第51話:儚くも堅牢な壁
「ごめんなさい!」
ポーの口から、絶叫が迸った。
両手を握りしめて、たくさんの気持ちをそこで堪えるように震わせて。
「私、たった一週間で諦めてしまったの! あれからずっと、行けば良かった! 大きな声を出して、あなたを呼べば良かった!」
「あなたたち、なにをしているの! しゃんとしなさい!」
ポーの声が、女王の身体に絡みつく。それが本当に見えるわけではないけれど、鎖に縛られたように、振りほどこうと女王はもがく。
その中で苦し紛れなのか、ヒステリックな怒号。それが物陰に潜もうとしていたカメたちの、背中を打つ。
彼らは電撃でも受けたように、びりびりっと身体を震わせると、これまでにない不気味な視線をこちらに向けた。
「でもこれだけは、信じてほしい。私、ずっと心配していたの。ずっと、お友だちになりたいと思っていたの。きっと迷惑なんだって勝手に決めつけてしまったのを、後悔しているの」
ポーの視線は、一瞬たりとも女王から外れない。だからきっと、ほかのなにも見ていなかったのだ。
カメにはおよそ似合わない疾走で近付き、高く飛び上がって落ちてくる姿も。それが甲羅を前面に向けた、体当たりであることも。
それを私たちは、平然と見ていたわけではない。カメたちは、全部で五十ほども居るだろうか。それが一斉に、残らず襲いかかったのだ。
当然にルナや私も標的になって、避けつつポーに近付くことは難しかった。
それが出来たのは――
「お嬢さん!」
と。
大切なビウエラを頭上に捧げて、ポーを押し倒すように庇った、陽気なおじさんだけだった。
ベコベコと間抜けな音が響く。それはとても重みを感じさせるもので、受けきったビウエラはネックが折れてしまう。
幸いと言っていいのか、ハンスはそれ以外に被害を受けていない。倒れたポーもむくっと起き上がって、折れたビウエラに驚きを見せる。
「ハンス――」
「いいってことだよ。それより今は、女王さまと話さないと」
その瞬間まで、ハンスはビウエラを見つめて動けないでいた。でもそう言った途端に、こんな物はどうだっていいと見せつけるように、ぽいっと脇へ放り投げた。
形のいい、ほわほわとしたポーの眉が寄せられる。それから一度、唇を噛んでハンスに背が向けられた。
「ドロシー! 私、あなたのところへ行くわ!」
「来るな! あなたたち! パパ、ママ! どうにかしなさい!」
ポーが一歩踏み出すと、またカメたちは距離を取るために離れた。
自ら襲いかかろうとするベンには、ルナが両腕を押さえつけて対峙する。
「お、お、狼たち! それに、あと誰か居るだろう! サボるんじゃない!」
ケイトは慌てて周囲を見回して、命令を聞く相手を探した。そこにジョーが向かっていく。
「なあ、あんた。どうして鼻の利く俺たちが、いつまでもこの子たちを見つけられなかったのか、おかしいと思わないかい?」
「な、な、な、なんだと?」
「俺たちはな、飽き飽きしてるんだよ。命令されることにじゃない。なにをしたいのか、分からなくなっちまった女王さまを見るのにだ」
その言葉を裏付けるように、トラと狼たちは私たちを取り囲む姿勢をやめて、ベンとケイトに唸りを向ける。
ライオンだけじゃなく、みんな寝返ってくれていた? だとしたら、激辛水をかけたのは悪いことをしてしまった。
そう思う私の前に、ぼとっとなにかが降ってきた。
サルのぬいぐるみたちだ。布でぐるぐる巻きにされて、動けなくなっている。
さらにそこへ、天井に吊るされていたはずの飾り布が、だらんと垂れ下がった。
そこを伝って降りてくるのは、ミントとパインを先頭にしたネズミたちだ。
「ああ! ああ! みんな私のところから居なくなる! 誰も私を守ってはくれない! ああ! ああ!」
女王は頭を抱えて、よろよろと歩き回った。唯一まだ動けるカメたちも、そのせいか甲羅に閉じこもってしまった。
「ドロシー、違うよ。みんなあなたが好きだから、守ろうとして、傍に居ようとして苦しんでるんだよ」
「来るなぁっ!」
あと数歩の距離まで、ポーは近寄る。手の空いた私は、その後ろから着いていった。もしもカメや、ほかのなにかが邪魔をするようなら、水鉄砲に装填している透明の液体を撃つ覚悟をして。
「きゃっ!」
握手も出来ようという距離に、足を踏み入れようとしたポー。その身体が、撥ねつけられるように宙を飛んだ。
咄嗟に水鉄砲を落として、私は受け止める。さすがに支えきれなくて、後ろに倒れてはしまったけれど。
「誰か――誰でもいい! 私を、私を守りなさい!」
金切り声。歯医者さんのドリルを連想する、激しい高音の声。なにかの限界を一つ超えたような、切羽詰まった強迫的な声。
剃刀でも撒き散らすように、女王は人を侮蔑する言葉を吐き始めた。そのすぐ前に浮いているのは、黒いチェッカー柄のビスクドール。
その二人は両手を前に突き出して、それが壁だと示しているかのようだ。
いや、実際にそれはある。ぼんやりと暗い色の、こちらとあちらを隔てるセロハンのような薄い壁が。
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