第45話:待ち望むココロ
ドロシーは、時計を抱えたマギーを初めて見た時に、とても褒めてくれたそうだ。
あなたが居れば、私は時間を間違えることなんてないわね。任せるからね。
そう言って頬ずりしてくれたことが、マギーの矜持になった、と。懐かしんではにかむように、けれどもつらそうに。表情のないピンクのウサギから、感情が溢れ出る。
ちょっとした首の動き。両手を合わせたり口元に運ばれたり、落ち着かない手や腕にも滲み出ている。
そこまで想いの強い物だからこそ。
「私自身、驚いているけど。いつ取り上げられたのか、はっきりしないわ」
マギーは時間の感覚に、絶対の自信があるようだった。それこそもう時計などなくとも、そのまま代わりが出来るほどに。
なのにその部分だけ、いつという感覚だけが失われていた。
「私たちぬいぐるみにも、人間と同じように記憶というものがあるのだとしたら、ね」
「それはね、私たちにはよくあることなんだって。心を守るためなんだよ。だから、大丈夫」
「心、ね。なるほどだわ」
深く頷いたマギーは、「随分と昔のことだから、そのせいもあるかも」と付け足した。
それで済ますには、それよりも前のことは全て忘れているくらいでなければならないのだが。
しかしルナは、そうと言わない。「なるほどだね」と受け入れる。
「……あれ、でもごめん。昔?」
納得したことにはしたものの、よく考えるとこの世界が出来たのは、数ヶ月前だと聞いたばかりだ。
さすがにそれを昔と呼ぶには、無理がある。矛盾を追求したいわけではなかったが、そこにもなにか事情があるのかもと思った。
単にマギーが言いわけの構築にミスしたのであれば、笑って済ませばいいだけだ。
「ああ――まだ言ってなかったわね」
「やっぱり、まだなにかあるんだ」
城の外には、自然の豊かな広大な世界がある。その中へ、七つの枝を持つ燭台を頂いた山があるのだとマギーは言う。
そのキャンドルに灯る火は、順に隣へと移っていく。それはあちらの世界の一日ごとで、こちらでは一年に一度のこととなる。
時間の流れ方が違う。この世界では、百年近くが経っているのだと、マギーの説明を聞いて、ルナにはこの世界の出来た理由が分かった気がした。
「日本にはね」
「日本?」
「私は、私たちの物語が日本でどんな風に読まれているのか、調べに行ってるの。そのために、日本の言葉も勉強しているの」
へえ、と。マギーは感心した素振りだけをして、次の言葉を待っている。もちろんそれに、勿体を付けることなどしない。
「一日千秋の想い」
「イチジ……なんですって?」
「大切なこと、愛しい想い。そんなものを待つ時間は、季節が千回も巡ってくるのを待つほどに思える。そういうことだよ」
「千回――」
呟いて、マギーは沈黙した。
その言葉は、一日を千年にも感じるという意味になる。ルナはこれを知った時に、とても感動したのだ。日本人は、なんと豊かな感覚でこの景色を見ているのかと。
けれどそれは、イングランドに生まれた自身にもとてもよく理解出来る。週末にはパパがピクニックへ連れて行ってくれるとなった時、約束してからの一日は普段の何倍にも感じたものだ。
――この世界は、その言葉通りではないか。きっとマギーも、同じように感じたのだろう。
マギーはなにかを楽しみに、過ぎない時間を焦れったく思ったことがあるのだろうか。
きっとあるに違いないと、ルナは予想する。少なくともマギーは、ドロシーのことを心から愛している。
でなければ彼女は、とっくにこんな場所から出ていっているに違いない。
「私、ドロシーをどうにかしてあげたいよ。この世界に閉じこもっていないで、パパとママに会わせてあげたい」
「……ありがとう」
ルナの声は、大きすぎたのかもしれない。礼を言うマギーの胸に響くには、十分な効果があったのだろうが。
「誰?」
眠っていたはずの、少女の声。見ると上半身を起こして、辺りを見回している。
それがすぐに、ルナの視線と衝突する。
「マギー。話したわね」
「じ、女王さま――」
まだ寝ぼけた表情であるのに、少女の語気は鋭い。肉体と精神が、バラバラに動いているかに見える。
眠い目をこする手は、ポーがやるのと同じように幼い動作だ。
「そこを動くな」
「ひっ」
だのにやはり、命令することに慣れた大人びた大人の声が響く。
のそり。少女がベッドから降りて、ゆっくりとこちらへ歩き始める。それは徐々に歩調が早まって、それに伴うように白い寝間着は赤いドレスへと変貌していく。
途方もない背丈の巨人であったものが、段々と縮む。大きなままよりは良いのだろうが、それはそのままこの世界の支配者への変化だ。
当然にルナとマギーも、それをじっと眺めていたのではない。
「ルナ、逃げましょう! ただ話してどうにかなる人ではないわ!」
「う、うん。どこへ?」
先に女王が入ってきた扉。それはそのまま残っている。問うまでもなく、そこへ行くしかなかった。
「侵入者です! 捕まえなさい!」
扉を開けて入った部屋は、ソファなどの設置された応接室のような場所だ。その天井が全てスピーカーにでもなったかのように、女王の枯れた声が落ちてくる。
「兵隊とか居るの?」
「たくさん居るわ」
「それは困ったね」
いまの命令が城じゅうに響いたなら、そのたくさんの兵隊が動いているはずだ。
悩んでも仕方がない。入ってきた以外の出入り口は、もう一つしかないのだ。扉を開いて外を見ると、まっすぐな廊下がある。
そこをおもちゃの兵隊が列を成して迫ってくるのが見えた。
「あー、たくさんだね」
一度、扉を閉めて考える。
なにをするべきなのか。そのためには、どうしたらいいのか。
「マギー。やっぱり時計を探したほうがいいと思う」
「え、えぇ。そうなの?」
「うん、でもこの世界は広いんだよね? それにあんなにたくさん、兵隊が居る」
「ええ」
「だから、応援を呼んでよ。マギーはあっちの世界へ、自由に戻れるんでしょ?」
返答を待たず、マギーをソファの下へと押し込む。
この場をどうにかすることは出来るかもしれない。だが、ずっとは難しい。
「応援って!?」
「ポーは、ドロシーと仲良くしたいんだよ。だから呼ばなきゃ、私が怒られる。それと、私の友だちが一緒に居るはずだから、連れてきて。ヒナっていうの」
ヒナならば、きっとこの無茶な要望にも答えてくれる。いつだってあの親友は、ルナの気まぐれに笑って付き添ってくれるのだ。
兵隊たちが、扉の外に殺到する。ガタガタと鳴る扉を押さえて、呼吸を整えた。
「ワン、ツー……スリー!」
勢い良く扉を開け、バランスを崩した兵隊たちの上を踏み越える。「ごめんね!」と叫びつつも、振り返る余裕はない。
どこか外に出られそうなところはないか。あまり高くない場所なら、窓から飛び降りるのでもいい。
しかしそういった場所は見つからない。角を折れる度に、追っ手が増えているように思える。
ちらと見ると、木の兵隊とカメのぬいぐるみ。数が少なければ微笑ましい光景なのかもしれないが、これはあまりに多かった。
走り続けると、遠くにバルコニーのような場所が見えた。運が良ければ、あそこから飛び降りることが出来る。
「やった――?」
どうやら今日の運勢は、あまり良くないらしい。
マギーの言った通りに、遠くまで草原と森と山々の連なる広い世界。見間違えようもない、キャンドルも見える。
そこから下を覗くと、ビルの高さで四階ほどもあった。
「お疲れさま。案内がなくて、不安だっただろう?」
「あなた――」
おまけに、正面からはあのピエロが姿を見せた。それで立ち止まると、兵隊やカメも速度を落として包囲の態勢に入る。
「私をどうするの」
「なに、この国の仲間になってもらうだけのこと。女王さまの力でね」
ピエロは、ついと首を動かして後ろを気にする素振りをした。そこへ現れたのは、女王だ。
「ありがとう、ママ。捕まえてくれたのね」
「ママ……?」
女王は、ルナの疑問に答えない。手にした小さな棒を振りかざし、先端に光を灯す。
それに気を取られて、近寄るカメたちに気付かなかった。何匹もがまとわりついて、腕と脚を拘束される。
「なにを――むぐっ!」
口の中に、なにか固形物を放り込まれた。吐き出さなければと、舌や頬の肉を動かす。が、それがむしろ僅かな欠片を喉の奥へと運び込んだ。
「ここで見たこと、聞いたこと。全て忘れなさい」
女王の言葉を聞いた瞬間に、ルナの視界はぼやけてしまった。それが同時に放たれた、怪しげな光のせいなのか、自分になにが起こったのかも、もうルナに考えることは出来なかった。
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