四〇 大罪
「裁将軍に報告です。ちょっと、妙なことになってるんですよ」
兵から事情を聞いていた隠は、裁の隣に戻ってくるなり、そう言った。裁は言葉を返さなかったが、射るがごとき眼光を向けて話の続きを促した。夜陰を照らす
「前方と後方、どちらからも、偵察の報告が入りません。全く途絶えているんです。前方とは、天栲湍改がいるより先の地点を指します。後方は、正確に言えば、禍祓早を配置した山道、その近辺を指します。羽撃ちの本国との連絡は可能です」
「それが何を意味する?」
裁は直接に解を求めた。裁とて何もわからないではないが、専門家に聞くべきだろうと判断した。
「我々は今、前方と後方、そこで何が起きているかわからない、何が起きていても不思議ではない、ということです。それはまあ、説明するまでもないでしょうが」
裁は沈黙をもって、隠への肯定の返事とした。
「前方はいいんです。天栲湍改はあくまで、目視で敵を捉えている。だから、大きく迂回すれば、前方に偵察の兵を送れました。それゆえ我々は、
裁は沈黙を保つ。
「もう夜です。目視で敵は見つけられない。今は双思沈がそばにいるのでしょう。彼女が咎言で敵の位置を確認すれば、迂回する兵が倒されても不思議はない。妙なのは後方です」
「後方、それがどういう脅威になる?」
裁は話の流れに乗るべくして言ったが、隠は首を横に振った。
「何も。ちっとも、ですね。何の脅威にもならない、だから、妙と言うしかないわけです」
「なるほど、軍師が教師に向くことで、私が損をすることもあるようだ。順序立てて話すな。戦場では、結論から先に言え」
隠は苦笑いを浮かべたが、それは口元にしかなかった。目元では、緊張、あるいは恐れが滲んでいた。
「こけおどしですよ。先生の用意したはったり。別千千行の
隠にとっては、すぐにそうと知れる。中身がない。脅威がない。しかし、本能が警鐘を鳴らす。打ち鳴らされ、響き、
「先生は何らかの手段で、後方の偵察からの情報伝達を絶った。それは、ある可能性を生み出します。もし、禍祓早が排除されていたら? そして、禍祓早の排除を前提に、列椿の本国から、援軍が送られていたなら? どうです?」
「どうも何もあるものか。私たちは挟み撃ちにされ、無惨に敗れる。そうなる前にさっさと撤退するしかない。しかし、脅威はないと言ったな。はったりだと」
軍師が言うのなら、裁が信じるべきはその判断なのだ。つまり、羽撃ちの軍はこのまま進む。
「ええ。はったりです。ありもしない後方の脅威を意識させ、進軍をためらわせる、あるいは撤退を促すための。援軍なんて、あの老将軍が送るはずがない。禍祓早の排除自体、十中八九、成功しない試みです。やらないでしょう。しかし、妙というよりは、むしろ――」
隠は誰より知っている。別千千行という天才戦術家のことを。
「――恐ろしい、ですね」
戦場で弱気を見せるべきではない、しかし、隠の口からは、どうしても本音がこぼれた。別千千行は、かつて、何によって村を焼き滅ぼし、蔵を出たのか。たったひとりで、
「恐ろしいだと? はったりと知れているのに、か?」
裁は怪訝な顔を向けた。敵の策を看破して脅えるとは、どういうことなのか。
「知れているからこそ、ですよ」
鬼で言うなら金棒を、すでに持たせてしまったのではないか。別千千行に、何にも勝る武器を与えてしまっているのではないのか。隠の顔では、かろうじて口元にあった笑みも、今や消えていた。
「言ったでしょう。
脅威はない。ないはずだ。しかしこの場合、ないほうが不自然なのだ。あるいは、行が隠の力を見誤ったための失策、それゆえに脅威がない、そう解釈するとしても――
隠は見定めきれない。
――先生なら、ここで、どう考える? それでも思うのか?
――持っていると?
――別千千行の手札には、すでに切り札があると?
「困ったもんですよ。あの人、嘘偽りがそこにありさえすれば、
「
沈は
沈はむしろ数少ない例外のほうで、水さえ拒まれるのが
瑠璃竹はこの地方の馬と比べ、大きな体躯を持つために、他の馬を脅えさせる。沈は改の近くまでは馬で来たが、そこからは自分の足で進んだ。そも、改の戦いぶりを前にして平静を保てる馬というのは、瑠璃竹ぐらいのものだ。
「そういえば、瑠璃ちゃんは、一緒に凍罪の島に行けるのでしょうか?」
沈の言葉は問いかけの形ではあったが、返事が返ってこないことはよくわかっていた。改は矛を振るったばかりで、喋れる状態にないというのはひと目でわかる。聞こえているかどうか、それも判然としない。改が矛を振るう際も、沈はすぐ隣にいる。もともとは白かった沈の
沈の顔、その細やかな肌を血が滑り、唇の端に達し、口内にわずかが漏れ入り、舌が錆びた味を感じる。顔、髪、あるいは
返事は返らない。それでも沈は話しかける。改の意識を、こちら側に留め置くために。どんな目に遭おうとも、改は、戦える自分を望むと思うから。想像し得ぬ痛みの中で一助にすら満たないとしても、沈は、戦勝請負の力になることを望み、ここにいるのだから。
「でも、瑠璃ちゃんは人ではないのですから、大罪人かそうでないかなんて、関係ないのかもしれませんね」
ふっと、沈は頭上を見上げる。星がきらめいている。はるか北では、北極星というものが見られるのだと、先日、昔語りの後、隠から教えてもらった。それはそれで見てみたい。しかし、本当に目指しているのは、はるか南なのだ。
「わたくし、本当に驚きました。大罪人だけが暮らす国を創る、そう聞いた時は」
なぜ、凍罪の島に途方もない
はるか南にある凍てつく土地、それは確かに必要なことだった。いくつもないゆえに高値になった。それも事実ではある。しかし、
ただ土地を買うでは済まなかったからだ。
凍罪の島は、どこの国にも属さない土地でなければならなかった。いずこかの国の領土としての島では意味がなかった。国の領土を奪う売り買いともなれば、さすがの行も難儀した。
戦勝請負が買った土地は、現在はただの島だ。支払いを全て終えた時、その島は、どこの国の領土でもなくなる。そういう契約になっている。
そして、その時、ただの島だった土地は、彼女たちの国になる。
「国民が全て大罪人であれば、その国では、罪という概念が意味をなさなくなる、でしたね」
最初、改が考えを巡らせ、思いついた段階では、もっと曖昧なものだった。全員が大罪人だったら、誰も誰かを裁けない、という理屈に過ぎなかった。後に、行が理論を組み立て、間違いのない形にした。
凍罪の国では、罪という概念が失われる。大罪が常軌の
ある国では罪で、別な国では罪ではない、それはよくあることだ。牛を食すれば罪になる国がある、人を殺せば罪になる国がある、誰もが牛を食する国がある、人を殺して英雄と称えられた者がどれだけいたか。
誰もが大罪を背負う国はあるか――否、ない。成立しない。誰もが背負う大罪なら、それは罪ではない。誰をも牢獄に入れるわけにはいかない。その国では普通のこととして扱われる。
大罪人にしか住んでもらっては困る、それゆえの、はるか南だった。暖かい、誰もが住みたがる楽園のような土地では困る、と。
罪というものが凍てつき、消える国、ゆえに、
その国から一歩でも出れば、再び大罪人に戻るのだから。
凍罪の島の話を受けて、改がどうにか、必死に、二文字だけを音にした。
「……う、……る、……」
聞いて、沈は目をぱちくりとさせた。
「
聞き間違いでないのなら、それはいい思いつきだと思った。沈としては大歓迎だ。
「そうですね。潤ちゃんは咎持ちなのですから、一緒に暮らせますね。ふふっ、きっと、楽しい毎日になりますよ」
顔の表情が自由にできるなら、改は笑っていたはずだった。予想通り、沈は潤を歓迎するようなのだ。
自分たちは四人組、であれば、賛成が二票ある時点で、悪くても票は同数になる。もう否決はない。囁か行、どちらかが折れるのを待つだけだ。
やるべきことが他にあるではなく、兵も待機に
行の指示通り、睦は資材を選ばなかった。
「やっぱり、予備の陣羽織は馴染まないなぁ。布が固いというか」
行が着る金色の陣羽織は、指揮官として見栄えを良くするためのもので、破れたり汚れたりしては意味を損なう。戦場に出る時はいつも予備を持ってきていて、今はその予備のほうを着ていた。見かけは同じだか、ほとんど袖を通さないほうは着心地が違う。
隣に立つ睦は、これではまるで演者だと、そんなふうに思った。演者が、用意された衣装に文句をつけているような、と。まるっきりの間違いとも言えなかった。
睦にしても、
睦は、別千千行の
「遺書を何通でも書くとは言いましたけど、ここまでは考えていませんでした。これだったら、
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