四二 託言
裁、そして隠と向き合うに至った睦は、胸に巻いたさらしと、腰布一枚だけの格好だった。服を焼いたことはもちろんあるが、それよりも、武器を持っていないと示す意味合いだった。
行は、あたしの後に続け、そう言った。その言葉通り、先頭を切って川を泳いだが、睦はそれに続かなかった。副将の責任として、自分は最後尾で進むという
野外、
交渉を前に、裁が断りを口にした。謝罪さえ、堂々とした口ぶりだった。
「我がほうの兵に不始末があったことは詫びよう。だが、
睦は隠に瞳を向ける。
別千千行の策、ちりばめられ、張り巡らされたそれは、今、この瞬間に結実する――
――成る。
睦は、言った。
「列椿国軍、指揮官、
睦の声音は気概に満ちる。確かなものと信じている。
列椿の国は――乙気吹睦は、勝つ。
「別千千行は、秋大忌隠に対し、負けを認める」
戦勝請負の必勝不敗の神話は――途切れない。
「ただし、秋大忌隠は、別千千行のはったりに騙される。そして、別千千行は、秋大忌隠の用意してある保険に、まんまと引っかかる。戦勝国は列椿と羽撃ちだ。以上です」
戦勝請負は、必ず――
――勝利する。
聞いて、隠はすっかり、見事に呆けてしまった。声が出たかと思えば――
「ははっ。は、先生、さすがというか。ああ、さすが。はははっ」
――笑ってしまうのだった。もう、半ばは言葉にならない。戦術を同じくするゆえ、短い伝言のうちから、何もかもを読み取ってしまう。隠は裁へと向き直る。表情は明るく、迷いがない。
「裁将軍、結論から言います。我々の取るべき行動、それは――」
隠はもう、顔いっぱいに笑みを乗せるしかないのである。
「――撤退です」
無論、裁には伝言の真意が読み取れない。確認することがあった。
「それは、理由を説明できないほど、緊急を要するのか?」
「我々からすれば、ちっとも。今ここで、ひとつ戦術の授業をしましょうか? もっとも、列椿の軍からすれば、少し急いでくれというところかもしれません」
授業は無用だが、命令を下すための判断基準は欲しいところだった。裁は短く、「話せ」と、隠に言った。隠は、「少しばかり、教師の勘というやつを、取り戻させていただくとして」と前置きしてから、撤退の理由を
「先生のはったりについては、先程、説明しました。我々は、後方に脅威が迫っているとして、それを口実に退きます」
何も理由がないでは撤退できない。表向きはそういうことにする、ということだ。
「では、俺の用意した保険というのは何なのか。実はまだ、言い逃れができるんですよ。羽撃ちは列椿を裏切っていない、と」
別千千行の戦術では、常に安全策を講じておくことを良しとする。ゆえに、隠も行と同様、保険をかけて
「我々、羽撃ちの軍はまだ、列椿国軍の誰ひとりとも交戦していないんです。戦ったのは天栲湍改だけ。言えるんですよ、まだ。あれは不幸な誤解だった、と。そして、そのことについて、先生からも口裏を合わせてくれる、そうですね?」
そう問われれば、睦は頷く。それを確認して、隠は話を続ける。
なぜ行が、川下りを決行してまで羽撃ちとの対面を忌避したのか、それは隠の思惑を読んだがゆえであり、隠の保険を活かしたいと思うがゆえだった。兵同士が戦ってしまえば、裏切りははっきりと知れる。その保険はなくなり、使えなくなる。
「まず先生が言いたいのは、羽撃ちが裏切らなかったことにしよう、と、そういうことなわけです。となれば、我々は月垂りを攻める側となり、まあ、降伏を促すことになるでしょうね。一見、月垂りへの不義理に思えます。実体は全く逆です」
別千千行が負けを認めるのはなにゆえか。
「先生が、俺のことを自分より上の戦術家と認める、たったそれだけのことで、何もかもひっくり返ってしまうんです。お得意のでっちあげですよ。まさか、こんな策を見せつけられて、勝ったなんて思えませんって」
隠は、自分の見立てが正しいことを知る。
別千千行は、たったひとつの嘘で戦局を変えられる、そう評したことは、間違いではなかった。
行には、嘘のつもりはないだろう。ただの取り引きであり、羽撃ちが得をするものだ。その意識しかないだろう。
しかし、隠が見破れなかったことも本当なのだ。隠には騙されたとの思いしかない。結果として、事実、羽撃ちの軍は何もわからずに進んだ。その先に大きな利得があるとは知らずに、
――先生は本当に、嘘を
木を隠すならどこなのか。森か、川か、空か。違う。そんな木があるとさえ、思わせてもらえなかった。
確かにはったりは看破した。それだけだ。どうしたって無理だったのだ。その先は見通せないようになっていた。
――俺だけは、決して思わない。先生が、向こうから負けを認めてくるなんて。
そして、一番弟子だからこそ知る機会に恵まれなかったことを、隠は知り
――別千千行を敵にまわすとは、こういうことなのだ。
隠は教師の本分ゆえか、
「月垂りの目標は主権の維持です。列椿に侵略、
秋大忌隠が無名の軍師である限り、それは不可能だった。
「無論、列椿は月垂りの領土を我がものとしたがる、そこに、我々、羽撃ちの国が戦勝国として、待ったをかけます。月垂りを
月垂りの国はそのまま残る。連合に入れば、同盟国に対して港の開放は避けられまいが、もとより羽撃ちに使わせるつもりだったのだ。何も損はない。そして、散々悩まされ続けてきた懸案、列椿からの侵攻というものが、今後、一切なくなる。
「羽撃ちはそれでかまわない。月垂りも応じる。では、列椿の上の連中が、その要求を呑むでしょうか。彼らは拒めません。列椿の上の連中は、先生の言うことを聞きます。なぜ?」
何のための、でっちあげであるのか。
「先生はただ、こう言うだけでいい。言うことを聞かないのであれば、恥をかかせるというなら、一番弟子のところに行く、と」
それは、脅迫のためだ。
「別千千行ひとりでさえ敵に回したくないものを、それより強い弟子と手を組んで他国に雇われるとなれば、恨まれているともなれば、想像しちゃうんじゃないですか。自分の国が攻め滅ぼされるところを。だいたいのことは、言うなりですよ」
行だけにとどまらない。三人の咎持ちが共に移るとなれば、是が非でもそれは避けたい。脅しに屈するしかない。
「で、あれば、羽撃ちは、月垂りの港を優先的に使わせてもらいますが、その解釈で間違いありませんね?」
隠は睦に問い、睦は静かに頷いた。
「結論はこうです。確かに、当初予定していた輸出量よりは下回るかもしれませんが、それに準ずる量を、羽撃ちは、諸国連合から脱退することなく輸出できる。言ってしまえばぼろ儲けです。乗らないって手はありませんね」
諸国連合を脱退する、月垂りとの友好を強化する、それがもともとの段取りだった。それが、月垂りとの友好を保ったまま、連合も抜けないというのだ。政治的な大勝と言える。
「列椿の軍としては、万を超える兵の命を守れるだけで御の字、というところですか」
それについても、睦は頷く。認める。
「
隠は、穏やかな声音で、はっきりと口にした。
「――戦勝請負は商売を続けられる。勝ったんですから」
羽撃ちの兵たちは裁の指示を受け、退却の支度を始めていた。月下の
それを見やる隠は、月垂りの国、澄に宛てた書状を書き終えたところだった。月垂りは降伏に応じた後、領内にいる列椿の軍勢に、食料などを提供することになる。後日、列椿の国からたっぷりと謝礼が届く。南の山林に避難している列椿の傷兵のもとには、羽撃ちの部隊を救助のために向かわせた。
隠に近づく人影があった。服装がちらほらと照らされれば、すぐに睦と知れる。どうせ先生は今も裸なのだろうと、そう思えば、隠は笑いをこらえなくてはならなかった。
睦は、隠が書状を書き終える頃合いを見計らっていた。行から預かったもうひとつの伝言がある。睦はそのまま歩み、隠と並んで立った。睦も同じく撤退の様子に目をやり、改まって隠と向き合うことはしない。交渉はまとまり、
ずいぶんと
「天幕のひとつに、別千千行の着る、金色の陣羽織があります。降参の印として、持っていっていいそうですよ」
隠にしてみれば、まるで冗談としか思えない。こんなにいいようにされて、勝ったと思えるものか。しかし、何もかも本気であるから、別千千行は別千千行のままなのだ。
どうとも返事をしかねるまま、隠は尋ねた。
「この
ずいぶんと答えにくいと、睦は困る。模範解答しか浮かばない。
「さあ、どうでしょう。羽撃ちと列椿なのではないですか」
曖昧に、しかし確たるものとして、隠には見えてきた。
「俺は、そうは思いません」
隠の口元に笑みが交じる。師の策は
「この
言われてみても、睦としては話に乗れなかった。そんなことは聞いていない、別千千行のやることであれば、あるいは、そうであるのかもしれない。結局は、役目を果たすのが先だった。
「私にはどうともわかりません。それで、陣羽織については、どうされますか?」
隠は最高の苦笑を浮かべて、言った。
「もらってあげますよ。先生に貸しだって言っておいてください」
「ええ。あなたは同盟国の軍師なのですから、伝言はいくらでも」
やっぱり先生は先生なのだ、隠はそう思う。自分では敵わない。悔しくて、とびきりに嬉しい。伝えたいことはたくさんある。あふれて、とても全部は頼めない。
その中でとりわけ伝えたいことは――
――一番弟子だ、ということ。
「じゃあ、言葉に甘えて、付け加えときます。貸しをなくしたければ、授業をしてくれ、と。負けを認めて勝つなんて芸当、俺には到底
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