第29話:逃走そして逃走
広い廊下を埋め尽くすように、群れになっているのはカメだ。この世界に来てすぐ、ポーを連れ去ろうとしたのと同じような。
「探せ! 人間を自由にさせるな!」
「裏切り者を許すな!」
口々に色々なことを言っていたけれど、耳に残ったのはそんなセリフだ。
人間を、と言っている割りに、私の足元を素通りしていく。数えるのも難しい、きっと百や二百くらいが過ぎ去った。
「目当ては私じゃなかったみたい。良かったね」
「△▲▲!」
ほっとしてダイアナに言うと、同意のあとにすぐ否定があった。小さな手が、私の後ろを指さしている。
「どこへ行くつもりです、お嬢さん!」
「おとなしくするんだ!」
うわ、気付かれた――。
燕尾服の二人は、互いの服を引っ張り合いながら走り寄ってくる。考える間もなく、カメたちが来た方向に私は走った。
長い廊下。横道も曲がり角も、扉もたくさんある。扉の前には兵隊が必ず居るし、立ち止まって確認する余裕も、もちろんない。
なによりあの言葉を聞くと、捕まってしまう。
「女王さまの命令です! お嬢さん、足を止めなさい!」
言われてしまった。女王の意思が絶対のこの世界では、それだけで私の足が……。
あれ、動く。
「なんだ? お菓子を食べさせていないのか!」
「食べさせましたよ!」
いや、食べさせられてはいない。私が勝手に食べたのだ。
それはいいとして、どういうことだろう。この世界のお菓子をそのまま食べると、女王の言いなりになるルールのはずなのに。
女王の言いなり――そうか。女王が、元の場所に帰れと言ったからだ。本人が私に興味ないと言ったのに、代理の彼らがなにを言ったって、上書きされるはずがない。
「ダイアナ、逃げられるよ!」
「△△▲!」
「分かった、あそこだね!」
角を曲がるのは、もう何度目だったか。またさっきの場所へ戻れと言われたら、難しいかもしれない。
それくらい懸命に走る途中で、ダイアナが叫んだ。それでも小さな声だけれど、彼女にしたらきっと、喉が張り裂けるくらいじゃないだろうか。
言っているのは、一つだけ半開きの扉だ。兵隊の姿も見えなくて、隠れるのにちょうどいい。
もしかするとその兵隊が中に居るのかもだけど、一人だけならいざとなれば。
「……はあ……はあ」
扉の中は、少し薄暗い。樽なんかが積まれていて、倉庫のような部屋。
飛び込んで扉を閉めて、物陰に隠れる。息を殺したいのに、なかなか治まらない。
「お前はどうしてこうなんだ! いつも偉そうに言って、どれもこれも詰めが甘い!」
「そこまで言うなら、君もだろう! あの女の子を、ドロシーの部屋に入れるなんて。しかも逃げられたままじゃないか!」
「あ、穴がどこに繋がるかは、私の操作じゃない。そこまで言うんだな。それなら私も、とことん言わせてもらう。かれこれ三十年ほども前……」
ケンカをする声が近付いてきて、部屋の前を通り、また遠ざかっていく。
「やり過ごした――みたい?」
「▲△△」
ダイアナと顔を見合わせて、安堵の息を深く吐いた。
大きな声を出せば、まだ聞こえるかもしれない。すぐに出ていけば、ちょうど戻ってきたりするかもしれない。
少しの間、ここで隠れているべきだろう。
木箱や樽に囲まれていると、なんだか秘密基地みたいな気分になる。ここならちょっと安心だという気持ちになって、それが笑いに変換されてしまった。
「あはは。怖かったね」
「△△△」
――カタン。
苦笑も束の間。なにか物音がした。この部屋の中だ。
えぇ……またなにか居るの? やっぱり兵隊かな。
小さな家が一軒分くらいの大きな部屋だけど、誰かが居るなら、私たちが入ってきたことに気付いていないはずはない。
あの兵隊が一人だけなら、私でもどうにかなると思う。リュックからバスタオルを出して、捕まえる覚悟を決めた。
「ダイアナ、離れちゃダメだよ」
小さな頭が、こくんと頷く。リュックサックの、手提げ用のつまみに彼女はしがみついた。
本当は中に入ったほうがいいのかもしれないけど、いざという時に自由に動けないのもまずいかと判断したのだ。
――じり、じり、と。
足を滑らせても、ほとんど音がしない。砂も埃もないということだろう。でもそれは、相手が動くのも同じということになる。
私がそこだと思っている場所から、もう移動しているかもしれない。
積み上がった木箱の隙間から、動くものがないか油断なく警戒する。なおかつ、距離を縮める。
普通に歩けばほんの五、六歩の距離が、とてつもなく遠く感じた。
「そこに居るのは誰!」
「きゃっ!」
誰か。いや間違いなく女の子が、声を上げた。しかし姿はない。
そこにあるのは、大きな布袋。大人がひとり、すっぽり入れそうだ。
「大丈夫。出てきて」
二重。いや三重の意味で、ほっとした。袋の中の女の子も、ようやく私に気付いたらしい。
袋の口を探す、ごそごそとした動きがあって、見慣れた顔が三つ飛び出てきた。
「迎えに来てくれてありがとう。ポー、マギー、ハンス」
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