人形たちの輪舞曲
須能 雪羽
Chapter 01:不思議の国
第1話:始まりは湖岸で
大学の夏休みを利用して、旅行に行くことになった。イングランドの北にある、小さな街へ。
日本人でも、知っている人は知っているだろうけど――というくらいの知名度。そんなところへなにをしに、と友だちにも親にも聞かれた。
なにをって。聞いた人たちは、私が大学でどんな勉強をしているのか、知らなかっただろうか。
文学部と分かっていれば、その近郊で生まれた有名なお話の一つや二つ、知っていると思うのだけれど。
「ヒナ。今日はなにをする?」
「そうね、昨日は馬に乗ったし……今日は湖に行かない?」
「いいよ、そうしよう! ねえ、ママ!」
という会話は、全て英語だ。
きっとお弁当をねだりに、母親のところへ駆けて行ったのは、ポーリーン。私が泊まらせてもらっている、キャロル家の娘さんだ。年齢は八歳と聞いた。
十一歳上の私を捕まえて、
「ポー! ルナは?」
「知らないわ! 朝早く、出かけたみたいよ!」
大きな身振り手振りで、ママになにやら訴えているポー。言葉は聞こえていないのに、リンゴとフレンチフライを入れるように言っているのが分かる。それとブロッコリーは入れないように、と。
ルナはポーの姉だ。本当はルーナというのだけれど、縮めて呼んでいる。
彼女は私の通う大学に、留学してきた。夏休みの過ごしかたを決めかねていた私に、この町へ来ることを勧めた張本人でもある。
到着して二日目の昨日も、それから今日も、ほとんど顔を見ていない。「最初の数日は忙しくて、構ってあげられないかも」とは確かに言っていたけど、ここまでとは思っていなかった。
しばらくぶりに地元に戻って、なにかと用事があるのは分からなくもないけど、なにをしているのやら。
「ヒナコ。ポーと遊んでもらって悪いわね」
「いえ。ウサギの巣穴とか、日本ではなかなか見られないので楽しいですよ」
「そうよ、ママ。私はヒナを案内してあげてるの」
「そうなの? じゃあ今日も、ヒナコが怪我をしたりしないように、しっかり見ててあげてね」
「もちろんよ!」
私とママと、話すたびにポーのスカートがくるくると舞う。ちょっと厚めの生地のジャンパースカートは、ママお手製だそうだ。
その器用なママは、すぐにお弁当を作ってくれた。もちろん私の分も。バスケットに詰めて、ポーが抱える。
湖はポーの家からも見えていて、お買い物用の自転車を借りればすぐの距離だ。大きなカゴにバスケットを載せて、いざ出発。
草の匂いのする風。舗装されていない道。風の揺らす、木々の囁き。ペダルを二、三周させては、惰性でのんびりと走った。ポーは小さな自転車で、「負けないから!」と頑張って漕いでいる。
「ジャックおじさん!」
「よう、ポー。珍しい友だちを連れてるな」
「ヒナっていうの! 日本のお友だちよ!」
「そうか、それはいいな」
桟橋の脇に建つ小屋の前で、ポーは男性に声をかける。いかにも顔なじみというやりとりは、昨日もたくさん交わされた。
そんな様子を見ていると、この街じゅうがポーを可愛がっているような、それほどにまで思えてしまう。
実際にそれは、大きく間違っていないのだろう。ここまででも、出会う人みんながポーに手を振っていた。
「あそこにしましょう!」
「いいわね、大きな木もあるし」
植物には詳しくない。それなりに背の高い広葉樹が、光にまだらな模様を付けている。その下にビニールシートを敷いて、バスケットと石を置いて。
さあ、なにをおしゃべりする? と思ったら、ポーは自分で背負っていたケースを開き始めた。
やけに小さなゴルフバッグだなという感じだったのだけれど、中に入っていたのは釣り竿だった。伸び縮みするタイプで、ちゃんとリールも付いている。
「晩ごはんを釣って帰るのよ」
「そんなに釣れるの? ポー、すごいね」
「えへへ」
彼女はポケットからごそごそと小さな箱を出して、その中にあった物を針に付けた。
釣りの餌って、まさか虫? そんな物を、ポケットに入れないでよ。
そう思うものの、ひまわりみたいな彼女の笑顔が、まあいっかと忘れさせる。ポーは水ぎわへ走っていって、落ちていた枝や石で釣り竿を器用に固定した。それからジャンジャンと、BGMでもかかっているみたいに元気に戻ってくる。
「さあこれでいいわ。なにをしましょうか」
「そうだねえ――とりあえず、今見えてる物を教えてもらおうかな」
湖の周りには、手漕ぎのボートがたくさん。おしゃれな洋館――があるのは当たり前か。ともかくどこを切り取っても、絵画として成立しそうな風景ばかり。
私はそれを一つずつ指さして、あれはなに? と説明を求める。得意げに語るポーを、しばらくニヤニヤ眺めていた。
時計を持ってこなかったので、どれくらい経ったかは分からない。太陽の加減からすると、午後になったのは間違いないだろう。
お弁当もおいしくいただいて、ポットから熱い紅茶をカップに注ぎ、堪能していた。
「これは失態。急がねば急がねば」
私たちが居るのは、湖岸に開けた草むらだ。背の高い草はないので、視線を遮る物はほとんどない。
なのに、目の前を通り過ぎた人物の接近に気付かなかった。
背がすらっと高くて、黒い燕尾服で、頭にはシルクハット。さすがイングランドと言いたいけれど、こんな場所にそんな服装で居て当たり前とは思えない。
まずそれに驚いて、どんな人かと顔を見ると絶句した。顔を見てしまうと、その人、と表現することさえ正確性に自信がなくなる。
けれども便宜上、その人と呼ぶことにしよう。黒い毛に覆われた、ウサギの顔を持った彼を。
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