第38話:女王さまの魔法
「この世界の時間がゆっくりっていうのも、同じこと?」
「時間? さあ、意識したことないわ」
「……無理よ。あっちと行き来出来るのは、私とあの二人しか居ないの。ずっと居る子たちに取っては、ここが当たり前だもの」
リボンを揺らして、ソーダは首を傾げる。じっと見つめてくる大きくて真ん丸な目が、とても可愛い。
フォローしてマギーが言ったのは、なるほどだ。井の中の蛙は、そこ以外のどんな物を知ることも出来ない。
「じゃあマギー、教えて。怖いのは分かる。でもなにがどうなってるのか分からないと、なにが出来るのか考えることも出来ないわ」
分かっている。そう示すように、マギーは大きく二度、頷いて見せた。それから胸に手を当てて、深呼吸をするように宙を見上げる。
「うん、話すわ。時間を遅くさせているのは、女王さまで間違いない。それはここで一年分を過ごしても、向こうの世界では一日しか経たないほどよ」
「そんなに? どうして――どうしてドロシーは、そんなことを望むの」
この世界のルールは、全て女王の望んだこと。そうであれば、ゆっくりとした時間に身を置いて、どうしたいのだろう。
そんなことをしたって、どんどん取り残されるだけのように思えるけれど。
「取り残される――まさか、女王のあの姿は」
「…………ええ」
不意に思いついた妄想。それはとても残酷なものだ。目を伏せたマギーが、顔まで逸らす気持ちも分かる。
「この世界が生まれたのは、ポー。あなたがドロシーの部屋に来た、あの日よ。あれからずっと、ドロシーはここに居る。あれからここでは、百年近くも経っているわ」
「百年――?」
やはり。
私は顔を手で覆って、目眩のような不快感に耐えた。誰が意地悪をしたわけでもない。ドロシー自身がそうしたと知っていても、どうしてそんなことをと問わずにはいられない。
ポーはすぐには、意味を解せなかったようだ。それが普通だろう。私だって先に女王の姿を見ていなければ、そんなバカなと言ったに違いない。
「百年って、どういうこと! ドロシーはそんなにここへ居るの? それじゃあ、お婆ちゃんになっちゃうわ!」
「ごめん、ポー。言ってなかったけど、私も見たの。このお城の女王は、ポーみたいに小さな女の子じゃなかった」
「ヒナ……」
そこでガチャリと、空気を読まない金属音がした。
ああ、そうか。錠を開けてくれたんだ。空気を読まないなんて思ったのは、訂正しなければ。
ソーダを見ると、小さく何度か頷いた。「助かるわ」とお礼を言ったけれど、この話を打ちきって進もうとは思えない。
まずポーのショックが回復してからでないと、そもそも無理だろう。
「なぜそんなことを望んだのか。それは私にも分からないわ。でも今もドロシーの身体はベッドに眠ったままで、心だけが年老いている。このままいけば、ドロシーの心が先に朽ちてしまう」
「心だけが――? ドロシーが死にそうっていうのは、そういうことだったのね」
「そう、しかもそれは間もなくよ。キャンドルの火が、消えそうだったから」
キャンドルの火。さっき見た時、どうだっただろう。思い返すと、たしかに荒々しく勢いを増していたようにも思う。
位置ばかりを見ていたから気に留めなかったけれど、あれが最後の灯火というものなのか。
「ドロシーが死んじゃうの? ダメだよ、そんなの! ねえ、助けてあげられないの⁉」
「ごめんなさい。方法はあるかもしれない。でも分からないの」
「そんなの酷い! マギー! あなたが来いって言ったのよ! 私ならドロシーを助けられるって! 早く! 早く教えて!」
「お、落ち着いて! 今すぐじゃないから! まだ考える時間くらいは、きっとあるから!」
マギーを持つポーの両手は、震えていた。それはそのまま抱きしめられて、「酷いよ」と至極小さな声が、繰り返しこぼれ落ちる。
ヒントさえなにもない。
そんな中で、どうやってポーを慰めればいいのか。差し出しかけた手を、力なく下ろすしか出来ることがない。
「△▲▲!!」
細く、小さく、鋭い叫びが突然に発せられた。部屋の中を見回っていたダイアナが、ポーに向かって猛然と飛び込んでいく。
ボフン。
聞き覚えのある、少し間の抜けた感もある音。ポーの直前で身体を精一杯に広げ、彼女を庇うようにしたダイアナ。赤と黒の中間のような、毒々しい色の雲に包まれてしまった。
「ダイアナ!」
一瞬遅れて、雲の中から小さな身体は床に落ちる。雲そのものも、すぐに消えた。ダイアナは気絶しているのか、ぐったりとして動かない。
まさか、死んで――。
いやそんなこと、と。助け起こすために、手を伸ばしかけた。
「私は、噂話が嫌いです。中でも、私のことを話されるのがね」
その声は、頭上から聞こえた。天井にある格子窓を見ると、そこにベールをした女性の姿がある。
「じ、女王さま!?」
「女王……」
ソーダは慌てふためいて、自分で踏み潰していたハンスの帽子の中へと隠れようとした。
けれども慌てすぎだ。足を踏み外して、床に落ちてしまった。
「裏切り者には、永遠の時を」
女王の手に、鉛筆くらいの短い棒がある。きらきらと装飾がされていて、魔法の杖というやつだろう。
その先端に、光が増していく。それでなにを察したわけでもない。考える前に、私の身体は動いていた。
床に居るソーダを覆うように、私は四つん這いになった。その背中へ、じりっと熱いものが刺す。
「ぐぅっ!」
ただそれは一瞬だった。すぐに視界が雲に包まれて、手足の縮む気色の悪い感触で倒れ込んだ。
「ヒナ!」
「逃げなさいポー! マギー、ハンス! ポーをお願い!」
「いやあっ! ヒナ! ヒナぁっ!」
このまま居ては、全員が人形にされてしまう。その私の意図を察してくれたマギーは、ハンスを蹴飛ばし、ポーを引っ張って扉の向こうに消えた。
視界が歪む。
それでも見ていると、女王は「チッ」と舌打ちを小さく落として、どこかへ行ってしまった。
おそらくは、ポーを追っていったのだ。
「痛い……身体が……」
激しい痛みが全身を襲う。耐えるのが精一杯で、起き上がるのは到底無理だ。
そこになにやら、賑やかな物音が聞こえた。なにか金属を、がちゃがちゃとぶつけているような。
そちらへ目を向けると、そこにあるのは入り口の鉄格子。誰かがそれを、閉じたようだ。
痛みで幻でも見ているのだろうか。その誰かが、どうしてそこに居るのか。願っていたことだけれど、目を疑わずにもおれない。
「ルナ……」
ミドルの金髪を揺らして、私の友だちは、にこりと笑った。
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