第4話:大人は行けない
私はまだ、寝間着に着替えてはいなかった。だから薄いカーディガンと、肩掛けのバッグだけを持つ。
「一つだけ、注意しておくわ」
マギーの小さな手の、小さな指が一本立てられる。
明日着るために用意していた、赤いジャンパースカートのポーと二人、ピンクのウサギをじっと見つめた。
「あの穴に、大人は入れないの。だから穴のことを、大人に教えてもダメ」
「分かったわ!」
元気良く、ポーは答える。どうやら彼女は、マギーを信用しきっているようだ。
なにか、明らかにおかしなことがあるわけではない。たとえば私たちを騙したところで、得があるとも思えない。
でも他の誰かに、しゃべるウサギのぬいぐるみが言ったので、不思議な穴に入る。と言ったら、どうかしたのかと思われるだろう。
「大人に教えてもダメって、そこに行くと言うのもダメってこと?」
「構わないわよ? どこにどんな、穴があるというのも言わなければね」
「言うなってことね――」
どうしたって、おかしな話よね……。
信用すべきか、私は迷う。その間もマギーはポーに着いて回り、そのポーはどこからか大きなリュックサックを持ってきた。
「ちょっとポー、そんなになにを持っていくの?」
「冒険に行くなら、準備がたくさん要るでしょ? 私は知ってるもの。ルナの教えてくれたお話の子たちは、そそっかしすぎるわ」
「冒険って、穴に入るだけよ?」
「そうよ、穴に入るのよ」
それはまあ私だって、どこか遠くに行くと分かっているのに、クッキーの箱一つを持って出かけたとか、もう少しほかにあるだろうと思う。
けれどもポーがリュックに詰めているのは、自分の着替えとキャンディ、それから例の釣り具のセットだ。
あまり変わらないと思うのは、私だけだろうか。
「ポー、よく考えて。その穴に入ると、もしかして戻ってこれないかもしれないよ」
「私たちが行かなきゃ、間違いなくルナは帰ってこれないんでしょ?」
ドキっとした。
私は諭そうと、本気で言った。ポーは持っていく物を吟味しながら、なにげなく答えたのだと思う。
なのに、友だちを見捨てるのかと糾弾されたように思えて、胸が苦しくなる。
マギーを見ると、真ん丸な目でこくりと頷いた。ポーの言い分が正しいと。
「……分かった。行こう、ルナのところへ」
ポーには重そうなリュックを私が担ぐと、二人と一匹で、静かにキャロル家を抜け出した。
◇◇◆◇◇
ルナを探している人たちに見つからないよう、路地から路地へ走っていった。ポーは自分の自転車で。
ライトは使えなかったけれど、月が明るくて必要なかった。マギーは自転車のカゴに入って、はしゃいでいる。
そんな様子を見ると、心配してくれているのか、やはり不審には思う。
湖にも、ボートが一艘出されていた。三人くらい乗っているのだろう、懐中電灯がライブのサーチライトのように動き回る。
スマホを見ると、午前一時がもうすぐだった。オプション契約をしていないので、通話は出来ない。それでもなにかに使うかなと思って、バッグに入れていたのを思い出したのだ。
「穴はあそこよ」
「あら、そうだったのね」
マギーは、穴の所在までは知らなかったようだ。穴が見えなかったポーも、「あそこなの?」と訝しんでいる。
自転車は茂みに隠して、穴のところへ向かった。目の前に立つと、やはり不気味だ。月の光も届かない、深い穴というだけでそうなのかも。一歩、思わず後退ってしまう。
「どこが穴なの?」
またポーは手探りで穴を探した。場所は合っているのだけれど、分からないらしい。
「ポーは見えないの? うーん、ベンが土をかけたのかしら」
「土を?」
「彼、よくやるの。気に入らないことがあると、相手の目に土をかけるのよ」
「穴が見えないポーも入れるの?」
彼女が入れないとなったら、どうするのか。私だけで行くのだろうか。
それは不安で、もっと言えば嫌だった。
ルナのことがどうでもいいのかと言われれば、そんなことはない。でも怖いものは怖いのだ。
幼いポーであっても、誰かが居るというのは心強い。
「どうかしら? あなたが先に入って、手を引いてみれば?」
「それで行けるのね」
「やってみないと分からないわ。私も知らないもの」
なんと頼もしい案内人だ。私には到底思いつかない、素晴らしいアイデアだ――なんて、洋画なら皮肉を言う場面だろうか。
そこまでは思わない。もうちょっと知っていてくれると、助かるんだけどな。と、非難してしまったのは否定しないけれど。
「急いで。消えかけてる」
足を滑らせるようにじりじりと近付いて、ようやく右脚を穴の中に落とした。斜面から、土がぱらぱらと奥へ落ちていく。
大丈夫、普通の穴だ。普通の穴に入るのも初めてだけど。
我ながら余計なことを思い出した。そこにポーが、手を差し出してくる。嬉しそうな顔をして、不安なんて欠片も見えない。
「準備はいい?」
今それを聞くのかって、自分でも思った。きっと出来ていないのは私なのに。出来ていないのは、私の心なのに。
「いいよ! ヒナが居るんだもの、なにも怖くないわ!」
「――ポー」
出会ってまだ三日目の私に、そんなことを言ってくれる。大人の私がこんなことでは、ダメだ。しっかりしなくては。
と思って、ポーの手を握った瞬間。私の足が滑った。引きずられて落ちてくるポーを抱きしめて、私は穴の奥へと滑り落ちていった。
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