ヒヨコは逃さず殺さず

 山形は厳かに告げると笑みを浮かべたまま尚志の方にゆっくりと体を向けた。

「一体何をするんですか?」

 尚志は思わず身構えた。

 伊勢いせのようにいきなり殴ってくるかもしれないのだ。

 警戒し過ぎてし過ぎるということはないだろう。


「では問題です。意拳いけんを創った人は誰でしょう?」

「へ!? 王向斉おうこうさい


 なんと山形はクイズを出してきた。

 尚志は戸惑いながらも反射的に答えてしまった。


「正解。では次の問題。意拳はいつ頃成立した?」

「え~、概ね1925年頃」


「一応正解にしておく。次。日本と中国が戦争中だったにも関わらず、敵である日本人を弟子にした王向斉。その時に残した名言と弟子にした日本人の名前を答えよ」

「名言は『武術に国境はない』で、日本人の名は澤井健一さわいけんいち


「正解。澤井健一が日本で広めた拳法の名前は?」

太気拳たいきけん


「正解。ちょっと簡単すぎたかも。じゃあ最終問題。他の拳法と違う意拳の大きな特徴とは?」

套路とうろが、つまり拳法の型が存在しない。もう一つは意念いねんを用いて鍛錬する」


 <この流れは一体何なんだろう? 大丈夫なのか、この団体は>

 尚志は戸惑った。

 朝一番、いきなり道場破りに間違われた。

 ジャパン意拳クラブの若きリーダーである山形に。

 その山形は稽古もせずに菓子パンをコーヒー牛乳で流し込んでいる。

 気が付いたらクイズなんかで時間を潰している。

 尚志は疑いの目を遠慮なく山形に向けた。


「正解としておこう。ギリギリ合格。おい、そんな目で俺を見るんじゃない。これは遊びじゃないしフザケてもいない。意拳いけんに対する予備知識がどれだけあるかで教え方も違ってくるのは当然だろう。この拳法はカンフー映画のように飛んだり跳ねたりしない。初心者はそれに不平不満を持って見学だけして初日で辞めていくのもいる。だが尚志なら大丈夫そうだ。さあ、遊びの時間は終わりだ。今から教えるからそこに立ってくれ」

 山形はそう言うと稽古用のTシャツとジャージに着替え始めた。


「やっぱり遊びの時間だったんじゃないですか」

 少しむくれて、尚志は山形の発言内容の矛盾を指摘した。


「言葉の綾ってやつだ。男がそんな細かいことにこだわっちゃダメだ」

 山形はまったく相手にしなかった。

 

「では站樁たんとうから。站樁こそ意拳の基本であり奥義。アルファでありオメガ。まずは俺をよく見てマネをするように」

 そう言うと山形は部屋の壁のほとんどを占めている大きな鏡の前に立った。

 彼は両ヒザを少し曲げ、腰を落とした。

 両腕をゆっくりと顔の高さほど上げて両肘をやや曲げた。


「この、あたかも大木たいぼくに抱きつくような姿勢を渾元椿こんげんとうと呼ぶ。数ある站樁の中でも基本中の基本となる。これだけやっていればゴンフーが養われて強くなる。とにかくやってみよう」

 尚志は山形の後に続いて同じ姿勢を取ってみた。


「足は肩幅くらいに置く。股関節を気持ち内側にひねる。ヒザを少し曲げる。体重が自然とつま先にかかる。よって、かかとは浮いてくるがちょっぴりだけ浮かせる。うん、初めてにしちゃ上出来。下半身はこれでいい。ここまでで何か質問はあるかな」

 山形の教え方はそれなりに丁寧なので、初心者の尚志もなんとか格好はついた。


「はい、質問です。かかとはどの程度浮かせればいいのでしょう?」

「そうだな、ちょっと想像して欲しい。今、尚志のかかとの下にはヒヨコがいる。かかとを浮かせすぎるとヒヨコは逃げてしまう。浮かせ方が足りないとヒヨコは体重に押しつぶされて死んでしまう。かかとの下のヒヨコを逃さず殺さずの加減で。俺はこのように教わった」

 山形はちゃんと質問に答えた。


「もう一つ質問です。さっきゴンフーと言っていましたがそれは本来は鍛錬を意味する功夫カンフーを指しますか?」

「その通り。とある事情で俺は中国語を習っている。本場中国ではカンフーをゴンフーと発音するらしい」

 山形はそう言ったが、本当にその通りなのかどうなのかは尚志にはわからなかった。


「下半身はこれで良し。上半身に移ろう。まずは前へならえッ!」

 いきなりの山形の号令によって尚志の体が反射的に動いた。

 両腕がピンと正しく前に伸びている。

 まさしく”前へならえ”の型である。


「腕の高さはそのままで。ひじをチョイ曲げて。手のひらは顔の前に。手の甲側が外に向く。肩を下げて。ひじも下げて。両腕で円の形を作る。わきの下にはピンポン玉を挟んで落とさないような気持ちで。手の指と指の又にはゴルフボールを挟んで落とさないように」

 尚志の姿勢を細かくチェックする山形の表情は真剣である。

 対して、慣れない姿勢を取っている尚志は苦しげな表情を浮かべ始めた。


「まあ、形だけはいいんじゃないか。サマになってきたよ。ただしまだ形だけだ。さっき尚志が言ったように意拳は意念を、つまりイメージを用いるんだ。ちょっとこのまま動かないでいてくれ。俺が何をしてもだぞ」

 そう言うなり山形は尚志の両手首を強く掴んだ。

 さらにはそのまま下の方向に降ろそうとしたので、尚志は思わず大東流の合気上げをかけてしまった。

 瞬間、山形は尚志の手首から両手を離した。


「ッと! 危ねェ。何をしても動くなと言ったはず。俺は今から尚志の手首を掴んで腕を下げようとするからそれに対して下がらないように全力で抵抗して欲しい。絶対に今の渾元椿の姿勢を崩すな。間違っても俺に技をかけようとするな。もう一度だ」

 尚志のミスにもかかわらず根気強く指導する山形は正しく指導者の鏡といってもいいだろう。


 山形が尚志の手首を掴み再び下げようとしたので、今度は姿勢を崩さずに下がらないよう全力で抵抗した。

「やればできるじゃないか。その調子。次は方向を変えるから同じようにしてくれ」


 次に山形は手首を上にあげようとしたので、尚志は上がらないように抵抗。

 それから尚志は前腕を掴まれて後ろに押されたので押されないように抵抗。

 今度はそのまま前方に引っ張られたので抵抗。

 水平方向に外から内に腕の円の形を押しつぶされそうになったので抵抗。

 内から外に両腕を持ってかれないように抵抗。


「それぞれの方向への抵抗の感覚を覚えたな。では次の段階。今度は腕を動かす力が六つの方向から同時に来るとイメージする。その全ての方向の力に抵抗する。これを六面力ろくめんりょくと呼ぶ。前後上下内外に働く力を常にイメージするんだ。下半身と上半身と腕の六面力。ここまで来てようやく意拳のスタートだ。本来ならこの站樁たんとうだけで三年間みっちり修行させたいのだがそれでは飽きてしま……ってオイ、大丈夫か」


 山形の指導は丁寧だが、慣れない姿勢に尚志は疲れてしまった。

「フウ」

 と息を大きく吐き、両腕を下ろし背中を曲げかかとを地面に着けた。

 学生の時にやらされた空気椅子と同じくらいキツかった。

 動いていないのに全身から汗が吹き出していた。


「ああ、站樁をやめるにはやめ方があるんだ。そんなにスパッとやめたらせっかくの功夫ゴンフーが無駄になってしまう。つかんだ感覚を消さないようにゆっくりとやめるんだ。今のやめ方ではかかとの下のヒヨコは押し潰されて死んでしまう。もう一度言うが、ヒヨコは逃さず殺さず、だ」

 山形の説明はどこまでもわかりやすい。


 ふいに尚志は自分がヒヨコになったような気になった。 

 このジャパン意拳クラブから逃さず殺さず、になってしまうのを想像すると寒気を感じてブルッと震えてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る