第25話:ためらいの廊下

 シルクハットが目深で、顔がよく見えない。見えたとしても、少し前と何ら変わらないだろうけれど。

 でも見えないことで、余計になのかもしれない。なんだかとても、不気味だった。


「どうしてだ」

「どう、して?」


 たまたまだろうか。口調が荒い。

 ゆらゆらと落ち着きなく身体を揺らして、それが残像のようにも見えて、そろそろ見慣れたベンという人の、得体を知れなくさせている。


「どうして、人形になっていない」

「女王が、私は元のところへ帰っていいって」

「女王が?」


 言葉も被せ気味に、明らかな詰問がされる。表面上だけだったとしても、とても丁寧に話す人だったのに。


「ど、どうしたの。なにか怒ってる?」

「嘘だ」


 ぼそっと。その一言は、独り言ではあったのだろう。けれど私にも聞こえた。

 重々しいその言葉で、噛み合わせる歯で、なにかをすり潰すようにベンは言う。


「嘘だ。女王がそんなことを言うはずがない」

「嘘じゃないよ! 私の話が面白くなかったみたいで、もう帰れって言われたもの!」


 首すじと腋に、嫌な汗が流れる。

 これは。このベンの言い分は。通してしまうと、きっとまずい。

 どうにか宥めようとした時には、もう遅かった。


「ベン、落ち着いて。女王となにを話したか、説明するから。大したことじゃないの」

「嘘だ! 女王は、人間が嫌いなはずだ!」


 顔が上向いて、大きく開けられた口が吼える。感情のない顔で、大きな歯を剥き出しに。

 殺される!

 直感的に、そう思った。くるりと背を向けて、長い廊下を走る。


「ううっ……」


 運動は苦手ということもない、くらいの私。ウサギとカメではないけれど、走るのが得意なウサギに追われては、勝ち目はないのかも。

 しかし、なにもしないわけにもいかない。全力で走ろうとするのに、膝がうまく動いてくれなかった。

 かくかくと笑うように。気を付けないと、あさっての方向へ行こうとする。


「はあ、はあ……」


 かなり走ったように思う。その間、怖くて出来なかったけど、いい加減に追いつかれないのが不自然だ。

 おそるおそる、振り返った。


「あれ――」


 誰も居ない。もちろん狂ったように追いかけてくる、黒いウサギはどこにも居ない。

 どこまでも明るくて、まっすぐな廊下が伸びるだけだ。それこそ、地平線が見えそうなほど。


「勘違い、だったのかな」


 言ってはみたけれど、それはない。仮に殺されるというのが行き過ぎだったとしても、それに準じたなにかはあったと思う。

 逆にそれがないのに、あれほどの殺気めいた空気を放つほうがおかしい。


「隠れるところ……」


 まだ疲れてはいない。でも足がもつれる。恐怖で竦んでいるのだ。

 隠れ場所より、外に出られるところを探したほうがいいだろうか。

 そういう正解のない考えごとは、一人でしていても埒が明かない。なんとなくでもいいから、どっちがいいか誰かの意見を聞きたくなる。

 ポーはどうしているかな。意外と、次にどこかの扉を開けたら、出くわしたりして。

 マギーとハンスとダイアナと――。


「ダイアナ!」


 あまりにおとなしくしているから、忘れていた。最初に女王と会ったあの部屋から、ずっと服のお腹のところに入ってもらっていたのだった。

 呼んでも動かないので、服の上から触って、揺すってみた。


「ねえ、ダイアナ。ダイアナ」

「……▲▲△」


 なにを言っているのか分からないながらも、むにゃむにゃとしている風に答えがあった。


「また寝てたの?」

「△△△!」


 這い出てきて、目の前にぱたぱたと飛ぶ。元気そうだ。暢気なものだなんて、嫌味を言う気にもならない。


「ええと、あのね。ベンがなんだかおかしな感じで、なにかされそうだったの。隠れるか逃げるかしようと思うんだけど、どっちがいいと思う?」

「△△△!」


 分かりきっている。たぶん、そう言ったのだろう。でも結局、それがどちらなのか分からない。

 まあ、はりきって進むダイアナに着いていけばいいか。どっちだと言われても、その意見に従うつもりだったのだから。

 ダイアナは私が逃げていたのと、同じほうに飛ぶ。一本道だから、行くか戻るかしかないのではあるけど。

 見える限り、扉も窓もない。だからもしかすると、今向かっているのは城の中心部という可能性もある。

 選択肢が多すぎても困るけれど、全くないのもストレスだ。

 ――それからダイアナの飛ぶ速度に合わせて、早足くらいで歩いた。随分な時間だっただろう。


「ねえダイアナ。これ、おかしくないかな。こんなに長い廊下ってある?」

「▲△▲?」


 頷きと、分からないという素振りが同時にされた。ダイアナも同意のようだ。


「幻でも見せられてるのかな。そうだとしても、脱出する仕掛けとかありそうなものだけど」


 もう一度、落ち着いて周りを見る。

 両脇には白く塗られた壁。その上のかなり高いところには、やはり真っ白な天井。床は市松模様で、前と後ろに果てしなく続く。

 それ以外には置き物もなにもない。こんな場所に、仕掛けなんて施せるものだろうか……。

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