第2話:穴に潜るウサギ
身体に電気でも走ったかのように、ポーはぶるぶるっと震えた。寒いのかとも思ったけど、どうにも嬉しそうな顔を見ると違うらしい。
「彼はなに? 楽しそう!」
「えっ、あっ! ポー!」
もしかするとウサギの彼は、仮装の好きなこの辺りでは有名な人、とかかと思った。
けれどポーは、好奇心を隠さない、きらきらとした笑顔で追いかけ始める。その様子は、どうやら彼女も初めて見たようだ。
「ねえあなた! お名前は?」
走りながらポーは尋ねる。二人が走るのはそれほど速くないけれど、しばらく運動らしいことをしていない私には、少々つらい。
「――そうだ、お菓子の手配は間に合っただろうか。聞かねば、聞かねば」
彼は手に、何枚かの紙を持っている。そこに書いてあることを読みつつ、独り言を言い続けた。
呼びかけも聞こえていないのか、返事をすることなく、胸の内ポケットから金色の懐中時計を取り出す。
「これはいかん、これはいかん。急がねば。客人を先に行かせたなどと、大目玉だ」
「ねえねえ、私はポーよ! あなた、どこへ行くの?」
やはり返事はない。ポーは彼の足元へ、絡みつかんばかりに並走しているというのに。
急がねば。という言葉の割りに、速度は変わらなかった。概ねまっすぐ走って、先に見える一軒の家に向かっていると見えた。
その家は湖に接する、小さな崖の上に建っている。二階建てで、オレンジに塗られた屋根が可愛らしい。
このまま行くと、崖にぶつかってしまうのだけれど、どうするのだろう。崖の上に行く坂道は、もう通り過ぎてしまった。
「あなた、あの家の人? ドロシーは元気?」
もう、いくつ目の質問だったろうか。彼の目が、ちらとポーを見下ろす。でもそれ以上はなく、やれやれといった風に首を小さく横に振るだけだ。
それでいよいよ、崖が目前に迫る。私が手を伸ばせば届くくらいの高さだけれど、ひょいと乗り越えるなんて出来はしない。
あ、いや。ウサギだったら、出来るのだろうか。それにしても、よく出来たお面だ。彼は速度を緩めなかった。ポーもその隣を、変わらず走る。
「あれ……?」
行く先に、穴があった。ずっと崖は見えていたのに、気付かなかった。
彼はその穴へ、駆け込んでいく。ちょっと腰を屈めて、飛ばないようにシルクハットを押さえながら。
「あっ! 止まってポー!」
ポーが穴の脇の崖に、ぶつかる――と思った。でもさすが反射神経がいい。両手を崖に突いて、ぴたりと止まった。
「あれえ? 彼はどこへ行ったの?」
「ん? そこへ入って行っちゃったよ」
穴を指さして言うと、ポーは不思議そうな顔をして、崖を眺める。ぺたぺたとその辺りを触りながら、「どこ?」と穴を探し始めた。
おかしい。ポーの手は、穴に触れている。なのに彼女は、そこも壁になっている風に手を動かす。パントマイムでもしているように。
「ん――うん。ごめん、見間違いかな」
「そうなの? じゃあ、ジャンプしていったのかな。ウサギだもの」
「そうかもしれないね」
そこに穴はある。私には見えている。けれどポーには見えていない。どういうことだか、考えが追いついてこなかった。
一つ思うのは、この穴には触れないほうがいい。今言った通りに、見間違いだと考えるべきだ。
「ええと……ポー。ドロシーって?」
「ん、ああドロシー? この家に住んでいるの。私のお友だちよ」
土の付いた手を、ポーはぱんぱんと叩いて払う。そのまま顔を上に向けて、崖の上の家を見た。
白いペンキの壁。薄い緑の窓枠。赤茶の扉。絵本の中にあるような家だけれど、人の気配は感じない。
開いている窓はなく、どころかカーテンもしっかり閉められている。
「声をかけなくていいの?」
「うーん、ヒナに悪いからいいわ」
「私はいいのに」
ポーは「いいの、いいの」と笑って言った。気のせいか、それがいつもより少しだけ、元気のない笑顔に見える。
「あ。そうだ、釣り竿」
大物がかかったら、持って行かれてしまう。そう言って、ポーは慌てて戻っていった。
私は疲れてしまったので、ポーの背中を眺めつつ、歩いて戻る。途中でちらちらと振り返ったけれど、崖の穴はそのままずっと見えていた。
――ようやくバスケットの隣に「よっこいしょ」と腰を下ろすと、ポーがまた魚を釣り上げた。
水を入れた折り畳みバケツを覗くと、既に三匹が入っている。
「本当に名人だね、ポー」
「もちろんよ。パパとママとルナと、お客さまの分。足りなかったことなんてないのよ」
「そうなんだ。でもそれだと、ポーのがないけど」
「ああっ。そんなことを言うなら、ヒナのを私が食べちゃうから」
無邪気なポーを見ていると、やはりさっきのは見間違いだと思えてきた。ここからでは崖もよく見えないけれど、きっともう穴はなくなってしまっている。
笑うポーに笑い返して、怪訝な気持ちがようやく晴れた。
◇◇◆◇◇
餌がなくなるまで湖に居たけれど、魚は四匹で終わりになった。
「もう。どうして? こんなこと、初めてよ」
「そんなこともあるよ。ポーと私で、半分ずつにしよう?」
「そうね。でもまた釣るわ」
「うん、次は釣れるといいね」
ニジマスかなにかだろう。ポーの小さな手なら、二つ分ほども大きさがある。あのママの料理がそれだけというはずもなく、一匹まるごとは、私には多いかもしれない。
だからちょうどいいと、ポーを元気付けた。いや別に、しょげていたわけではないけれど。むしろ次への、闘志を燃やしていたかもしれない。
「ママ!」
自宅の庭に居るママを見つけて、ポーは自転車を放り出して走っていった。バケツだけはしっかり持っているので、釣果の報告に行ったのだろう。
可愛いなあ、と。またニヤニヤしてしまう。
二台の自転車を左右の手それぞれに操って、玄関先に置いた。それからまた庭に回ると、ポーの報告会の最中だ。
「大きなウサギを見たんだけどね、どこかに行っちゃったのよ」
「そうなの、また会えるといいわね。あ、ヒナお帰りなさい」
「戻りました」
細面で、真っ白で、でも健康的な眩しい笑顔。それが私にも向けられた。でもすぐに、視線が私の周囲を探し始める。
「どうしたんですか?」
「ルナは一緒じゃないの? あなたたちが居るのを言ったら、行ってみるって」
「ええ? いえ、ずっと湖に居ましたけど、来ませんでしたよ」
「そうなの――? 気が変わったのかしら」
日が暮れて、そろそろポーが眠る時間になっても、ルナは帰ってこなかった。
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