三九 全知
「あたし、聞かなくちゃいけないんだ」
天幕の
覚悟が求められていた。
沈の咎言、その奥の手が必要だった。しかし、本当に覚悟が求められるのは、咎を持つ沈ではない。指示を出す行のほうなのだ。
戦勝請負を壊してしまうかもしれない、行は、その可能性を持つ問いかけをしなくてはならなかった。
「しずっちに、しずっちが知らないことを聞かなきゃいけないんだよ」
沈の奥の手は、禁じ手に近しい。行はこれまで、無理をしてでも、沈が咎言の裏を言うことになる状況は避けてきた。今はもう避けようがない。戦勝請負が戦勝請負でいようとするならば、問わねばならない。
沈は知っている。どんなに残酷な指示を行に出させているか。それでも、自分たちは戦勝請負だと強く信じている。四人のうち、誰ひとり、自らの役目を全うできない者はいない、と。だから、沈は微笑む。
「どうぞ、聞いてください。この時のために、たくさんのものごとを、努めて覚えてきたんですから」
沈は決して、記憶力に優れているわけではない。
大切なものを失いたくないがゆえに、失ってもいいものを覚える。気休めでしかなかった。天というものが、それを考慮するはずはない。
「教えて欲しい。目の前の川の流れが減り始める時刻と、川の流れがほとんどなくなってしまう時刻、そのふたつを」
行は間違いなく、未来のことを聞いている。
無論、沈は答えを知らない。わかるはずがない。しかし、答えられる。
ためらいはなかった。
柔らかな微笑みのまま、沈は言った。
「
沈の咎言は、全知から、戦場に関する現在のことだけを読み取るもの。言い換えれば、それは制限があるということなのだ。過去、未来、戦場に関係のない情報、それらは読み取れない、と。
沈の奥の手は、その制限の一切を消す。
過去、現在、未来、その全てを知る何らかのもの、全知から、いかなる情報であろうとも取得できる。一万年前のことであっても、あるいは、百万年後のことであっても。
けれど、聞けなかった。行は、最小限度のことしか尋ねられなかった。
取得した情報と釣り合うだけのものが、沈から奪われるからだ。
沈が奥の手を言えば、あとはただ読み取るだけ。答えはすぐに得られる。すらすらと、それで当然と、沈は解を口にした。
「川の流れがはっきり減少を始めるのは、今夜、二十時三十三分四秒です。その後、二十一時八分十九秒には、水量が現在の二十分の一を切ります」
答えは得られ、行はすぐに理解する。隠の考えた時刻は正しい。ゆえに、行の考えている策は成る。しかし、まだ何も済んではいない。沈に奥の手を言わせたならば、確認作業をしなければならない。
行は別なことを尋ねた。声音は震えていた。本当に怖いのは、こっちの問いなのだ。
「ねえ、しずっち、あたしのこと、覚えてる?」
取得した情報に対して、沈から奪われるもの――
――それは、記憶だ。
そして、ただ奪うだけで、天は満足しない。
失われた記憶は、もう二度と覚えられない。
どういうことか。
もし、行のことを忘れたならば、それは――
「はい! もちろん覚えてます! ゆっちです!」
沈の瞳の端に、もう涙が滲んでいた。忘れていない。覚えている。
行は確認を続けた。やはり、声音は震える。
「じゃあ、さっちゃんとあっちゃんのことは?」
沈の脳裏に仲間の顔が浮かぶ。名前と人柄が浮かぶ。嬉しくて笑顔があふれる。涙が抑えられず、頬を伝う。
「忘れません! ふたりとも、大切な仲間です!」
ひとつ、行から緊張が解ける。戦勝請負は失われていない。まだここにある。
「何が抜け落ちたか、わかる?」
どうしても、仲間のことから確かめてしまう。行も沈も、第一にそれを知りたい。確認作業には決まった流れがあった。
行に問われ、沈は
「えっと、あ、
聞かれて、行は記憶を探る。努めて覚えずとも、行の記憶力は格別なものがある。
「確か……
「それ、思い出せません」
沈は、覚えていたはずのことを忘れている。
確認作業はこれで終わらない。
問題なのは、忘れているかどうかではなく、記憶できるかどうかなのだ。
だから、行は同じ問いを返した。
「しずっち、
答えは直前に聞いている。しかし――
「えっと……思い出せません」
――失われている。記憶できない。
どういうことか。
もし、行のことを忘れていたならば、それは――
――沈の生きる世界から、行という人間が消えるに等しい。
名前も顔も、人柄も忘れ、新たに記憶することもできない。ずっと、初めて会った誰かであり続ける。別千千行を別千千行として知ることは、永劫、なくなる。沈の過去においても、現在、さらに未来においても、別千千行が認識されることはない。
忘れるでも、失うでも、適切ではない。
認識されないということは、沈の意識に存在できないということだ。
沈の世界から消えたのは、思い出のひとつ、その一部分だった。誰かが消えたわけではない。確認を終え、行は気を取り直す。策が始まる。戦局をひっくり返す、別千千行の奇策をこれから成す。
「さあて、しずっちには大急ぎであっちゃんのところまで行ってもらうよ。こんな仕事、さっさと終わらせて、そう、一緒に
沈は、涙の跡を残す顔いっぱいに、喜びを
「はい! 楽しみにしてます!」
四人組は、四人組のまま、ここにある。
これからも、大切な思い出を積み上げていける。
睦は駆けた。馬に乗り降りすることももどかしく、自らの足で駆けた。行のいる天幕まで、そう距離はない。
横目で兵の様子を見やる。もはや日は落ちきる
走りながら、どうしても睦は気にしてしまう。戦勝請負の事情を。戦場にあって、考慮に入れてはいけないと知りながら、考えの外に押しやれない。
――彼女たちの不敗の神話は、こんなところで途切れてはいけない。
神話など偽りだ、それは承知。必ず勝てる保証などどこにもないと、実のところでは、彼女たちも理解しているはずなのだ。
それでも勝ってきた。勝ち続け、神話を守った。
そも、いったい誰が、不敗の神話を求めたのか。それは勝ち続けたゆえに生まれ、世に称えられた結果としてあるのか。違う。
――誰より神話を欲したのは、他の誰でもない、彼女たちだ。
それは誇りのためか。強くあろうとするゆえか。違う。
――金のためだ。大金を得るため。途方もない
四人の傭兵を雇うことと、勝利を買うこと、それは決定的に価値が違う。どれだけ彼女たちが強くともだ。彼女たちを雇うのではない、彼女たちを雇えば勝ちが約束されると思うからこそ、雇い主はさらなる大金を投じる。
――戦勝請負は、戦力を売っていない。彼女たちが売っているものは勝利だ。
一度でも負けてしまえば、勝利は売り物にならない。戦力を売るしかなくなる。それでは安い。今でさえ、手元に金は満足に残っていない。勝利が売れなくなれば、今後、支払いが滞ることは明らか。彼女たちが全てをかけて求めてきた島は、手にできない。
――こんな戦乱の世に、確かな生きゆく道を見つけたならば、正誤など関係ない、それ自体が、何よりかけがえのないことのはずだから。
息を切らし、布を分け、睦は天幕の
「命令をください」
睦の言葉から、身から、行は本気を感じる。ここに至ってもまだ勝ちを求め、勝ち目があることを疑わない。こんなに頼もしい副将は他にいないと、行は安心して指示を出す。
「どんな資材、あるいは用具、何をどう使ってもいい、大至急、用意してもらいたいものがある」
睦は黙して頷いたので、行は話を続けた。
「それは、お立ち台。あと、その台上を照らすための、できるだけ多くの
睦にとって、すっと理解できる要望ではなく、断るつもりはないが、気にはなった。
「お立ち台? 今さら、あなたの策を疑いはしませんが、しかし、何のために?」
相手は
「使用目的は、そうだな、
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