第42話:消えるダイアナ

 ネズミたちはダイアナの周りで、くんくんと匂いを嗅ぐ。それが彼らの、心配している時の行動なのだろう。


「ダイアナ! ねえダイアナ!」

「▲▲▲! ▲▲▲!」


 小さな声なのは変わらない。でもそれが、その声だけを聞いても分かるほど苦しみに悶えている。

 なにか言おうと、意思を伝えようとしているのでなく、口から勝手に漏れ出てくる苦しみの絞りかす。


「ダイアナ――しっかり!」


 胴体と腕と脚と、それぞれ別の生き物がてんで勝手に暴れているようだ。

 それでは怪我をしてしまいそうなので、両手でしっかり押さえつける。


「▲▲▲!!」


 一層鋭い叫びがあって、ダイアナの身体から、くたっと力が抜けた。


「ダイアナ――? ダイアナ!」


 嫌な予感がして、最初はそっと、次は激しく、小さな彼女の身体を揺する。

 それでも、指一本さえ動く気配がない。

 ――と。


「な、なに?」


 ドライアイスに、たっぷりの熱湯をかけたみたい。もうもうと白い煙が湧き立ち始めた。

 熱くも冷たくもない。どちらかと言えば、少し冷えているだろうか。

 ネズミたちは驚いて距離を取る。わたしは手で扇いで、視界を得ようとした。

 でも煙の勢いは、尋常でない。爆発と言ってもいいくらいの煙の塊が顔を打って、辺りは完全に白く包まれてしまう。

 顔を背けた時に、ダイアナからも手を離してしまった。


「ミント、パイン! ソーダ! どこ!?」

「君の近くに居るよ! でもなにも見えないな。オイラたちは匂いで分かるから平気さ、心配するな!」

「ヒナこそ、むやみに動くと危ないわ!」

「うん、分かった。じっとしてる」


 小さな彼らが動揺してはとも思っていたのだけど、逆に指示されてしまった。でも言う通りなので、素直に従う。

 ほとんど音もなく湧いてくる煙は、それほど時間を待たずに止まった。ネズミたちに窓の方向を聞いて、そちらへ煙を追い出していく。


「ふう――なんとか見える」


 うちわも持たずにでは、それもなかなか捗らなかった。

 それでもどうにか、ちょっと靄がかかったくらいにまでは視界が戻って、足元から見上げてくれているネズミたちも見える。


「ダイアナ。ダイアナはどうなったの」


 動いていないつもりだったのに、テーブルから何歩か離れている。

 まだ宙のところどころに残る、濃い煙の塊をはたいて、元居た位置に足を進めた。


「誰……」


 テーブルの上。ダイアナが横たわっていたはずの場所に、人影がある。

 その誰かはやはり横たわっていて、ダイアナに危害を加えた何者かが、おどけてそうしているのかと思う。

 近づこうとしていた足を急停止させて、ゆっくり後退る。

 ダイアナは捕まってしまったのか。次にはなにをするのが目的なのか。ダイアナを取り返すことは出来るのか。逃げるほうがいいのか。

 逃げる? ダメだ。戦わなきゃ。

 逃げてばかりじゃ、なにも解決しない。ネズミたちと、約束したばかりじゃないか。

 唾をごくりと飲み込んで、両足を肩幅に開く。いつでも取り出せるように用意していた武器をリュックから抜き、両手に構えた。

 激辛の香辛料を溶かした水を装填した、電動水鉄砲だ。マシンガンというのか、映画やアニメで見た気がする格好を見様見真似で。


「そこに居るのは誰!」


 答えはない。

 こちらを嘲って、ふざけているにしてはおとなしすぎないだろうか。

 対抗すると決めると、そんなことにもすぐに気が付く。


「そのままおとなしくして! 当たると、ただじゃすまないわ!」


 装填した水を作っている時でさえ、目が痛くなるほどだったのだ。目や口に当たればもちろん、たぶん皮膚の薄いところでも相当に痛いと思う。

 そこまで考えて、はたと気付く。

 そこに居るのは人間だ。人形ではない。身体の大きさからして、ポーでもない。

 するとこれは……?


「う、うう……」

「あ――」


 呻き声がした。

 間違いない。この声を聞き間違えたりはしない。表面だけの、ケイトの変装とも違う。


「ルナ!」

「あうぅ……」


 水鉄砲はテーブルに置いて、まだ寝転んだままのルナに飛びつく。

 すると、目を閉じて苦しそうに喘いでいたルナは、薄く目を開けて私を見た。


「ルナ! 私だよ! 雛子!」

「あ、ああぁぁぁ……」


 ゾンビの唸り声はこんなだろうかという、低いカラカラの声。ルナの視線はきろきろと動いて、私を判別しようとしている。

 私が分からない?


「ルナじゃ、ないの――?」

「おい。大丈夫なのか、この子」


 パインが私の肩から、ひょいっと顔を出した。それに驚いたのか、ルナは「うあぁぁ」と顔を掻きむしるように暴れ始める。


「なんだか混乱しているみたい」

「お菓子を食べたんじゃないか?」


 ソーダとミントの言葉に、なるほどと頷けた。こちらのお菓子を食べて、命令を受けたあとの気持ち悪さといったらなかった。

 私はほんの短い間だったけど、ずっとその影響下にあったネズミたちが言うのだから、信頼性は高い。


「ルナ。これ、食べて」


 缶ケースにこびりついていた、練ったお芋を指でこそげとった。どれくらい食べればいいのか分からないけど、味見には多すぎる程度にある。


「ううぅ……」


 ぶんぶんと、頭を振るばかりのルナ。仕方ないので、指をそのまま、彼女の口の中へと突っ込む。


「痛っ――!」

「ヒナ!」

「うん、大丈夫。ちょっと噛まれただけ」


 噛みちぎろうというくらいの力だった。でも、気が立っている犬や猫でもそうだ。下手に手を引こうとすると、余計に危ない。

 反対の手で顎を押さえつつ、突っ込んだ指は、なお奥のほうへ。


「…………ぅげっ!」

「ルナ?」


 私を押しのけようと、腕が動きかけていた。でもすぐに、動きが止まる。腕だけでなく、身体じゅうを強張らせていた力が抜ける。

 げほげほと、むせるルナ。それを見て、なんだか分かってしまう。帰ってきたと。


「――ひ、ヒナ? げほっ」

「お帰りなさい、ルナ」


 私は大好きな友だちの頭を抱きかかえて、震える息を大きく吐き出した。

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