていたから。

 女性は休憩中なのか、リビングでうとうととしていた。見ていたらしいテレビも点けっぱなし。

 住み込みなのだから、それくらいの余裕はあっていい。パパもママも言っていたので、それは別に問題ない。

 報道系の番組だろうか。テロップに心理学者と紹介された人物が映っていた。

 心理学がどういうものか、ドロシーには分からない。交わされている会話の意味も、ほとんど分からない。

 ひとつの家族の中で、親と子がそれぞれ孤立する、現代社会の問題を扱っているようだ。

 ドロシーはこれを、世の中には仲良く出来ない家族がたくさん居るのだと理解した。親から見放された子どもが、かわいそうだとも思った。


「私はパパとママが大好き。パパとママも、私を愛してくれているわ」


 自分はその立場にない。必死で、そう思い込もうとした。

 また別のある日。ドロシーの部屋から見下ろしたすぐ先に、同年くらいの少女がやってきた。周りには大人も子どもも、誰も連れていない。


「ねえ! 私はね、ポーリーンというの。あなたのお名前は?」


 動く度にスカートがくるくると回る、少し落ち着きのない子に見えた。

 なんだか苛とした。

 その風貌だろうか。愛くるしい笑顔だろうか。一人でそこに立っている、事実だろうか。それとも不躾に話しかけてきたことかもしれない。

 無性に腹が立って、なにも言わずに窓とカーテンを閉めた。

 少女は次の日もやってきた。その次も、その次も。毎日やってきて、第一声は「お名前は?」だ。

 それがまた癇に触って、二週間ほども経ったところで名前だけは告げた。


「ドロシーよ! もう来ないで!」

「分かったわドロシー! 私のことはポーと呼んでね!」


 ポーは、その次の日もやってきた。分かったと言わなかっただろうか。

 きっとこの、押しの強さが気に入らないのだ。ドロシーは、そう考えた。パパとママと、三人の幸せな空間はどんどん損なわれていく。

 そこに挟まってくる、余計な物が腹立たしい。それは住み込みの女性がそうで、新たに現れたポーもそうだ。

 ドロシーは望んでいないのに、勝手に割り込んでこようとする。

 でも住み込みの女性は、パパとママが連れてきたのだ。ドロシーは望んでいないのに。

 それを言いだせば、この家に居ること自体がそうだ。この家に来たから、二人は忙しくて、ドロシーのことを他人に任せてしまった。

 でもそれだって、私が病気だからだわ。どうして私は、こんな身体なの。どうして私は、あの子みたいに能天気に笑えないの。

 その想いが全て苛々となって、ポーへとぶつけられた。また十日ほど経った日に、悪口雑言を思いつく限り浴びせかけた。


「私のことなんて知らない人が、毎日勝手にやって来て。気持ち悪い!」


 勢いに任せて、そこまで言ってしまった。相手を知らないなんて、自分も同じなのに。そこに居るという以外になにをされたわけでもなく、ここまで言う必要は全くなかった。

 きっと酷く傷付けてしまっただろう。謝るべきだ。でも苛々とした気持ちに整理もつかなくて、なかなか口が開かない。


「もしかしたら、だけど。もしもまた私の勝手な想像で、あなたを傷付けたらごめんなさい」


 なにを言おうというのだろう。酷いことを言ったのは、ドロシーなのに。ふわふわとした生意気そうな眉が寄せられて、それでも笑おうとして。


「もしも。もしもよ? なにか悩みがあるなら。私があなたに、なにかしてあげられるなら。どうすればいいか、教えてほしい。だって私は、ドロシーのことをなにも知らないもの。あなたのことを、教えてほしい」


 この子は、また。

 苛々がピークに達して、怒りとなった。知らないから教えてなんて、そんな勝手な言い分があるものか。こちらが頼んで来てもらっているわけではない。


「……帰って。あなたに言えることなんて、なにもないわ」


 感情が激しく突き抜けた割りに、結果として出たのは、辛辣ではあっても静かな言葉だ。

 なぜだか口が上手く動かなくて、唇を噛む思いで言うこととなった。

 睨みつける視線から、ポーは逃げない。なにを考えているのか分からない、少し困ったような苦笑で見つめ返してくる。

 しばらくそうして、ようやくポーは「ごめんね。でもまた来るね」と、手を振って帰っていった。

 約束通り、次の日もポーはやってきた。どうして来るのか。学校があるだろうし、他の友だちも居るだろうに。

 日暮れまでの僅かな時間を、どうしてこんなことに使うのか。来る度に、嫌な思いをするのに。


「私にはね。お姉ちゃんが居るの。今は日本という国に行っていて、会えないんだけどね。分からないことは分かるまで、出来ないことは出来るまで頑張れって教えてくれたの」


 その姉とやらが、このしつこい性格の元凶か。昨日の怒りは冷めていて、今度はため息が出た。


「でもママはね、人の気持ちを大切にしなさいって言うの。話したくないことを、無理に聞いたらダメだって」


 ママの言うことは正しい。話すことなどないと言ったのだから、その言葉に従ってもう来ないでほしい。


「パパは、友だちが大切だって言っていたわ。他にどんなものを持っていても、大切に思える人を持たないのは不幸だって。でもそういう人は、待っていても現れるものじゃないって」


 それならもっと、そうなる可能性の高そうな人を探しに行けばいい。

 ポーの言葉に、いちいち反論してしまう。それは彼女に言っているのでなく、自分を貶めているのだ。

 ここには私しか居ない。こんな誰にも迷惑ばかりかけてしまう、私なんかしか。

 そうやって自分を痛めつけることで、罪が僅かなりと許される気がした。


「だからね、私はドロシーの悩みを知りたいと思ったの」

「――なぜ? ママが言ったことは、どうしたの」


 だから、って。どういうこと。

 前提と結果の辻褄が合っていない。他の二人はともかく、ママの言い分が無視されている。

 思わずそれを、指摘してしまった。


「えぇ? ママの言う通り、私はドロシーの気持ちを大切にしたいと思ったの。だから私がなにか出来るなら――」

「そうじゃなくて! 無理に聞くなって、言われたんでしょう」

「うん。でもドロシーは、悩みがないとは言わなかったわ。だから聞かせてもらいたいの」


 結局、無視しているではないか。いや、そんな理屈はどうでもいい。ドロシーは自分のパパとママが言う通り、おとなしく帰りを待っていればいいのだ。

 ただの義務のようになってしまった、お土産の人形を受け取って、喜ぶ振りをしていればいいのだ。

 そうすれば二人は気兼ねなく、仕事のことだけを考えられる。そう決めたのだから、余計なことを言わないでほしい。


「それにね。パパもママも、ルナもね。同じことを言うの。大切な人が悲しんでいたら、その原因を奪い取ってでも消してあげなさい、って」

「……大切? 私が?」

「うん! これからきっと、そうなるわ!」


 ドロシーの胸に、熱い塊が落ちてきた。

 滅茶苦茶だ、ポーの言っていることは。けれどどうにも、納得してしまった。凝り固まった汚泥のような気持ちが、野山に湧く泉に変わったかのようだ。

 溶ける。溶かされていく。


「あなたって、バカじゃないの……」


 解けたお腹の底から、突き上がってくる振動。これはなにか。一瞬のことで耐えきれず、ドロシーは咽びつつも泣いて笑った。

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