アフター:Reポート「和ヶ原、山鳥毛と出会う」

 2019年1月から始まった、和ヶ原聡司の備前岡山を巡る日本刀取材企画。

 8月30日に企画レポート連載最終回第五話をUPしたわけですが、その内容のチェックに当たって取材当日にもお世話になった備前長船刀剣博物館の学芸員、杉原賢治さんから特別 展のお誘いをいただきました。

 

 その名も「一文字と長船」。


 備前刀の系譜の原点とも呼べる「一文字」と「長船」というこの文字列だけで、刀を本格的に学習し始めたばかりの和ヶ原も勝手に熱くなってしまいます。

 開催期間が九月の中旬から十月の末までの一ヶ月半と長く、 ご連絡をいただいた時点では仕事を抜きどこかで都合をつけよう、くらいに考えておりました。

 ところがです。

 ディスカバ:Reポートの際に和ヶ原と一緒に瀬戸内市に赴き、何なら和ヶ原よりよほど日本刀についての造詣が深い浅葉なつから、唐突に連絡が入りました。


 浅葉「わがさん! あの企画展に山鳥毛来るって!」


 何!? 山鳥毛!?


 浅葉「しかも山鳥毛の展示は一週間限定なんだって!」


 なんですと!?

 これはもうそのタイミングで行くしかないじゃないですか。

 だってあの山鳥毛ですよ!?


 ということで、再び行ってきました岡山県瀬戸内市備前長船刀剣博物館!

 会ってきました、国宝「太刀 無銘 一文字 (山鳥毛)」!


 これは電撃ディスカバ:Reポート、その後の記録です!


                    ※

 というわけで10月9日、和ヶ原と浅葉は久しぶりの JR赤穂線長船駅に到着しました!

 


 この日の朝の新聞各紙の岡山版では 山鳥毛が備前長船刀剣博物館に展示されていることをこぞって報じており、もしかしたら長船駅でタクシーを待つことになるかも、と心配していたのですが、驚いたことに駅前には無料のシャトルバスが二台も!


 15分おきに運行されていた長船駅・刀剣博物館往復シャトルバス。


 聞けば山鳥毛が展示される一週間限定の施策だったそうですが、博物館が用意したわけではなく、なんと地元のタクシー会社が山鳥毛に会いに来る人のためにとシャトルバスを無償で運行してくださっているのだとか!

 博物館に到着すると、既に駐車場は満車。観光バスも複数台。

 入館受付は行列ができていました。

 山鳥毛の引力恐るべし。


 でも、そもそも国宝に指定された日本刀なんていくらでもあるのに「山鳥毛」ってそんな凄い刀なの? という疑問はあるかと思います。


 なのでここで山鳥毛と呼ばれる日本刀について、改めて解説を。

 

 国宝としての正式な指定名称は「太刀 無銘 一文字(山鳥毛) 一口 附 打刀拵」

 鎌倉時代中期に作られた福岡一文字派の系譜に属する一口です。

 そして、こんな姿をしています。


 山鳥毛、全体


 山鳥毛 地鉄【じがね】


 山鳥毛 刀身部分


 この写真では本物の魅力を全く引き出せてはいませんが、それでも百聞は一見に如かず、という言葉がこれほど相応しいケースはなかなか無いでしょう。

 今回の「一文字と長船」展。なんと写真撮影完全フリーでした。

 スマホからコンデジからバズーカのような一眼レフまで、山鳥毛に出会った全ての人が、その美しさを記憶と写真により正確に留めようと、穴が開くほど凝視していました。


 山鳥毛の最大の特徴は、その号の由来となったともいわれる優美かつ唯一無二の刃文 です。

 精細、緻密、優美、華美、色々な言葉で表現できるかと思いますが、一つの美術品の『景色』として捉えた場合、見る人の想像力をこれほど掻き立てる刃文は他に例がありません。


 何よりここが一番重要なことだと思うのですが、その複雑精緻な刃文故に、日本刀について全く知らない人でも、

 「なんかすごい」

 「なんか綺麗」

 という感想を抱かせるに足る存在感を持っているのです。


 どんな分野でも言えることなのですが、知ってるから凄いと分かる、って事柄、あると思います。

 それはとても重要なことで、一つの知識を足掛かりに先に進むということこそ、学究の基礎的な歩みなのです。

 ですがやはり、どんな物事にも『入り口』が必要です。


「よく分からんけどなんか凄い」

「すげー!かっこいー!」

「超綺麗じゃね?」


 偶然この山鳥毛という刀を目に留めこんな感想を抱いた、それまで日本刀に特に興味の無かった大勢の人々の中にこそ、日本刀の、そして日本の鉄の歴史の研究を更に進める麒麟児が潜んでいるのです。

 

 このアフター:Reポートを書いているのは、2019年ラグビーW杯真っただ中のことです。

 日本代表チームの、世界の強豪を次々に破り決勝リーグ進出を決めるという、『誰の目にも分かりやすい入り口』によって、ラグビーに興味を持ったいわゆる『にわかファン』が、大勢生まれました。

 和ヶ原は常々言っているのですが、最初は誰でもにわかなのです。

 刀匠の家に生まれたとか、一族全員ラグビー経験者とかいう例外を除き、刀もラグビーも、どこかで偶然目にした印象に残る記憶を入り口に、にわかファンとなった人達が支えてきたのです。


 山鳥毛の誰の目にも分かりやすい美しさ、力強さ、凄みは、これから日本のどこかにいる、日本刀の技術や歴史、伝統を支え学び極める人を引き寄せる、最高の入り口であると、実物を見たからこそ断言できます。


                    ※


 と、ここまで山鳥毛をひたすら激賞してきましたが、それはそれとして、やはり日本刀というのは美術品として極めて特殊な立ち位置にあります。

『武器』という側面から目を逸らすことのできないこの国宝について、快く思わない意見があることは、この日も現場で聞くことができました。

 ディスカバ:Reポートの中でもお話したように、1945年以降、日本刀は日本人の生活から姿を消しました。

 これまで散々、日本刀の文化や歴史のために、と言ってきましたが、そもそも日本刀の文化や歴史なんか知ったことじゃない、という向きもあることでしょう。

 この意見はひとえに、「日本刀の文化や歴史」とは何を指して そう言っているのか分からないということに原因があるのではないか、と和ヶ原は思いました。

 「日本刀の文化と歴史」という言葉には、「日本刀という鋼 の武具そのものの文化と歴史」と「日本刀が不可分のものとして存在してきた様々な文化と歴史」の二つの側面があります。

 多くの人が想像する日本刀の文化と歴史とは、前者のことだと思います。

 なのでここからは、後者についてお話をしていきたいと思います。


                    ※


『刀剣』は武器です。

 繰り返しになりますが、この事実は変わることはありません。

 ですから日本では古代より、刀剣は武器であるとともに『武力』の象徴として扱われてきました。

 その結果、自然発生的に生まれたのが『刀剣授受』の文化です。

 少し面倒で小難しい話が続きますが、何卒お付き合いください。

 

 武力の象徴である刀剣の授受が行われるシーンとは、被征服者が服従の証として征服者に刀剣を差し出し、それを以て武装解除と服従の証とする場面。

 あるいは権力者が配下に刀剣を渡すことで権力と武力を委託する、という約束事を交わす場面。

 原始的な刀剣授受の概念とは上記のような場面で行われることを差します 。

 そしてこれを日本史上初めて儀式的に行ったとする記録が、物部麁鹿火【もののべのあらかび】が時の天皇より斧鉞【ふえつ】を賜ったという記録です。

 斧鉞はその名の通り斧やまさかりであって刀ではありませんが、正確に斧やまさかりそのものを与えたというより、武具を下賜した、という意味合いが強いと思われます。

 時代が下ると遣唐使の派遣に当たり「節刀」という文化が現れます。

 遣唐使は唐への派遣に当たり様々な任務とともに刀を受け取り、首尾よく朝廷に帰還した際には、受け取った刀を返上していました。

 大任の象徴として渡された刀を任の終了とともに返納するこの「節刀」の文化は、なんと明治元年まで続いています。



 このように、武力や権威の象徴として扱われるようになった刀剣が現在の「日本刀」と呼ばれる姿になったのが鎌倉時代のこと。

 鎌倉時代と言えばその名の通り、日本史上初の武家政権である鎌倉幕府の時代です。

 その頃には既に公家と武家、双方の文化の中で有職故実としての『年中行事』が大いに発展していました。

 鎌倉時代以降、公家、武家問わず、下賜や献上の場面で刀剣が頻繁にやり取りされていたことは、多くの文献から伺うことができます。

 室町時代になると、日本刀はもはや第一級の進物として重用されるに至ります。

 室町幕府で最も重要な年中行事に「年始の伺候」というものがあります。

 正月朔日(一日)から十五日までの間、定められた日に定められた身分の者が出仕し、所定の品を献上し、また拝領することとなります。

 その中で最も重要な正月朔日には、三管領家の斯波、細川、畠山各家より将軍へ第一級の刀剣を献上する「御太刀 金覆輪 進上の儀」が執り行われます。

 これ以降も、様々な身分と幕府の間で様々なグレードの日本刀のやりとりが行われるのですが、刀剣の授受は正月にのみ行われました。

 しかも『御物ニ成リ候太刀銘』という、どの銘の太刀が献上品や下賜品として相応しいかというカタログじみた資料まで残っているのですから、当時の人々がどれほど真剣に刀剣について考えていたか、分かろうというものです。

 山鳥毛も含まれる『一文字』と呼ばれる日本刀群がハイグレードな進物として認識され

 始めたのは、八代将軍足利義政の頃のようで、献上太刀の目録に一文字の銘が目立つようになります。

 時代が下り戦国時代、織田信長を知る第一級の資料とされる『信長公記』では、主従間の下賜献上の進物としての一文字の格が更に上がったことが見て取れます。


 ここまでお読みいただいてお察しの向きもあるかと思います。

『刀剣授受』の歴史を追うと、時代時代の経済と政治が分かるのです。

 授受される刀剣の格が、そのまま関係性の強さを表します。


 Aという人物にとって、Bという相手は、最高級品であるXという刀を送るのに相応しい相手であった。

 

 この事実が判明するだけで、歴史上のAとBという人物とその背景についてどれほど理解が深まるかは、少しでも歴史の学究に踏み込んだことのある人なら説明するまでもありません。

 そしてその事実を判明させるには「X」という日本刀そのものの歴史もまた、詳らかにする必要があります。

『日本刀の文化と歴史』とは、このように武具そのものの歴史と、武具が扱われてきた歴史的背景という二本の柱で構成されています。

 そして日本刀という武具そのものの研究を怠った時、歴史の闇に埋もれてしまう事実が山のようにある、ということもまた理解していただけると思います。


                    ※

 

 さて、時代は更に下り江戸時代。

 現存する多くの国宝、重要文化財、重要美術品を輩出する最重要資料となった、徳川幕府八代将軍徳川吉宗が編纂させた、当時の全国版刀剣解説書とも呼ぶべき資料が生まれました。

 通称『享保名物帖』。

 この中には235の名物が記録されており、その内、以下の8口が一文字の刀です。

 日光。

 南泉。

 道誉。

 浅井。

 荒波。

 千鳥。

 今荒波則房。

 二ツ銘則宗。

 この中に、件の山鳥毛は含まれていません。

 

 徳川幕府に限った話ではありませんが『刀剣授受』の歴史には『召し上げ』という行為が付きまといます。

 召し上げとは乱暴に言ってしまえば、

「その刀いい刀だな。お前俺の部下だろ。寄越せよ」

 てことです。

 年中行事や儀式に於いて双方納得の上授受されるばかりが刀剣授受ではありません。

 主君が配下の忠誠を試すために、貴重な刀剣を召し上げることはそれこそ鎌倉時代からあることでした。

 

 当時の山鳥毛の持ち主は、この通称『享保名物帖』編纂に当たって伝来の大切な刀を召し上げられるのを恐れその存在を隠したのではないか、と言われています。

 この名物帖編纂とほぼ同時期、吉宗は『享保諸国鍛冶改め』を発しています。

 当時既に軟弱極まっていた武士達に新たに武を奨励するため、吉宗は新刀製作を積極的に奨励していました。

 その一環として石高一万以上の大名に国元の名刀工の名簿を提出させたのですが、このときその刀工の作品の中から『上手のもの』 を提出させていました。

 品質を確かめるためと言えば聞こえはいいですが、召し上げであることに変わりはありません。

 この政令と同時期に編纂された享保名物帖に『山鳥毛』を掲載させなかったのは誰なのか。

 この時代の、山鳥毛の持ち主は誰なのか。

 それは 米沢藩第六代藩主、上杉吉憲【うえすぎよしのり】でした。


                     ※


 豊臣家の五大老であった上杉景勝は関ケ原の戦いで西軍につき、最終的には全面降伏し謝罪することで改易こそ免れたものの、120万石の会津から30万石の米沢に転封させられました。

 石高75%減というお家壊滅レベルの減封に加え、他藩に比べて異様に武士階級の人口が多いという上杉家特有の 事情と相まって、米沢藩の財政は常にひっ迫していました。

 景勝の頃は名宰相、直江兼続の手腕もあり何とか安定的な藩運営を行えました。

 しかしこれが六代、上杉吉憲の時代になると大分雲行きが怪しくなります。

 石高は減ったのに異様に多い武士の人口はいっかな減らず。

 幕府の普請事業への出費や先代先々代の悪政による支出超過の財政。

 更には忠臣蔵で有名な赤穂事件の影響もあり、藩は士気も政情も財政も何もかもがガタガタになります。

 徳川の仇敵、関ケ原西軍の雄であった頃の面影は影も形もなく、吉憲の時代の米沢藩の石高は30万のさらに半分、15万石にまで落ち込んでいました。

 

 しかしそれでも。

 上杉吉憲は、山鳥毛をはじめとした上杉家の宝刀達を、幕府に隠し通しました。

 山鳥毛は「上杉景勝公御手選三十五腰」(資料により三十六腰の表記あり)と呼ばれる刀剣群の中でも特別に景勝自身が『上ひざう(秘蔵)』と自書して大切にした刀の中の一口です。

 こと上杉家に伝来する『備前物』の日本刀は『武用に適す』と評される実戦向きの刀が非常に多く、景勝が持っていた実戦向きの刀を隠していることが万が一露見した場合、幕府に叛意ありと判断されても仕方ない状況です。

 逆に山鳥毛達を進んで公にして幕府に献上すればどうなっていたでしょう。

 推測でしかありませんが、刀剣授受の歴史を鑑みても忠義の証にはなったでしょうし、召し上げにもタダで持っていかれるケースと買い取ってもらえるケースがあったため、優良な刀を求める吉宗なら、それほど無体な扱いはしなかったでしょう。

 一部を買い取ってもらえれば藩の財政を一時的にでも立て直す一助にはなった可能性はあります。

 ですが、吉憲はそれをしませんでした。

 これもまた想像でしかありませんが、徳川家にとって上杉家はどれほど傾こうとかつては天下すら狙うことのできた恐るべき大名家でした。

 上杉家にとってもまた、徳川家はかつて五大老として同格の地位にあった相手であり、どのような事情があろうと祖先の誇りをむざむざ渡す相手ではなかったのかもしれません。

 決して名君としては記録されていない吉憲ですが、傾いてしまった藩の屋台骨を藩主として十八年にわたって必死に支えてきました。

 その後、第九代藩主上杉治憲(鷹山)の時代に米沢藩は盛り返し、山鳥毛は上杉家の家宝として代々受け継がれました。

 そして1945年のGHQの武装解除命令と前後して、上杉伯爵家より現在の持ち主の手に渡ることとなります。


                    ※


 山鳥毛と号される一口の日本刀の歴史をたどっていくと、これだけの時代と、人と、政治と、文化と、歴史と、戦いと、文献に巡り合うことができますし、ここに書き記したことなど表面上の更に一つまみ程度の情報にすぎません。

 三十五腰の中には他にも熊田、姫鶴と呼ばれる一文字の刀があり、それらも来歴を辿れば多くの史実に巡り合うこととなるでしょう。

 


 ここで更に、ディスカバ:Reポート本編でお話したことを振り返ります。

 刀匠の川島さんは、良い刀とは大切に作られ、大切に持ち続けられたものであると仰いました。

 学芸員の杉原さんは、日本刀の歴史は日本の鉄の歴史そのものだと仰いました。

 元副市長の高原さんは、文化を受け継ぐことはその周囲の人々の生きざまと不可分ではいられないと仰いました。

「太刀 無銘 一文字 山鳥毛」と呼ばれる日本刀は、それ単体だけ見ればちょっと作りが珍しいだけ鉄製の武器でしょう。

 ですが、日本刀という存在全体が歴史上果たしてきた役割を俯瞰した場合、山鳥毛に限らずありとあらゆる日本刀は、日本の歴史全体を俯瞰するために無くてはならない重要な要素であり、翻って鎌倉時代に作られ現在にその姿を残す山鳥毛は、決して失ってはならない歴史の生き証人に他なりません。



 これもディスカバ:Reポートの中でお話 ししたことではありますが、文化財保護法が制定されて以降、実に百点以上もの国宝や重要文化財の所在が不明になっています。

 現在売買が可能な状態になっている山鳥毛も、逸失、あるいは海外流出の可能性がゼロではありません。

 国宝や重要文化財ではまだ前例はないものの、重要美術品が海外の競売にかけられたケースは実際に存在し、日本刀に限っても、国宝が一時的に行方不明になったことがありました。


 日本の歴史を800年にわたり見つめ続けてきた一口の日本刀が今もなお日本刀の産地として文化を受け継いでいる生まれ故郷の備前に戻ることは、この一事を取っても未来の歴史に対して必要なことだと、10月の追加取材の中でより強く思いを新たにし、瀬戸内市の山鳥毛里帰りプロジェクトを改めて応援したいと思いました。


「瀬戸内市 山鳥毛里帰りプロジェクト HP」 

 https://setouchi-cf.jp/


 本稿読了の暁にもし山鳥毛にご興味を持たれましたら、上記HPを検索し、ご高覧いただければ幸いです。


                 ※


 ひたすら山鳥毛の話に終始しましたが、和ヶ原と浅葉は、他にも多くの備前刀の雄について、杉原さんに多くの 解説をいただきました。

 帰りには、刀匠の川島さんの奥様に長船駅まで送っていただき、2月の本番取材とまるで遜色のない備前刀尽くしの一日を過ごすことができました。

 余談ではありますが、和ヶ原は岡山で一泊し、岡山駅周辺の博物館めぐりをして更に多くの刀剣展示に触れようかと思っていたのですが、どういうわけか全ての博物館が展示入れ替えやら何やらで行く先々全ての博物館が休館しており、今回は本当に山鳥毛が強く自分を呼んでくれたのだなと思った次第。

 結局二日目は岡山県立図書館にこもり、充実の日本刀、備前刀の資料群と戯れて過ごしました。 

 2019年初頭から続いた電撃ディスカバ;Reポートは、そもそも小説家の取材の様子を読者の皆様にお伝えする企画です。

 今回のアフターReポートがそう遠くない未来に 、日本刀か、備前刀か、はたまた他の何かを主要なエッセンスとして織り込んだ小説を書きたいという思いも新たに、まだまだ備前刀との縁が続くことを願って、今度こそ、電撃ディスカバ:Reポート、「和ヶ原 日本刀を学ぶ」を締めくくらせていただきたいと思います。

 それではまた、いつかどこかの物語でお会いいたしましょう。


 博物館前にて。2月のときと同じように杉原賢治さん(写真右)と。

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真っ向取材 電撃ディスカバ:Reポート カクヨム出張版 電撃文庫MAGAZINE/電撃文庫・電撃の新文芸 @dengekibunko

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