第八幕 御前試合
四三 夜深
頭上の月は、半月よりは満月に近い。日が沈み、ずいぶんと経った。
月明かりの
ふたりは互いに向き合うことなく、崖に背を預けて立ち、長く無言でいたのだが、その沈黙を破ったのは早だった。
「こう暇を持て余すとはな。これではまるで、
早は不服そうに言うが、それをなだめるではなく、囁は淡々と言った。
「いいんじゃない。戦って痛い思いをするよりはさ。蚊帳の外みたいでも」
「蚊帳の外のよう、か」
少し考えるふうに、早は言った。口にしてみて、強い違和感があると気づく。ゆえに、すぐに思い直した。
――いや、これは本当に蚊帳の外なのだ。
ふたりが配された山道が、一軍の命運を左右しかねない地点なのは事実。十分に仕事の体裁となる。囁と早が配置されるにふさわしい。しかし、見せかけの価値だ。
――最初から、誰もここを通らない。
仮にも戦勝請負、ならば、
早は思わず声に出してしまった。
「よく考えてみれば、まったく、奇妙な師弟関係だ。馴れ合いとまでは言えないのだろうが」
囁と早を配置する場所は、申し合わせなく、しかし、紛れもない合意のうえで決定されたのだ。
早から漏れた言葉が聞こえても、囁は関心を示さなかった。
「よくわかんないな。興味もないし。それにほら、情報開示は必要なぶんだけ、ってのが、うちの大将、ゆっちの方針だからさ」
囁と別千千行の関係はそれでいいかもしれないが、早と
囁には問題のないことらしく、早は状況を心中で整理せねばならなくなった。
――別千千行と秋大忌隠は、それぞれ、相手にとって致命的な脅威となる戦力を、互いに差し出す形で、戦場から追放した。それが、
夜の陰りの中、地に放られたままになっている本がある。行が囁に持たせた小説だ。
――戦わせるつもりがないのなら、小説のひとつくらい持たせもする。
――秋大忌隠は、ふたりの咎持ちを同時に相手にすることは、どうしても避けたかった。組んで戦われれば、
早を山道に配置した隠に、行が応えた。
――対して別千千行は、
行と隠は、互いに潰し合うことを避けたのだ。
――
早は心の
「だからこその許可、か」
ごく静かに呟きながら、早はもうひとつ納得した。隠は、戦わせないことで早が不平を感じると見越して、早に対する配慮を加えたのだ、と。
「退屈だ。
早は崖から背を離し、囁に向き直る。対する囁は、まるで考えになかったと、何度かまばたきを繰り返した。
「……どうしてそうなるかな。せっかく暇していられるのに、命をやり合おうって? 第一、命令違反じゃないの?」
「
聞いて、囁は諦め顔になった。事実、早が移動しようとするならば、咎言を言ってでも止めなくてはならない。そういう指示が与えられている。
「そんなことが書いてあった気もするけど、忘れちゃったな。ゆっちからの指示書を読み返そうにも、こう暗くちゃね」
囁はごまかしてはみたものの、力ない様子であるのは否めなかった。どうも早からは、単に退屈だというのではない、強い意志を感じる。
「ただ、誤解するな。ただの手合わせ、技量を競うだけの、言わば試合だ。命のやりとりをする気はない。別千千行の恨みを買って、
早が山道から移動しようとする、囁はそれを力尽くでも止める、それが早の描いた、試合を成り立たせる体裁だった。自分は違うが、囁は私闘を許されてはいまい、そう思うゆえのことだった。
「その言い方だと、試合をするぶんには、里にいいことがあるって?」
早は夜目が利くが、囁はどうかしれない。囁がどこまで見えているか判然とはしないながら、早は頷いた。
「ある。
早が死処の姫でいた理由とは、ただただ、名を売るためだった。
死処の姫とは、雇用主がいなくなることから生じたものだった。里ごと雇ってくれる新たな
この
里の望みは、同時に、間違いのない早の望みでもある。果たさねばならない。ゆえに早は隠に直訴していた。哭日女囁と戦いたい、と。
早は囁を見据え、次に夜空に目をやって、星の動きから時刻を読み取って
「許可を得ている。この時刻になったなら、
囁はそれを聞き、諦めの色を濃くするとともに、困惑も深くした。
「
囁は、指示書に書いてあったことを思い返す。無論、全文を覚えている。
「このぐらいの
囁が言い終える前に、頭上、ほとんど垂直にそびえる崖の上から声が聞こえた。声が聞こえるより前に、早は人が近寄る気配を感じ取り、そちらに視線を向け、目を凝らしていた。
「あっ、いたいた。さっちゃん、元気かなぁ?」
噂をすれば何とやら、というものだろうか、囁は思う。崖に背を預けることをやめ、囁は振り返って崖の上を見上げた。囁の瞳にとってみれば、ほとんどは闇だが、白く長い髪があることはわかる。
「ねえねえ、
兵糧として大福を選び、ましてそこに根菜を入れようなどとする者は、囁はひとりしか知らない。ちょうど話に出ていた、
崖の上に広がる山林を抜け、囁たちの頭上ちょうどに姿を現したのは、紛うことなく、極点として戦勝請負と並び称される、あの神幡姫潤だった。いつも通りに黒地に梅の振袖を着て、防具を
潤は目をつぶったままだった。月下、肉眼でものを見るのは苦労する。咎言――
「もう、大変だったんだよぉ。ねえ、
ぬうっと、潤の足元に姿を見せたのは、愛蛇である戯だった。体の色が白であれば、月夜で判別しやすい。囁の目でも十分に見分けがついた。
姿は捉えられても、舌を何回出したかまではわからない。潤の語尾が疑問の形を取ったので、戯はそれに応え、一回だけぴっと舌を出した。潤との取り決めでは、一度出すなら肯定の意となっている。戯の肯定を受けて、潤は続けた。
「
囁は潤の役目までは教えられていないのだが、潤は相手の知る知らないを考慮するのが下手で、要旨だけが先に出た。囁からすればもう慣れている。格段の興味もなく、そのまま話を合わせた。
「わざわざ縛ったわけ?」
「うん。潤、ただでさえ嫌われ者だから、いろんな後ろ盾がある千束の国ならまだいいけど、
行が飛ばした三番の鳩、それは本国には向かったが、首府には向かわなかった。列椿の領内、戦場から最寄りの町へ向かったのだ。潤はそこで手紙を受け取った。
行は、潤に休暇としての観光を勧め、
いくら列椿が大国でも、
会話を聞けば、早にとって、潤が敵方であるのは明らか。早は、諦めを交ぜて喋らなければならなかった。
「なるほど。加勢ということか。さすがに、楽観的にはなれん」
腕に覚えがあっても、ふたりを相手にするのは無理があると、早は判ずる。他の者なら、戦場を闇に落とせば同士討ちが狙える。しかし、神幡姫潤に限ってはまず無理だ。天性の勝負勘というものがある。味方を攻撃してしまうことも、味方の攻撃を受けることもないと、そう考えておくべきだ。
――それとて、
わずか、早は
「加勢ってのは万一の場合でね、第一は状況確認なんだよね」囁は潤を見上げ、端的に訊ねた。「ねえ、潤、
潤の咎言の支配領域は半里、その
「うん。もう戦は終わったよぉ。だって、羽撃ちの軍、撤退してるもん。勢揃いで、羽撃ちの国へ帰る途中だねぇ」
思わず、早からため息が漏れた。羽撃ちが敗れたらしいことが理由ではなかった。どうしようもない。先までは、潤も含めて相手にする覚悟があるなら、囁と戦えたはずだった。もう、どうあっても叶わない。
早が敵方からの情報を信じる義理はないが、囁は違う。
口惜しいと、どれだけ顔に出ていたか、早は自分で気づいていなかった。夜目が利かない囁でも読み取れるほどだったのだ。そんな早を見つめる囁の瞳は、ただ優しいばかりだった。
囁自身がそうと認めなくても、乱の
「それじゃあ、試合、始めようか」
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