The Walting Monkey

 ついさっき、意拳の基本である站樁たんとうを少し習っただけである。

 なのに尚志の全身はもとより顔面からは滝のように汗が流れていた。


「よし、五分休憩」

 ヘトヘトの尚志を見るに見かねて山形が気を利かせた。

 二人は仲良く床に腰を下ろした。

 部屋の時計を見ると十時を少しすぎていた。


「しかし、誰も来ませんね」

 感じたままに尚志は言った。

 稽古時間開始から一時間は過ぎているのだから、そろそろ他に誰か来ても不思議ではない。


「心配するな、今に来るよ。男はもっと鷹揚にドンと構えていないと、ふあぁ~ぁ」

 大きなあくびをすると山形はとうとう仰向けに寝っ転がってしまった。


「あの、いつも何人くらいで稽古をされているんですか?」

「多い時は二十人くらいだった。最近は俺を含めて二人だな。土屋先生だけは熱心で続いている。今日もきっと来るはずだ」

「土屋ってことは意拳を教えるのはその方なんですか?」

「違う違う。わかった、全部ちゃんと教えるからよく聞くんだ」

 呆れた口調で山形は説明した。


 ・土屋先生は小学校の教員をしているから土屋先生と呼ばれている。

 ・中国語では『先生』という敬称は『~さん』くらいの意味。

 ・一般的に中国では先生を『老師ラオシー』と呼ぶ。

 ・我らを教え導く程老師ていラオシーは現在は日本での仕事が忙しく、実質不在。

 ・中国武術において正式に入門するには拝師ハイシー制度に従わねばならない。

 ・老師と学生の関係から、拝師の儀によって初めて師父と弟子の関係になれる。

 ・また日本の武道のような段位制度はない。従って意拳目録のようなものも存在しない。

 ・ちなみに山形の職業はフリーのWebデザイナー、葛西は米屋を営んでいるそうな。


「いかん、どうも休憩をしすぎたようだ。今度は推手すいしゅをやろう。初めてでも実地で教えるから大丈夫だ。さあ、立とう」

 一通り説明を終えると山形はパッと立ち上がった。

 尚志も続いてのそのそと立ち上がった。


「推手は口で説明するもんじゃない。実際にやった方が身に付く。まず向かい合う。そして前へならえの体勢に。次に尚志の左腕を俺の右腕に乗っける。次は俺の左腕を尚志の右腕に乗っける。もっと距離を詰めよう。お互いの両肘が曲がるくらいだ、そうそう」

 手取り足取りで山形は教える。


「この体勢から推手はスタートする。まず俺が左側の腕を内回りに回転させるから。尚志も腕が離れないように内回りに回転。次は尚志がもう片方の腕を内回りに回転。今は腕を回転させるだけでいい。とにかく腕と腕が離れないように」

 山形の指示に従い、両腕を交互に内方向に回転させていく。

 三分ほど続けていたら段々と動きがスムーズになってきた。

 少しずつ二人の呼吸は合ってきたようだ。


「おかげさまでどうやらコツを掴んだようです。いい感じですね」

 少し得意げになって尚志は言った。

 

「これは腕をぐるぐる回すのが目的じゃないから得意になるのはまだ早い。お次はこの腕を使って相手のバランスを崩す。胴体を押してもいいし腕を引っ掛けて上下に揺さぶってもいい。なんならアゴにお見舞いするのもアリだ」

「太極拳の推手と比べるとずいぶん荒っぽいんですね」

 尚志のイメージする推手はもっとゆったりとしたものだった。


「意拳は何かと荒っぽいんで有名なんだ。じゃあ、そろそろ推手の本番といこう。お互いに相手の体勢を崩す。それと足は自由に動かしていいから。一部の競技推手はダメだけど」

 言うなり山形は後ろに下がったので尚志もそれについていく。

 途端に胸を軽く押された。


「ほら、推手はこんな風にやる。慣れてきたら尚志も俺を攻めてきてくれ」

 山形にそう言われたので、尚志も攻撃を試みたが無駄だった。

 なにせ少しでも腕に力を込めるとすぐに察知され腕によって妨害されてしまう。

 さらには山形の独特の歩法が厄介だった。

 あと少しで顔面に手が届きそうになっても奇妙なフットワークで体が斜め後方に移動してしまい、尚志は文字通り手も足も出なかった。

 さらにはヤル気もなくなった。


「どうした? あきらめるのは早いぞ。俺が見るところ尚志の実力はまだこんなもんじゃないはず。その体格と体重で押しつぶすつもりで向かってこい。出し惜しみをするな。思いっきりかかってこい!」


 山形に気合いをいれてもらい尚志は覚醒した。

 呼吸を整えた。

 重心を臍下丹田に集めた。

 大きく息を吸い、足裏と両腕に力を集中。

 雄叫びを上げながら山形を力と体重で押しまくった。

 あたかも重戦車のように、興奮した闘牛のように。


「そうだ、それが尚志の本当の力だ。達人ぶった推手なんて百年早い! 多少のシャラ臭いテクニックなど体重で……と思ったけどそろそろ俺がヤバいからテクニックを使うぞ。フンッ!」

 

 瞬間、尚志の体はクルリと百八十度回転した。

 つまり尚志は敵に無防備な背中をさらけ出している状態である。

 これが何を意味しているかは誰だってわかる。

 実戦のさなかに背を向けるのは”死”あるのみ。

 完全な負けである。


「凄い。それに不思議です。一体どんなテクニックを使ったんですか?」

 悔しがることもなく素直に尚志は訊いた。

「まあ、テクニックはテクニックだ。だがどちらかというと培った功夫ゴンフーのおかげだな。そのためには站樁を地道にやり続けるしかない」

「はあ、なにはなくとも站樁なんですね」


 その時、練習部屋の扉が突然開いた。

「おはようさん。遅れてごめん……って道場破り!? あ、スマンスマン。君は確か尚志だ。見慣れない大男がいたもんだからついつい、ね」

 声の主は葛西だった。


 続いて誰かもう一人が部屋に入ってきた。

 こちらはメガネを掛けていて体格も小柄。

 尚志を見て少しオドオドしている。

 童顔でまだあどけない雰囲気で年齢も二十歳前後といったところか。


 早速、挨拶と自己紹介を済ませた。

 この小さな男が土屋先生だと知った時に尚志は驚いた。

 小学校の教師だと聞いていたからもっとしっかりした大人を想像していたのだが、この土屋先生は下手したら中学生と言われても信じてしまうくらいに若かった。


「おお、もう推手はしたんだね。で、どうだ。俺がスカウトした大物新人は。圧倒されたろう、んん」

 葛西が山形に訊いた。

「ええ、色んな意味で大物かもしれません。彼は初っ端から居眠りをしてました」

 山形が答えた。

「クックック。それは確かに大物だ。で、尚志よ。意拳は大東流と違って驚いたんじゃないか?」

 葛西は次に尚志に訊いた。

「ええ、いきなり道場破りと間違われました。そもそも葛西さんが遅れなければこんな間違いは起きなかったはずです」

 尚志はやや興奮して言った。


「クックック、それはすまなかった。でもこれで皆そろったし、機嫌を直して稽古をしよう。といっても後三十分ほどでこの部屋を出ないといけないね。何の稽古をしようか」

「なら尚志には推手のお手本を見せたいです。俺と葛西さんで推手をいつものようにやりましょう。尚志は見学。土屋先生は鏡に向かって站樁を」

 テキパキと山形は指示を出した。

 さすがはジャパン意拳クラブのリーダーである。


 尚志が部屋の隅に移動すると二人は推手を始めた。

 それは調和が取れていて、力強く、優雅な舞いであった。

 それでいて、前後左右に動いていく二人はまるで猿がワルツを踊っているようでもある。

 尚志の目にはそう見えて仕方がない。

 必死の思いで吹き出しそうになるのを我慢した。

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