第18話:離れても信じて
「いたっ!」
「きゃっ!」
思わず言ってしまったものの、実はそれほど痛くない。殴ってきたのは、わたがたっぷりピンク色の腕。マギーだからだ。
「どうしたの? お茶をこぼしてしまうところだったわ」
マギーを抱き上げて、ポーは尋ねる。いたずらっ子を叱るお母さんのように、人さし指を立てて。
「この世界のお菓子を食べちゃダメよ。女王の言葉に、逆らえなくなってしまうわ」
「おやまあ、余計なことを余計なことを。同じウサギの仲間だというのに」
腕を向けて糾弾するマギーに、ベンは肩をすくめてやれやれといった風だ。かといって、それで悪びれるでもない。
「じゃあ、マギーの言った通りなのね。どういうこと? とうとう女王さまが、私たちを連れてこいと名指しでもしたの?」
「いいえ、とんでもないとんでもない。女王さまはあなたたちのことなんて、知りもしません」
ベンはまた、指を鳴らす。するとケーキスタンドにあるお菓子たちが、ステーキやサンドイッチに変わった。
「それなら大丈夫大丈夫。とてもおいしそうでしょう?」
「遠慮しておくわ。それより質問に答えて」
近くにある食器を奥に押し返すと、テーブルナプキンたちが右往左往し始める。
「女王さまですか。いちいち指示などされなくとも、私はそもそも言われて言われております。私たちの仲間を増やせとね」
「仲間を増やす――?」
「はい」
そのたった一つの単語が、やけに豊かな抑揚を持って発せられた。ついでに大きな頷きまでも。
それはとても嫌な予感をしか感じさせず、次になんと言ったものか、どの言葉を選んだものか。誤っては取り返しがつかなくなりそうで、ひどく――ひどく迷う。
「……この国の。この世界の人形たちって、たくさん居るよね」
「たくさんたくさん居ますね」
「みんな、ドロシーの部屋に居たの?」
今ここに座っている間にも、遠くも近くも足元にも、さまざまな人形たちの姿が見える。
この瞬間を切り取って数えたとして、優に百を超えているだろう。でもきっとこの町に居る数は、そんなものではない。ハンスのように、町に居ない子たちだって居るだろう。
そんな数が、子ども部屋に収まるだろうか。
「まずは、いいえと答えましょう。それからきっと、あなたの想像は間違っていないいない、とね」
さあっと。背すじが寒くなった。
さっきまで。たった今まで。景色だけは、微笑ましく見えていたのに。
ここがそんな場所だったなんて。そんな怖ろしいことが行われているなんて。そんなことを出来てしまうほど、ドロシーには力があるなんて。
「ねえ、ヒナ。どういうことなの?」
「え、ええと……」
俯いてしまった私を、心配してもくれたのだろう。ポーが私の袖を引っ張った。
でもこんな残酷な話を、ポーに聞かせていいのだろうか。私がポーの立場なら、黙っていられるのは絶対に嫌だ。
けれどそれが分かっていても、大人として軽々しく言ってはいけないことは、たくさんあると思う。
「この国の住人には、人形に変えられた変えられた者たちが居るということですよ。もちろんあなたたちと同じ、元は人間がね」
「えっ――」
あっさりと。告げられてしまった。
彼女は表情を凍らせて、見つめてくるベンに視線を外せない。
いやそれも、本当に見えているのか怪しい。なにかぶつぶつと、「そんなことがあるなんて」などと言っている。
やがてポーは、先ほどの私と同じように、視線を街中に彷徨わせる。それから最後に私を見て、「どうしよう!」と叫ぶ。叫んで席を立ち、私の肩に縋り寄る。
「ドロシーが、そんなことまでしてしまうなんて! そんなに寂しかったのかな。寂しいのに、私は傍に居てあげなかった。私、私、どうして……」
「ポー、あなたのせいじゃない。たしかにドロシーは、とても悲しいんだと思う。行き場のない気持ちが、こんな世界を作ったのかもしれない。でもポーは、ドロシーを大切に思ってるじゃない」
「でも、伝えなかったら意味がないわ」
小さくて、まん丸で。ゴムボールみたいなポーの頭を、抱き寄せて撫でる。お日さまの匂いが胸に届くと、さざ波立っていた私の気持ちは少し治まった。
「そうかもしれない。でもそれは、私には分からない。遠く離れて、ずっと会っていなくても、信頼しあえる人は居るもの」
「遠く離れて――?」
「うん、そう」
誰のことを言っているのか。ポーの瞳は聞いていた。
しかし見つめ返す私の目を見て、悟ったらしい。困ったような顔が、苦笑めいてはいたけれどちょっと緩んだ。
「だからやっぱり、聞いてみなきゃなんだよ。寂しいなら一緒に居ようって、言いに行かなきゃなんだよ」
それはあなたにかかっているんだと、両肩をつかんだ。それが自分の責任を放棄しているように思えて、手が震えそうになる。
「そうね! そうだわ。私はドロシーのお友だちだもの。今度こそ、なにがあっても助けてあげるわ!」
「うん。そうだね」
ポーは「ありがとう」と言ってくれた。どうすればいいのか、私はきちんと教えてくれるからだと。
そんなこと、私こそだ。
ポーの純粋な気持ちが、私には羅針盤のように思える。まるでルールの分からない、でたらめなこの世界で、唯一信じられると。
「さてそれでは、私は退散退散するとしましょうか」
「あら――諦めたの?」
目を向けると、ベンはもうテーブルから数歩ほど離れていた。その後ろには、いつの間にか狼たちが列を成している。
「まさか。目的の一つは、既に達して達していたと気付いただけですよ」
「どういうこと?」
ベンは答えず、帽子を持って恭しく頭を下げた。
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