ゆっくりと目を開くと、視界いっぱいに白が広がった。ああ、ここが天国か、と漠然と思った。

 ピッ……ピッ……、と一定の間隔を置きながら電子音が近くで鳴っていた。夢なのか現実なのか、天国なのか地獄なのか、ぼんやりとした頭で考えたところで答えには結びつかない。頭の中が空っぽになってしまった気分だ。

 ひょこっ、と誰かが私の顔を覗き込んだ。見覚えのない女の人だったから、天使が現れたのかと思った。天使は、思い描いていたのとは違って少し悲しそうな顔をしていた。その表情は、少し彼に似ていた。

 奏真。その名前が頭に浮かんだ時、頭の中の靄が晴れ、だんだん鮮明になってきて、忘れていた記憶がパズルのピースをはめるように、かちかちと音を立てて繋がっていった。そして、全てを思い出した時、私の目から次々と涙が零れて、頬を何度も伝っていくのが分かった。

 私は顔を固定されていて横を向くことが出来なかったけど、天使が心配そうにこちらをちらちら見ながら、誰かと事務的に話しているのが聞こえた。彼女は天使なんかじゃなかった。

 長い長い夢を見ていた。どうやら私は、現実の方に生きているらしい。ちっとも嬉しくなんてなかった。


 しばらくして、私は退院した。入院中、親戚は何度か見舞いに来ていたが、退院の時迎えてくれる人は誰もおらず、私は一人、静かにアパートの一室に帰った。そこには、家具も全て残っていて、私の部屋なのに違う人の部屋みたいだった。私は、ピアノの横にある棚の上に、たった今現像してきたばかりの、五人が写った一枚の写真を飾ってぼんやりと見つめた。どうして神様は私一人だけを生かしたのか、考えたところで分かるはずもなかった。ただ、頭も心も空っぽで、とにかく寂しかった。

 私は無意識にピアノの蓋を開き、いつも歌っていた曲を弾き始めた。私は元々ピアノが苦手で、音を時々間違えるけど、それでも止めることなく弾き続けた。彼が、奏真が教えてくれたピアノだから。下手くそなピアノに合わせて私は歌った。

 本当は、歌うだけでよかった。奏真がピアノを弾いて、私が歌う。小さなホールにお客はいつも、お父さんとお母さんと大家さん。「奏真と奏歌なら、世界も夢じゃないね」って笑っていたのに。私は一人になってしまった。

 私は誰の記憶を見ていたんだろう。皆はどうして私だけおいていったんだろう。一緒に連れて行ってくれたらどれだけ良かっただろう。

 考えたところで現実はどうしようもなく、歌を歌った。涙はいつまでも溢れてきて、かすれた声しか出ないけど、ただ無心に歌うしかなかった。

 どうして私がすぐに退院出来る程の怪我しかしなかったのか。医師から話を聞いたとき、真っ先に「馬鹿」と思った。皆と一緒なら、私は死ぬことは怖くなかったのに。私たちの車が、急停車したトラックにぶつかる瞬間、皆が咄嗟とっさに私をかばうようにしたと聞いて、誰が寂しくたって自分の命を捨てられるだろうか。最後の最後まで、私を連れていかないように守ってくれた皆の顔を思い浮かべる。


 一人で生きていくことは、怖い。


 それでも私は、一人で歌い続ける。彼らが守ってくれたこの手で、この足で、この命で、私は音楽を奏で続ける。そしていつか、あのホールの何倍も、何十倍も大きなホールを超満員にしよう。夕陽に染まるこの部屋で、私は静かに決心した。


 私は忘れない。いつも近くにあったあの声を、奏を。

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冬原桜 @fuyuharasakura

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