奥義はなく、弟子もなく、お金もなく、道場もなく

 ジャパン意拳クラブに入門して約三ヶ月、尚志は山形から意拳の鍛錬法を叩き込まれていた。

 例の公園では今日も山形の檄が飛んでいる。

 

 ・站椿たんとう

「何度も言うがこれは我慢比べではない。同じ姿勢を取り続ける苦行ではない。少しずつ体を揺すって楽な位置を探せ。感覚がピタリとハマる位置。戦いはそこから始まる。気はそこから発する。前後上下内外に働く六面力を意識し功夫ゴンフーを養うんだ。基本の渾元椿こんげんとうが辛くなったらパッと止めるな。両拳を腰に当てる休息椿きゅうそくとうで休息してからまた渾元椿に戻れ。日々の継続が大事。一日一時間はできるように」


 ・試声しせい

「意拳特有の気合いだ。示現流のチェストにあたる。いいか、一度しかやらないからよく聞いて俺の後に続け。いくぞ、『イーッ、ヨーッ』、どうした? 続けないとダメじゃないか。笑っている場合じゃない。男なら恥ずかしがるな。うん、そうだ。甲高い声がポイントだ。よくやった。試声により特に気道を操り身体の内部を変化させるのが目的、らしい。とはいえ実戦で使っているのを見たことがない。俺は教える時しか使わないが尚志は別だ。思い出したら試声を身に付くまで繰り返せ」


 ・試力しりょく 

「站椿でとらえた感覚を今度は動きの中でも消えないように動く。ゆっくりと慎重に。ではこないだ教えた神亀出水じんきしゅっすいの動きをチェックする。基本姿勢から両手を頭の高さに水平に。手の高さを固定したままゆっくり体を下に沈める。限界まで沈んだら体をゆっくりと上に伸ばす。固定した手の高さより上に頭が出るように。手の高さは水面の高さ。亀が水中に潜りまた水面に出て呼吸をするように。足を替え右半身でも左半身でもできるように。速くしたり遅くしたり変化をつけて。站椿でとらえた感覚を決して忘れずに」


 ・摩擦歩まさつほ

「意拳独特のフットワーク。足は肩幅に開く。右足を内側に向けて半円を描き一歩前に進む。左も同様に。両手は腰の真横数センチあたりに。指の形はあたかも高価な壺を持つかのように。力を抜きすぎると壺は落ちる。力を入れすぎると壺は割れてしまう。試力のようにゆっくりと動く。膝から下が泥に埋まっているかのように。田んぼに足を取られたかのように。前だけじゃなく後ろにも下がる。ラッシュ時の駅のホームで実践を。なにぃ、人の目が気になるだと。男が強くなろうと命を賭けている時に人の目など気にする余裕なんかないはず」


 ・推手すいしゅ

「説明は不要だな。実践あるのみ。今はひたすら相手にプレッシャーをかけていけばいい。持てる力と体重で圧倒するつもりで。楽をしようとするな。涼しい顔をするな。汗をかけ、汗を」

 

 ・打拳だけん

「パンチの出し方だ。手ぬぐいを首の後ろにかけてくれ。手ぬぐいの両端をそれぞれの手で掴む。絶対に離すな。そのまま右ストレートを出したら右のヒジが伸びないのがわかるだろう。ヒジは決して伸ばし切ってはいけない。 同時に左の拳で顔面をガードする。このストレートを直拳ちょっけんという。直拳がわかればいい。あとのパンチはすべて直拳の方向を変えただけ。上から下に振り下ろすパンチは栽拳さいけん。アッパーカットは上行拳じょうこうけん。フックは横拳おうけん。どの方向に打ってもヒジを伸ばすな。もう一つの拳で必ず顔面をガード。忘れてもいいが自分が痛い思いをするだけだ」

  

 ・拳舞けんぶ  

「ボクシングでいえばシャドーボクシング。心のままに動け。摩擦歩。神亀出水。推手。打拳。今までの集大成だ。ああっ、動作が終わるごとにビタッと決めるな。歌舞伎の見得じゃないんだ。動きが途切れるのはタブーだ。黄河の流れは途切れないだろう。動け、常に動き続けるんだ」 

 

 ・散手さんしゅ 

「ボクシングでいえばスパーリング。土屋先生に胸を借りつもりでやってみろ。始めッ! 尚志ッ、ガードが下がっているぞッ! だから顔面にもらいすぎるんだ。もっと踏み込め。摩擦歩で回り込んでって、オイ、大丈夫か!? 土屋先生は尚志の足の方を持ってください。俺は頭の方を持って、こっちのベンチに寝かせます。いや、尚志も強くなりますよ、多分きっと。だって土屋先生はまだ入門して半年でしょう。まあ、今はせっかく買ったボクシンググローブが泣いてる状態ですけど。お、やっと目を覚ましたか。どうだ、ガードの大事さがわかったろう。気分はどうだ? よし、落ち着いたら今度は俺と散手だ」 

 

 ・発力はつりょく

「俗に発勁はっけいと呼ばれている。格闘マンガでは必殺技扱いされている例のアレだ。意拳では発力と呼ぶ。

 1、右拳を直拳で相手にめがけて打つ。

 2、その際に右足を持ち上げ震脚しんきゃく。つまり思いっきり右足を地面に踏み込む。

 3、踏み込みに秘訣がある。右足を前方や真下には踏み込まない。ちょうど闘牛が向かってくる時に前足で地面をひっかくように足を踏み込む。

 さらに左右で何回も繰り返せばデンプシーロールになる。また胸骨に当てれば心臓震盪しんぞうしんとうを起こして死ぬので胸には決して当てぬこと。功夫ゴンフーがない尚志でも万一を考えて絶対に胸には発力をするな」


 * * * * *


「一応、尚志には一通りは教えたつもりだ。この意拳に奥義はなくひたすら功夫を積むのみ。だから後は基本練習を重ねて功夫を養ってくれ。それとあの多目的複合施設の練習部屋を借りるのはもう止めた。単純にジャパン意拳クラブに人が集まらないからお金も集まらない。これからは午前も午後もあの公園で稽古をする。なに、意拳を習いたい者が集まった場所がそのまま道場になる。これからもよろしく頼むぞ」

 ある日曜日の昼、安さで有名なイタリア料理屋で山形はしみじみと尚志に言った。


「すると奥義はなく、弟子もなく、お金もなく、道場もなく、ですか。ないない尽くしですね」

 尚志はエスプレッソを一口飲んで、苦さに顔をしかめながら言った。

「そうやって改めて言われると結構心が折れそうになるもんだな。だが陰極まれば陽となる。ここから先はいい事ばかり起こるはずだ。そうに違いない」

 自分に言い聞かすように山形は力強く胸をたたいた。


 * * * * *

 

 後に尚志は柔道で意拳のテクニックを試し、その威力に驚愕することになる。


 また、困難にぶち当たるたびに尚志は思い出すのだ。

 逆境の中、たった独りで衰退した道場を再建し復興させようと歯を食いしばって武張っていた男の存在を。

 山形を思う度に、『なにくそ、負けてなるか』と不思議な力が湧いてくるのだった。

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