第52話:独り立つドール

「誰か、誰か……」


 息苦しくでもなったのだろうか。女王は顔を覆っていたベールを、自ら剥ぎ取る。床にそれを叩きつけると、こちらに向けて両腕を突き出した。

 女王の素顔を見たポー。びくっと一瞬、身体を強張らせる。「あれが――」と呟いて、私を振り返った。潤んだ目が、そこにどれだけの想いを湛えているのかと私を怯ませる。


「そう、あれが今のドロシーなの。でも間違いなく、ポーの言葉は届いてるよ」

「うん、頑張るわ」


 これは死に瀕した姿だと、告げるべきだっただろうか。女王はなぜか、自身をドールだと信じきっていて、ドロシーとしての記憶がどうなっているのか分からないことも。

 頑張るわと決意を新たにしたポーを前に、まだ私はそんなことをぐずぐずと考えていた。

 ポーは賢い。私が言わなくても、もう理解しているのかもしれない。どちらにしても、ゆっくり話している猶予などないのだけれど。


「誰か、私を――」


 小さく呻くように、腕を突き出したまま女王は向かってくる。来るなと言っていたのに。

 距離が縮まると、当然にビスクドールの作る壁も迫ってくる。実体のない光の板のように見えたそれが触れると、物理的な感触があった。

 いやそれどころか、女王が踏み出す度に、私たちをぐいぐいと押す。思わず押し返そうとしても、全く抵抗できない強さがあった。

 女王の立つ場所まで、距離にすればほんの十歩ほど。それが到底渡ることの出来ない、深淵の縁に思える。


「誰か……」

「女王さま!」


 女王を気遣う声は、二つ同時に上がった。

 一方のベンは、ルナとハンスがしがみついて動きを止めようとしている。それを燕尾服の上着を脱いで、引き剥がした。

 もう一方、ケイトはライオンとトラたちに囲まれて、睨み合いを続けている。そこでどこかから取り出されたのは、鞭。

 ヒュンと唸りを鳴らして、長いリーチが一瞬に猛獣たちを退かせる。


「女王さま、気持ちを確かに!」

「私たちが付いております!」


 二人は女王のすぐ傍へ駆け寄ろうとした。けれどもそれも、壁に阻まれる。図らずも、彼らと協力して壁を押し返す格好になった。

 それでもびくともしない様子に、ジョーを始めとした猛獣たちも、ネズミたちも全員が壁に取り付く。

 それでようやく、前進が止まった。


「誰も、誰も、誰も――」


 進めないことを悟った女王は顔を両手で覆い、また苦悩の格好を見せる。呪いでもかけているような、同じ言葉の連続。

 その果てに、ひと声。天を穿つような勢いで、鋭い叫びが突き通る。


「私を守りなさい!!」


 仰いだまま、女王は動きを止めた。わなわなと震えているから、死んでしまったというのではなさそうだ。

 壁は健在。誰も動かない。なにも言わない。それはきっと、みんな私と同じに、なにかおかしいと気付いたのだ。

 まず大広間の灯りが、一つ明るさを落としたように感じた。もともと太陽の照らす屋外のような明るさだったから、不便はなにもない。

 けれどそれは、照明装置の作り出した光ではないのだ。それがどうして、薄暗くなったのか。

 次に起こったのは、激しい雨。屋内に居る私たちには、どうということもない。でも窓から覗く景色は、激しく降りつける雨にぼやけてしまう。

 さらにはそこから、白い湯気がたくさん湧き出した。そうだ、この国の雨は熱い紅茶なのだ。


「おい――どうなってるんだ」

「私もこのような女王さまは、初めてです。分かるはずがありません」


 ジョーは隣り合うベンに聞いた。しかしヒントになる情報さえもないらしい。


「ぐがっ!」


 不意に、誰かの声がした。女性っぽいと思って、そちらを見る。

 やはり。床に転がっているのは、ケイトだ。もう起き上がりながらも、顔は自分の足下の方向へ向けられている。

 そこに居るのは、赤いほうのビスクドールたち。二人並んで、床のすぐ上をケイトの腰辺りまでさっと飛んで、彼女を軽々持ち上げた。


「な、なにを!」


 喚くのには構わず、二人は無造作にケイトを投げつける。彼女はそのまま柱に衝突して、再現の難しい潰れた声とともに崩折れた。

 それを見届けると、二人は手近に居た狼を抱えて同じように投げる。次はトラを、その次はライオンを。

 ビスクドールたちは、この場の誰をも手当たりしだいに投げつけようとしているようだ。


「勘弁しろよ!」


 この中で一番に力が強いのは、ジョーだろう。彼は他のライオンと三人がかりで、ビスクドールを取り押さえようとした。

 でも結果は、先の子たちと同じになる。

 そこでようやく、ケイトが起き上がった。気絶でもしていたのか、頭を軽く揺すっていた。

 他のぬいぐるみたちは、柔らかいので被害が軽い。すぐに起き上がって、みんなで女王から距離を取る。

 それは相談したわけでなく、分かりやすい危険からそれぞれが離れただけだ。結果として、示し合わせたみたいになってしまったけれど。

 ビスクドールたちは、これを追ってまでは来ない。黒い二人の作る壁から二歩ほど外までしか離れず、じっとこちらを睨みつける。


「これはどうしたものかな」


 誰もが息を呑み混乱する中で、晩ごはんはなにがいいかくらいの、気軽な雰囲気を纏った言葉。

 それが逆に、なにかアイデアでもあるのかとみんなの視線を集める。

 その当人ハンスは、全部の視線に手を上げて愛想良く答えると、指を一本立てて言った。


「みんなで考えようじゃないか」


 呑気なセリフ。みんな額やらこめかみやらを押さえて、「なんだよ」「期待させて」と、文句は抑えなかった。

 女王は立ち止まっている。その間にどうするのか考えないといけないのだけれど、事態はまだ進み続けていた。

 城の外から、大きなざわめきが響いてきたのだ。

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