Interlude 05
第56話:すれ違うオモイ
ドロシーは記憶にある限りずっと、酷い咳に悩まされていた。喘息のようなものだと聞いているが、正しい病名は聞いたことがない。
調子の悪い時には一晩中も続いて、同じ部屋で寝ているパパとママが、寝ずに見ていてくれるのが申しわけないと思った。
毎日お仕事で忙しいはずなのに、きちんと眠れないのはつらいわ、と。
けれども同時に、自身の不安な心に大きな安心があるのも分かっていた。これがなくなってしまうと、どうなるものか怖いと思うほど。
それに病気とは関係なく、大好きなパパとママと同じベッドに眠るのは幸せだった。パパが独身のころから住んでいるという、それほど広くもないアパートメントも、ドロシーには最高の贅沢だった。
「だってママがくれたのは、ずっと持ってるから。パパも喜んでもらいたかったんだ」
ドロシーは常に、人形を抱えて歩いた。ピエロの姿の、
そのことをパパが妬いて、仕事で出た先のお土産をくれた。よくあるグレーのウサギの人形だが、脚も腕も動かなくて、どちらかというと置き物のような物だ。
「ベネット? あれは私のママがくれた物よ。それを譲ってあげただけ。要はお婆ちゃんからドロシーへの贈り物なの」
「それは聞いたさ、キャサリン。でもそういうことじゃないんだ」
「そう。でもね、女の子にあげるなら、もっと可愛らしい物を選んであげて?」
パパとママはそんなことを、互いの腰に触れながら笑って言い合った。ドロシーはそんな姿も好きで、グレーのウサギが黒くなるほどに毎日撫でてあげた。
「……ドロシー、引っ越そう。この家が好きだと言ってくれるのは嬉しいけど、君の身体のほうが大切だ」
ある日、ドロシーは血を吐いた。そのことについて医師は、空気の綺麗な場所に住むのが良いと言ったらしい。
「新しい家はね、湖のほとりよ。部屋もたくさんあるから、あなたの好きな人形もたくさん置けるわ」
たしかに人形は好きだ。今の家では置くところがなくて、もっと欲しいのを我慢している事実はある。
けれどもパパの言い分を真似れば、そういうことではないのだ。
だがそんなことは言えなかった。パパもママも、心の底からドロシーを心配している。会社まで徒歩で数分のこの家から、車でかなりの時間をかける場所に移ろうというのだ。
その気持ちを踏みにじるのが嫌だった。
「あなたのお世話をしてくれる人よ」
「よろしくお願いします、ドロシー」
聞いていた通りの、清々しい場所にある可愛らしい家だった。色々と想いはあるものの、この家を好きになれそうな気がした。
その中に入ると、動きやすそうな黒いスカートに白いエプロンの、見知らぬ女性が居た。
住み込みで家事全般と、ドロシーの世話をしてくれるのだという。
そういう女性と、その家の子が仲良くなる物語は読んだことがある。だがドロシーには、そういう期待が抱けなかった。
その女性の言葉は定規で書いたみたいで、凛と騎士のような笑顔が苦手に思えた。
「ドロシー。あなたのしてほしいことを、なんでも教えてくださいね。なんでも出来るようになりたいのです」
その言葉は、半分が叶って半分は叶わなかった。ドロシーは、なにも希望を言わなかったからだ。
それなのに日を追うごと、ドロシーの周囲は彼女の好みに沿うよう、変わっていった。
これだけ分かってくれるのは、悪い人じゃないのかも。
かも。ではなく間違いなくそうなのだと、本心では分かっていた。しかしそれでは、これまでパパとママのしてくれたことが、嘘だったようになってしまう。
どうにもそんな気持ちを、ドロシーは拭うことが出来ない。
その女性がそうやって頑張ってくれるのに対して、パパとママは毎日忙しそうだった。出張の頻度などは変わりない。それ以外は、毎日きちんと家に帰ってくる。時間は少しずつ遅くなっている気がした。
そんなパパとママを、否定する行為に思えたのだ。だからその女性を、認めることが出来なかった。
「ドロシー、これは気に入ってもらえるかな」
「私からはこれよ」
「わあ。カメさんがいっぱい。ママのは、おもちゃの兵隊さんね。可愛いわ」
毎週、日曜日の朝。必ずパパとママからのプレゼントがあった。
この家に来て最初にもらったのは、ピンク色のウサギだ。グレーのウサギのリベンジとして、パパが渾身のセンスで選んできたらしい。
黒くなったウサギとピエロの操り人形は、ドロシーの部屋の机に飾ってある。一方はそもそも置き物で、もう一方は古い物だから。
ドロシーはピンクのウサギを、マギーと名付けた。それからパパとママがくれる度に、人形が増えて名前を考えるのが楽しかった。
マギーと一緒にママがくれたのは、ハンスだ。ドロシーが可愛いと言うと、「どうしてそれはオッケーなんだ」とパパからの可愛い苦情があった。
「あなたの体調は、お医者さまもなかなか難しいみたいなの。焦らずに、ゆっくり治していきましょう」
ドロシーの部屋には、彼女専用の机がある。ベンとケイトを飾っているところだ。
しかし何度か座ってみたことがあるだけで、まともに使ったことはない。学校に行けず、与えられた課題もベッドでやっていた。
その隣にある窓からは、湖畔が一望出来る。学校が終わって、あるいは休みの日に、友だち同士で遊ぶ子どもたちの姿をよく見かけた。
もちろん家族で、ピクニックに来る姿もある。それが羨ましくて、きっと初めてだろう。家の目の前で良いから、外でお弁当を食べようとねだった。
しかし叶わなかった。誰が悪いわけでもない。ちょうどそれを言ったのは、ドロシーの調子があまり良くないタイミングだった。
きっと体調のせいで、寂しさが増してしまったのだろう。パパもママも、次に体調が良くなったら必ずそうしようと約束してくれた。
しかし結局、それも実現しなかった。二人は忙しさで、忘れてしまったのだろうか。二週間経っても、一ヶ月経っても、その話がされることはなかった。
最初にねだったのを断る時、パパとママは悲しそうな顔をしていた。それを自分たちから言い出すことも出来ないなんて、相当に負担がかかっているに違いない。
ドロシーはそう考えて、もうなにかをねだることは絶対にすまいと心に決めた。
パパとママが、仕事なりなにかほかのことでも、どれだけの手間を抱えていたのかドロシーには分からない。
「お二人ともとても忙しいのに、ドールのことも気遣っていて、素晴らしい両親ですね」
と。住み込みの女性が、繰り返すのを聞いていたくらいだ。
実際に二人の生活は、自宅には眠るためだけに帰っているような格好となっていた。住み込みの女性から、便利の良いところに仮の住居を持ってはどうかと勧められるのも聞いている。
「私は悪い子だ……」
ドロシーの想いは、静かに、分厚く、降り積もりつつあった。
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