伊勢の鞭手(ベンシュ)

 蒼天会での一般稽古は二十時半に終了する。

 二十一時までの三十分は自主練習を行なってもよし、早く帰るもよし。

 武術団体にしてこの自由な雰囲気を尚志は気に入っていた。


 一般稽古が終わると才川のフリーを堀内と共にうける。

 フリーが終わると黒田のグループに入れてもらい皆で自主稽古。

 それから更衣室で着替えて地麦で一杯やるのがいつもの尚志のパターンであった。


 しかしどういうわけか、最近は伊勢に捕まることが多い。

 一般稽古を終え、フリーを受け、黒田のグループで自主稽古。

 今日も充実した稽古をした、と満足していると、

「まだ時間はあるだろ。ちょっとやってこうぜ」

 と伊勢が殴ってくるのだ。

 もしくは蹴ってきたり、掴んできたりとやりたい放題である。


 打撃技は習っていない尚志だが本能でパンチとキックをさばくとメチャクチャに突きと蹴りを繰り出す。

 終いにはお互い取っ組み合い、寝技や固め技を仕掛けようと道場の畳をゴロゴロと転がるのがお約束だった。

 はたから見たらまるで軍鶏しゃものケンカ。

 合気もクソもない荒っぽさ満点の稽古だった。


「あれは止めたほうがいい。合気というのは合気を身に付けた人からしか習得できない。そういう性質だからだ。もう伊勢さんとの稽古は断るべきだ」

 見るに見かねて才川が忠告した。

 しかし、尚志の意思とは関係なしに伊勢は襲いかかってくる。

 なので、否応無しである。

 だが正直に言えば、尚志はこの実戦的な稽古を楽しんでもいた。


 伊勢の風貌は総髪に口ひげと、あたかも江戸時代の医者のようでもある。

 いつも穏やかな笑顔を浮かべていて、一見人畜無害そうな小男だが実は道場一のバトルジャンキー。

 

 彼は何をしている人なんだろう?

 時々、尚志は不思議に思う。

 才川は右翼。

 黒田は土建屋の社長。

 佐嶋は税理士。 

 なら伊勢は?

 直接訊けば疑問は解消するが、そうするのも何故か癪なので訊かないでいた。


 忘れた頃に疑問は解けた。

 ある日、一般稽古が終わると茶帯の可愛い女性が伊勢に近づいて来た。

「聞きましたよ。伊勢さんってあの劉正軍りゅうせいぐん老師の内弟子だったって。私、どうしてもが見てみた〜い」

 両手を合わせ上目遣いで伊勢におねだりする仕草は確かに可愛さ満点である。

 容姿も若くて清楚な感じでとどめにポニーテールなので破壊力も満点である。


 だが尚志は可愛さやポニーテールの破壊力より劉正軍の名前に驚いたのなんの。

 <待てよ! あの劉正軍の内弟子だと!? この伊勢さんが!?>

 劉正軍という名は中国拳法の漫画で知っていた。

 尚志が愛読している武張った漫画に登場した内家拳の達人。若き主人公の師匠格のモデルになった拳法界の超大物。


「どうしてもって言うならしょうがないな。じゃあ尚志は入口近くの端っこに立ってくれるか。今、尚志を相手にベンシュをやってみせるから」

 伊勢は嫌がる素振りも見せずノリノリだった。

 わけもわからず尚志は道場の隅っこに立った。


「俺はこれから尚志の顔面をベンシュで打つ。尚志は顔面への打撃だけに注意してガードしてくれて構わない。いくぞ!」

 伊勢はダッシュで尚志の懐に飛び込んできた。

 

 <だからベンシュって何なんだ? いや、顔面への攻撃に集中! 伊勢さんの手の動きだけ見ていれば防げるはず。えっ!? バカな!? 僕の視界から伊勢さんの腕が消えただとッ!?>

 ”バッチィィ~ン!”

 鼻に衝撃を感じた。

 膝から崩れ落ちた。

 あたかもスローモーションのように、その身を道場の畳に横たえた。

 起き上がれない。

 自分の意志ではどうしようもない。

 鼻から鼻血がドバっと吹き出た。


「やべっ、思わず本気で入れちまった」

 伊勢の声が聞こえた。

「キャー、ベンシュを生で見れたッ。すごいすごぉ~いッ!」

 茶帯の女が興奮してはしゃいでいる。

 <だからベンシュって何なんだ? つーかそもそもの元凶はこの女か。ちょっと可愛いからってワガママ放題じゃないか。このワガママジュリエットめ>

 心の中で恨み節を吐くと、やがて尚志は意識を手放した。


 ――約三十分後、尚志はいつものメンバーと地麦で今日の出来事を語っていた。

「フフフ、だから伊勢さんとは止めとけと言ったんだ」

 才川は、そら見たことか、と言った感じで呆れていた。

「だが、今日のは見ものだったな。見てる分には面白かった。ワッハッハ」

 黒田は豪快に笑っていた。

「クソ、体を張ってまで笑いを取るなんて。また負けてしまったよ。イッヒッヒ」

 あくまでも笑いにこだわっているのが佐嶋らしかった。


「それはそうと、伊勢さんがあの劉正軍老師の内弟子とは知りませんでした。ところでベンシュとは結局のところ何だったんですか?」

 尚志が伊勢に訊いた。

「ベンシュはむちの手と書いて鞭手べんしゅと読むんだ。腕を鞭のようにしならせて手掌を敵の顔面にお見舞いさせる技なんだ。受けてみた感想はどうだった?」

 今度は伊勢が尚志に訊いた。

「喰らった瞬間は痛さは感じなかったんです。意外なことに。おそらくはグワアァァ~ンという衝撃が痛さを凌駕したのでは。まあ、貴重な経験をしました」

 尚志が答えて言った。

「貴重な経験なら次回も色々と経験させてやるよ、へっへっへ」

 伊勢の発言に皆がドッと笑った。

 尚志だけは笑えなかった。


 ひどい目にあった尚志だが、相変わらず伊勢との自主稽古は続けていた。

 きっぱりと断れば止められるのかもしれない。

 だが尚志は断らない。

 何でもアリアリの自主稽古。

 パンチとキックの当て勘が研ぎ澄まされていく。

 グラウンドでの攻防も素人なりに様になってきた。

 伊勢を相手にすればするほど強くなっていく感覚がたまらない。


 才川のフリーで合気の真髄を味わう。

 黒田からは理論的で実践的な技 を教わる。

 自主稽古の最後は伊勢でしめる。

 尚志は 充実した道場ライフを送っていた。


「痛ッ、ちょっとタイム。首を痛めたようです」

 いつもの稽古中に、尚志は首の痛みを伊勢に訴えた。

「どれ、ちょっと見せてみろ。そこに座ってくれ。今、治すから」

 伊勢は尚志の後ろに回り、首を触りだした。

「右に回すと痛むんだな。なら俺が頭を両手で抑えるからゆっくりと左に首を回すんだ。そうそう、その調子。よし、もう一回。今度はハイと合図をしたら息を吐きながら全力で左に回すように。うんうん、いいぞ、ハイッ」

 伊勢の指示通りに首を動かすと、驚くべきことに痛みは完全になくなっていた。

「ウソ!? 痛みが完全に消えた! どうして?」

 尊敬と驚愕の眼差しで尚志は訊いた。

「あれ、言ってなかったっけ。俺は均整きんせい院の院長をやってるって」

「均整?」

「均整術っていうのは日本での整体の走りだ。今、治したやり方はオステオだが痛みが無くなれば問題ないだろ」

「オステオ?」

「正確にはオステオパシーと呼ばれる西洋の伝統的手技療法だ」

 尚志の疑問に対して、伊勢は面倒臭がらずに端的に答えた。


「武術と治療を両方できるなんて尊敬します」

 尚志は伊勢を見直した。

「人を殺せるから人を治せる。活殺自在は当たり前じゃないか」

 伊勢の言葉は武張っていて、いつかはこんなセリフを言ってみたい、と思わせる魅力があった。

 武術家と治療家の二足の草鞋を履く伊勢に憧れた。

 こんな生き方もあるんだな、と感心した。


 その日もお馴染みのメンバーで地麦に寄って、いい感じで酔っぱらい、皆で気分良く店を出た。

「なあ、今日は尚志の首を治療した分、暴れたりなくって欲求不満だ。治療代替わりに今ここでやろうぜ」

 地下鉄駅の改札口前で伊勢がとんでもないことを言い出した。

「嫌ですよ。大体、伊勢さんのせいで首を痛めたんだから。冗談じゃない……って、ウオッ! 危ねえ!」

 尚志は全力で断ったが、伊勢はお構いなしにパンチとキックを浴びせてくる。


「オイ、アレを見ろよ」

「ハハ、面白え。ケンカだケンカだ。ハハハ」

「誰か警察を! 早く!」

 明らかに素人でない伊勢の動きはとても目立つ。

 たちまち改札前にギャラリーが集まってきて勝手なことを言い出した。

 才川、黒田、佐嶋はその様子を見てニコニコと笑っているだけである。


 <無茶苦茶じゃないか。なんでこんな人に一瞬でも憧れたんだろうか?>

 かろうじて伊勢の攻撃を防ぎながら、尚志は後悔していた。

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