第五章 香取神道流
おかしな先生
あれから尚志は学力的に懸念されていた
骨接ぎの専門学校も卒業。
晴れて念願の柔道整復師になれた。
この国家資格があれば治療家としてバリバリ働くことができる。
だが尚志は鍼灸を含めた東洋医学に興味を持つようになっていた。
武術と東洋医学は相通ずるものがあるに違いない、という確信すらある。
四月、新学期、出会いの季節。
尚志は新たに鍼灸の専門学校に入学していた。
K学園は”鍼灸学校の東大”と評判のエリート校で国家試験の合格率も高い。
そこに補欠合格ではあるがすべり込むことが出来た。
三年制なので、また三年間の学生生活が始まる。
一年のクラスは二組あり、それぞれ三十五人くらい。
年齢層も様々で、高校卒業間もない子もいれば見事に禿げ上がった壮年の男性もいた。
男女比も半々で、主婦もいれば薬剤師や看護師もいた。
そして初の授業の日。
「皆さん、初めまして。このクラスを受け持つ上杉です。
教室に入ってきたのは白衣を着た小柄で白髪頭の六十近い貧相な男。
強面な先生ではないのに、なぜか教室はシンと静かになった。
「初めに皆さんに言っておきます。鍼灸を習おうなんて人間は全員おかしいのです。まずその事を自覚してください。自分だけはまともだなんて思わないように。まあ、いずれわかります。それでは早速教科書を開いてください」
やや低い声ではそう言った。
こんな奇天烈な挨拶をする先生を尚志は見たことがなかった。
入学して一ヶ月以上も経てば段々とこの学校のこともわかってきた。
どうやら教職員生徒含め断トツでおかしいと評判なのは上杉だということも。
彼に対する噂はほぼ次の通り。
――いい歳をして独身だ。
――書や楽器を愛する風流人でそれ用の号を持っている。
――勤続年数トップのベテランである。
――他の先生たちの間でもやや浮いている。
――ああ見えて相当腕っぷしが強いらしい。
上杉という人物、少なくとも嫌われてはいないようだ。
実際、授業の進め方を見ても丁寧で面白かった。
だが、腕っぷしが強いという噂だけは信じられない。
佇まいや立ち姿、雰囲気は初老の男性そのもの。
しかし、尚志は人を見た目で判断し痛い目に遭ったこと数しれぬ。
もしかしたらもしかするかも、と注意はしていた。
では尚志のクラスはどうだろうか。
おかしい奴がいたであろうか。
いや、どちらかと言うと肉体派が多かった。
明るく元気いっぱいな元高校球児がいた。
元デカスロン(十種競技)の選手がいた。
現役で重量挙げに励んでいるマッチョがいた。
整った顔立ちながら、アマチュアの女性格闘家がいた。
少林寺拳法と空手の有段者もいた。
しかし、肉体派におかしい奴がいないとも限らない。
もしかしたらもしかするかも、と注意はしていた。
中には尚志に興味を示す奇特な女性もいた。
「ねえ、
休み時間に話しかけてきたのはクラスのアイドル、
「うん、一応は。意識の意に拳法の拳で
こんなに可愛い娘が中国拳法に興味を持つなんて。もしかしたら話が合うかも、と尚志は淡い期待を抱いた。
「わかった! じゃあ、君のことは尚志って呼ぶね。実は私も太極拳をやっているんだ。このクラスは体育会系が多いけど中国拳法はあまりやっている人がいなくって」
サラサラした黒髪、クリクリした目、柔らかそうな唇、耳に心地よい清らかな声、均整のとれた体。
すべてが尚志を魅惑する。
「そうだね。少林寺拳法が一人いるけど厳密には中国拳法ではないからね。機会があれば今度一緒に
興味津々で尚志は訊いた。
ところが、
「えっ!? 何を言ってるの? 太極拳は太極拳でしょ。意味がわからない」
急に彼女は態度を変え、尚志のもとから離れてしまった。
尚志は考えた。
会話が続かなかったのはなぜ?
地雷を踏んだ?
意味がわからないのはこちらの方だ。
もしかしたら三好さんはおかしい奴なのだろうか?
いくら考えてもわからない。
なので結局、合気を習得するよりも女の子の気持ちを理解する方が難しいのでは、と無理やり結論づけた。
この時期、尚志はどのような毎日を送っていたのか。
月曜から金曜の九時から十四時半までは鍼灸の専門学校で勉強。
座学で理論を学び、時々白衣に着替え実習室で鍼、灸、あん摩、マッサージ、指圧の実習で技に磨きをかける。
放課後は修行先の治療院で二十時まで働く。
火・木・金の十九時から二十一時までは
唯一の休みは土曜のみだが、最近は元
日曜は山形と意拳の稽古。
まさに稽古稽古の日々を送っていた。
おかげで成績はいつも下位で補習と追再試の常連だったが、三年生になったら本気を出せばいいと尚志は本気で思っていた。
そしてあっという間に三年生になって。
尚志は焦っていた。
定期試験は常に一夜漬けなので学力がまるでない。
補習、追再試、レポートなどの救済措置で何とかかんとか進級できた身なのはさすがに自覚している。
解剖学、生理学は骨接ぎの専門学校で習ったはずなのに赤点すれすれ。
この一年間だけでも武術の稽古を抑え、学業に集中するべきか悩んでいた。
だが、変わり者で知られる上杉先生の授業の影響でさらに武術にのめり込むのだから人生はわからない。
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