第三章 柔道

二つの後悔

 

『後悔とはしなかった事に対してするものサ』とはその将来を嘱望されながら惜しくも夭折したレーシングドライバー、浮谷東次郎うきやとうじろうの名言である。


 そういう意味では尚志の人生は後悔だらけであった。

 今になって専門学校時代を振り返ると、あの時ああすればよかった、という後悔を二回経験している。


 ――蒼天会を退会した春。

 この時点での尚志の身分は学生である。

 柔道整復師じゅうどうせいふくし、つまり骨接ぎの国家資格を得るための三年制の専門学校の学生。

 しかし、二十代後半になってからの学生生活は思ったよりハードであった。

 バイトを終えると午後五時から午後九時までバッチリと必要な知識を学んでいく。

 そのルーティンを月曜から土曜まで送る。

 唯一の休みである日曜は山形から意拳を懇切丁寧にこれでもか、と仕込まれている。

 尚志は疲れていた。


 なので学業の方はイマイチ褒められる代物ではなかった。

 一般教養である英語や倫理などはまだ理解できる。

 ギプスや包帯を巻いたり、テーピングをする実習授業は頭を使わないので問題はない。

 

 問題は専門教科である。

 解剖学、生理学、公衆衛生学、柔道整復理論などの授業は独特の専門用語であふれているせいか、頭に入らない。

 従って試験の成績は惨憺たる有様。

 再試、追試の常連として早くも先生たちから目を付けられていた。


 尚志としても自分がこれほどのバカだとは信じたくなかったので、教える先生の質が悪いと思うことにした。


 ところで、この柔道整復師を養成するための専門学校は当時は全国で七校しか存在していない。

 一年に一回、秋。

 これらの学校だけで柔道日本一を決める大会を開く。

 だからどの学校も柔道部を持ち、柔道経験のある猛者を柔道推薦で引っ張ってきて秋の大会に備えるのだ。

 学校の名誉がかかっている。

 優勝すれば学校の宣伝になる。

 なにより生徒がオリンピックの日本代表候補になるのも夢ではないのだ。

 それゆえに柔道部員の生活は尚志なんかとは比べ物にならないくらいタフでハードだった。


 ある日のこと、学内でこんな噂が流れた。

 ――学校側が柔道部員を優遇するあまり、定期試験の問題を事前に渡しているのではないか?

 毎回毎回、試験で苦労している尚志にとっては無視できない噂である。

 いても立ってもいられず、同じクラスの柔道部員である深澤に直撃してみた。


 柔道部のエースである深澤は見るもの皆に鬼を連想させる堂々とした偉丈夫である。

 厚い胸板、カリフラワー状に変形した耳、筋肉質で上背のある恵まれた体格はまさしく鬼を思わせる。

 さらにはゴワゴワの天然パーマがより鬼らしさに拍車をかけていた。


「ねえ深澤くん。最近の噂は知っているかな。柔道部員に試験の問題が流れているっていう噂。本当のところはどうなの?」

「バカげた噂だ。もし噂が本当だとしても肝心の国家試験はどうする? いくら学校が柔道部を優遇しようとしても国試の問題は流せるわけない。この学校に入学した目的はあくまでも国試に合格して柔道整復師という国家資格を得ること。普段からズルで定期試験をやり過ごしても本番でコケたら学費をドブに捨てるようなものだ。ちょっと考えればわかるだろうに」

 深澤は失礼な問いにもかかわらず、冷静に論理的に答えた。


「言われてみればその通り。疑ってすまなかった」

 尚志は平身低頭謝った。

 深澤の話を聞いて自分自身が恥ずかしくもなった。


「いや、俺は気にしていない。だけど草野先生はこの噂に対して怒っている。俺はガキの頃からずっと柔道に打ち込んできて大抵のことは我慢できる。我慢できないのは草野先生に怒られることだけだ。ここ最近はご機嫌ななめでいらっしゃる。俺は草野先生の機嫌が直るならこの忌まわしい天然パーマにストレートパーマを当ててもいいくらいだ」

 深澤はそう言うと鬼のような巨躯を縮めて震えた。


 <また、草野先生か>

 尚志はその名を何度か聞いた。

 なんでも日本の柔道界でも相当の大物だとか。

 この学校の実質的支配者であり、誰もが草野先生を恐れている。


 あれは入学して間もない頃だった。

 クラスの担任にして柔道部の監督でもある大村先生が遠足の注意事項を生徒たちに向かって伝えていた時も草野先生の名が出てきた。


「いいか、明日はお待ちかねの遠足だ。だが調子に乗るなよ。自由時間にお姉さんと一緒に風呂に入れる店には行くな。酒も飲むな。俺が注意しているのは実際にやりやがった奴がいるせいだ」

 常に上機嫌な大村が真剣な表情になっている。


「集合時間になって柔道部の一人がベロンベロンになって帰ってきた。顔は真っ赤、酒くさい息、おぼつかない足取り、どっからどう見てもへべれけだった。草野先生はそれでも怒らずに『ずいぶんと酔っ払っているじゃないか。そんなんじゃ困るよ』と優しく優しく注意した。だがその生徒は『大丈夫。自分、体は酔っていても心は酔っていませんからぁ』と言ってのけた」

 大村はそこでいったん話を区切った。

 教室中の視線が大村に集まっている。

 大村は深呼吸をして臨月のような太鼓腹を揺らしてから再び話を続けた。


「次の日、彼は説教部屋で説教を受けた。この校舎の離れにある掘っ立て小屋がそうだ。素行不良の生徒はそこで性根を入れ替えてもらうのが我が校の伝統だ。お前ら、頼むから草野先生を怒らせるなよ。絶対だぞ!」

 これを聞いた生徒たち全員がまだ接点のない草野先生に恐れおののいた。

 次の日の遠足は何事もなく終了した。


 三年生になると柔道の実習は大村ではなく否が応でも草野が受け持つようになる。

 クラス全員が戦々恐々としていた。 

 しかし実際に柔道の指導を受けると、皆が草野に親しみを感じるようになっていった。

 前評判と違い、草野は老紳士であり好々爺でもあった。

 齢七十は超えているはずなのに、背筋はシャンとしている。

 豊かな白髪をなでつけコールマン髭を蓄えた口からはいつも冗談を飛ばしている。

 注意することはあっても声を荒げて怒ることは決してなかった。


「ようし、いつもの様に二組に分かれて乱取り開始ッ! いつものよぉ〜にぃ〜♬」

 草野は柔道の指導中に突然歌い出すが、誰もそれを咎めない。

 彼がゴキゲンな証拠なのだから。


 こんな事もあった。

 下校時間になり尚志が帰ろうとすると職員室前の廊下で草野に捕まった。

「おい、お前のクニはどこだ?」

 ”お前はどこのワカメじゃ?” のような調子で訊かれた。

「はい、それが僕は東京生まれの東京育ちでして。帰るところがないんですよ」

「まあ、それはそれでいいんじゃないか。深澤はクニが博多だから帰省する度に交通費を借りに来るんで困る」

「えっ、草野先生がお金を一生徒に貸しますか。信じられません」

「貸している本人が言っているんだから間違いない。深澤は苦学生でな、無期限、無利子、無担保の出世払いにしてやった」

「へえ~、それはまた太っ腹というか、気前が良すぎるというか……」

 尚志は草野の面倒見の良さに驚いた。

 同時に、気さくに話しかけてくる性格にも驚いた。


「なに、驚くことじゃない。深澤の奴は卒業後の進路がすでに決まっているんだ。俺がケツ持ちをしている接骨院グループでバリバリと働いてもらう。今まで貸した金は天引きでな」

「はあ、なら深澤の将来は安泰ですね」

 本当に安泰なのかどうかはわからないが、尚志はそう答えるよりなかった。

 目の前にいる老人はやはりただのお人好しではない。

 なんとなく、深澤に同情した。


 一礼をして帰ろうとすると再び草野が話しかけてきた。

「お前は体がでかいな。何かやっていたのか? 乱取りの時にやたら妙な動きをするから少しだけ印象に残っているんだ。あんな動きは柔道はもとより、相撲にもレスリングにも空手にもないはずだが」

「いえ、自分は武術のド素人です。妙な動きになってしまったのはド素人なりになんとか柔道に勝ちたくて創意工夫をした結果でございましてッ」

 咄嗟に嘘をついたので語尾がおかしくなった。

『自分の身に付けた大東流や意拳の技がどこまで通じるのかを柔道の授業で実験しています』とは口が裂けても言えるわけがなかった。


「そうか、偉いぞッ。そもそも嘉納治五郎かのうじごろうが既存の様々な流派の柔術をまとめ上げ、創意工夫してできたのが講道館柔道だ。どうだ、一度柔道部に遊びに来ないか。柔道部に入れとは言わない。軽い気持ちで覗きに来てくれ。歓迎するぞ」

 満面に笑みをたたえて草野はとんでもないことを言い出した。

 この場から逃げる方法を考えたが尚志の頭は上手く働かない。


 その時、天の助け。

「あっ、草野先生、探しました。こちらの書類の確認だけお願いします」

 職員室から大村が顔を出して草野を呼んだ。

「おお、わかった。今行く」

 草野は返事をすると再び尚志の方を向いた。

「おお、呼び止めて悪かったな。機会があればまた今日みたいにこの爺ィの話し相手になってくれ」

 そう言うと彼は尚志の肩をポンポンと叩き、職員室に戻っていった。

 どうやら災難は去ったようだった。

 

 このように草野と二人で話すのは初めてだが、これほど気さくで話し好きなのは意外であった。

 もしかしたら上に立つ者の宿命で、草野は思ったよりも孤独なのかもしれなかった。


 そして在学中の三年間、尚志はとうとう柔道部に遊びに行かなかった。

 だが、卒業して幾年月も経った今になって思う。

 <あの時に柔道部に遊びに行って、基礎から稽古をつけてもらうべきだったかな>

 一つ目の後悔がこれである。


 話は変わるが、尚志はれっきとした柔道の黒帯保持者である。

 講道館柔道の初段なのは間違いない。

 確かに間違いはないのだが……。


「いいか、そもそも昔の柔道家は骨折や脱臼、打ち身に捻挫は日常茶飯事だったからそれくらいは当たり前に応急処置ができた。柔道家が年を取ってもこれらの治療技術で食えるように国家資格にしたのが柔道整復師だ。だから今は柔道がそんなにできなくても資格を得ることが出来る。だが、我々の原点はあくまでも柔道だ。そこでお前たちの励みとするために今から配る申請書に名前を書けば柔道初段になれる。良かったな」

 大村はそう言うと申請書を教室の生徒たちに配り始めた。


「先生、質問です。すると昇段試験もなしに黒帯になってしまうんですか?」

 尚志が訊いた。

 黒帯がこんなに楽に習得できるとは不思議でならなかったのだ。


「いや、こないだの柔道の実習で前回り受身をやっただろ。あれが昇段試験だ。全員、見事なでんぐり返しだった」

 大村の言葉によって教室中がざわめいた。


「いいか、講道館というのは歴史が浅い。それゆえに、お金を吸い上げるシステムとして茶道や華道の家元システムを参考にしたんだ。だから全員、昇段料として一万五千円を振り込むように。この件に関しては拒否権はないからな」

 大村の言葉によって教室中がさらにざわめいた。


「静かに! まあ、黒帯を金で買うのは間違いない。だからお前ら、他所では絶対に柔道初段なんて言うなよ。恥ずかしいからな。実力が伴ってないのはお前らが一番わかっているはずだ」

 こうして、クラス全員が柔道初段になった。

 深澤などの柔道部員はもともと段なので例外ではある。


 ――三年生になって一月。

 学校の柔道場では柔道の実技試験が行われていた。

 これに受からないと国家試験は受けられないので皆が真剣である。

 課題は出足払であしばらい。

 審査するのは草野。

 他には講道館関係者や他校の柔道指導者などの数人が審査のために呼ばれていた。

 草野はいつもの笑顔ではなく、今まで見たこともないような厳しい表情で皆の技をチェックしていた。


「ダメだよ、お前。足を出す順序が逆だろう」

 尚志は草野から注意を受けた。

 もしかしたら落ちたかも、と尚志は不安な日々を送っていた。


 数週間後、教室で実技試験の合否を発表する大村の姿があった。

「えー、今から柔道実技試験の結果を発表をする。結論から言うと全員合格! おめでとう!」

 教室内に”わあっ!”と歓声が上がった。


「正直、合格基準に満たない者もいた。が、そこは草野先生の力と御威光で無理やり合格にしてもらえた。あの時、あの柔道場で一番偉いのは草野先生だ。誰も逆らえない。だから心当たりのある者は草野先生に感謝するように」

 尚志は心の中で草野先生に感謝をした。


「それで、だ。実技試験に合格した者には特典があるぞ。なんと柔道弐段に昇段できる資格だ。希望する者は申請書を今から渡すから俺に言え。昇段料は三万円。今回は強制じゃなく希望者のみだ。ただ柔道弐段になれるのはこれが最後のチャンスだぞ。後になって実力で取ろうとしたって骨だ。ただ弐段になったとしても他の人には絶対に言うなよ。あくまでも柔道整復師の励みとなるように講道館が好意でくれる名誉弐段のようなものだからな。じゃあ希望者は手を挙げてくれ」

 何人かの生徒は手を挙げたが、尚志は手を挙げなかった。


 <金で買った柔道弐段なんて誇れるわけがない。武張ってもいない>

 当時は心からそう思っていた。


 だが、今では、

 <初段も弐段も金で買ったことには変わりない。どうせだったら素直に弐段をもらっておけば良かったかな>

 などと未練タラタラ。

 これが二つ目の後悔である。

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