第七幕 戦勝請負

三八 意志



 天幕の上部、採光のためにある薄絹の部分から差す光が、次第に心許こころもとないものとなっていった。すでに机上で、洋灯ランプの明かりを足していた。日が傾いている。すぐに夕暮れとなり、やがては夜を迎えるだろう。それは、時間切れタイムリミットが近づいていることを意味する。

 後退を続けながら、羽撃ちの軍を足留めしているあらたが最後に到達するのは、ゆくがいるなのだ。森の中へ入れば、木々が邪魔となり、改が裏の矛で壊すものが増える。負う傷が深くなる。それはさせられない。森の手前、この場所が、後ろに下がれる余地の終わり、それはかくも承知だろう。

 改は命令を完遂する。ならば、刻限ははっきりしている。他ならぬ行が指定した。その時刻までに理を組み立て、解を導かねばならない。

 むつは外で兵をまとめていて、天幕のうちにはしずしかいない。行は、机に広げた地図から目を離し、変わらず茣蓙ござの上にいる沈に視線を向けた。

「しずっち、あのさ、」

 不思議で仕方なかった。行自身、なぜそんなふうに思うのか。

 最高の難易度、極致の遊戯、そのはずだったのだ。

「あたし、今――」

 それは、罪を告白するのにも似ていた。

 軍神いくさがみとして、別千千ことちぢ行として、あってはならない言葉だった。

「――と思ってる」

 沈は間違いなく行の言葉を聞いたはずで、けれど顔に浮いたのは微笑みだった。慈しむような瞳が行に向く。行の困惑は増す。責められることも覚悟して言ったのだ。

「あたしは負けてもいい。あたしは、ね。でも、その代わりと言っていいのかな、譲りたくないものがある」

 沈の微笑みは変わらぬどころか、むしろ深くなる。優しくなる。行は言葉を導かれる。

「あたしはいい。でも、絶対に、睦を負けさせたくないよ」

 沈は茣蓙ござの上で、少しばかり居ずまいを直し、そして言った。

「きっとそれは、少しだけ違うと思います」

 沈は、自分の家のことを思い出す。双思ならびおもいの家は、貴人あてびとの名門。暮らしに不自由はせず、それでいて驕らず、礼を重んじ、誇り高くある。そして何より、優しい。

「ゆっちが、負けていいなんて、思うわけがありません。わたくしだって、家を出たいと思ったこと、一度も、から」

 行は知っている。こんなふうに微笑むことのできる時の沈は、誰よりも正しく、そして、双思ならびおもいの名に恥じない至心ししんを尽くしてくれると。

「それでもわたくしは今、ここにいます。比べるつもりはありません。双思の家にいても、ここにいても、きっとわたくしは幸せです。その代わりとか、どちらが良くて、何を捨てるかなんて、わたくしには決められないんです。選べないんです」

 行は理解している。戦勝請負を戦勝請負として成り立たせているのは、自分ではないと。ささやでも改でもないと。真に支柱となっているのは誰なのかをよく知っている。

 自分ではない。囁でも改でもない。力ではない。

 慈しみであり、真心だ。

 沈がいなければ、その誠心がなければ、戦勝請負は真正面を向くことができない。

「わたくしは、ここにいる自分を。だから、ここにいるんです。比べる必要も、捨てる必要も、ないと思います」

 偽りない沈の優しさであり、同時に、鍵だった。

「ゆっちは、きっと、望んでいるんです」

 行を貫く一閃いっせんだった。

「ただただ、、それはあるのではありませんか?」

 乙気吹おといぶき睦と戦勝請負が勝つ、別千千行の策、その解だった。



 奇怪な戦線が、羽撃ちの将、さいの前方にあり続けていた。夕陽せきようの差す頃となっても、変わらずだ。

 前に進んだ羽撃ちの兵たちは、一人の例外もなく死ぬ。死ぬというのでは足りない。ただのごみになる。あくたと化す。それでいて、地獄を見ているのは、敵方、天栲湍あめのたくたぎ改のほうなのだ。隠から、改の裏の矛について話を聞き、双眼鏡を用いて自分の目でも確かめた。

 太刀たちをうまく振るえなくなるとして、裁は馬に乗ることを嫌う。裁はよろいと共に威厳をまとい、枯れ草を踏み、軍場いくさばにいるにしてはひどく軽装の隠をかたわらに従え、力強く地に立っていた。

「軍師の考えるいくさというのは興味深いものだな。わからないことばかり続く」

 裁のげんは、率直な所感としてのみあった。裁は隠への信任を貫いている。何がどうわからなくとも、いくさはこのまま進める。それは隠も承知だったが、つい、性根のところが出た。

「俺でよければ、解説役など仰せつかりますよ。戦況も安定していますし、ひとつふたつなら問題はないでしょう」

禍祓まがばらえはやが言っていたぞ。あいつは軍師には向かない、教師が適職だ、とな。どうやら本当らしい」隠は、痛いところを突かれたとばかりに苦笑した。裁は取り合わなかった。「かまうな。誰もが適した職に就けるなら苦労はない。軍師が教えることに優れていても、私は得をするだけだ」

 裁にとってもっとも不可解だったのは、敵の行動ではなく、味方の行動だった。

「なぜ、羽撃ちの兵は、自ら進んで死にに行くような真似まねをする? それでいて、統制が崩れないのはなぜだ?」

 普通、兵は死ぬためには戦わない。生活のために戦っている者がほとんどだ。死ぬとわかれば、逃げ出すのが正常なのだ。それがない。天栲湍改を前にしながら、ほとんど全ての兵が持ち場を守り、あるいは立ち向かっていく。異様に過ぎる。

「それは、とでも言いましょうかね。そう表現しちゃうあたり、ま、やっぱり俺、軍師に向いてないんでしょう」

 実戦経験はある。塾長として、味方が死ぬことを覚悟しろとも教えてきた。それでも今回ばかりは、隠も惑う。およそ七〇〇の兵が死ぬことがの策なのだ。その七〇〇を、爆弩はぜゆみでの攻撃と交ぜて、しながら前に進んでいるのだ。

 改の負う傷は、物を壊すだけでは深くならない。人命が関わらなければならなかった。

「遺族年金という制度が、西国さいごくにあるんです。平たく言えば、いくさで死んだ者の家族に金を支給するという救済措置で、いずれ、羽撃ちの国でも採用する予定なんですが」

 隠は味方に対し、死ぬことを奨励しているに等しい。

「このいくさでは、その制度を試験的に導入して、加え、支給する額を本来の相場の二十倍ほどに定めました。きんの輸出で見込める利益を考えればささいな出費ですが、彼らの家族にとっては、一生、何不自由なく暮らしていける額です」

 最初から、隠は兵の希望を考慮して隊列を組んでいた。

 望まぬ者を後方へ。そして、を前へ。

 隠としては、せめてもの誠意のために全員と面会したかったが、時間がなかった。防衛のために本国に残る者も含め、総勢二三○○○の羽撃ちの兵、全員に、自らの状況と希望を記入した書面を提出させ、全てに目を通した。それでさえ、二万を超える書面となれば、徹夜に近しい日々を続けてのことだった。

 裁は十分に状況を理解し、また、若い軍師にみなまで言わせたいとは思えず、話の続きを引き取った。

「羽撃ちの兵は、戦おうとしているのではない、金のために、自ら殺されに行っている。なるほど、乱れないわけだ。相手が強いほど好都合というのではな」

 裁は奇妙な感覚にとらわれる。を歓迎はできない、しかし、軍師という生き物は、のだろう。憐憫に似たものが同居する。隠は話を続けた。

「天栲湍改を倒すことは考えにありません。。彼女が先生のところまで戻った時、継戦けいせん能力の限界を迎えていれば、それでいいんです。ぶっ倒れてもらえれば、それで」

 隠としても、望んで採った策ではなかった。結局、称えるべきはひとりなのだろう、そう思う。敵が強くて愚痴をこぼすのも、やはり、性根が違うからか。

「天栲湍の戦う意志というものは、あの戦い方を数時間続けさせてしまうんだから、始末に負えませんって。裁将軍だって、三十分保てばいいほうじゃないですか」

 裁は苦笑した。わからないわけがないだろうに。戦場で上官のをしようというのでは、それが何より半人前だ。それで色恋にうつつを抜かしてもらっては困るが、さてどうするか。

 罪の意識を被ってまで力を尽くす部下を、冷たくあしらうこともできない。裁はまず否定を口にしたが、表情は柔らかく、滅多に見せない微笑みにも近しかった。

「馬鹿を言うな。私なら五分も保たない。お前の言い分は認めよう。八刀鹿やとかの爺さんだって、一時間がせいぜいだろうに」



 改の移動してきた経路をなぞって、血の道が続いていた。それは、ある地点ではか細い線となり、またある地点ではおびただしく地をひたしている。血の赤が、夕照せきしょうと重なる。

 その道は長く、途切れがない。

 到底、ひとりの人間が流せる血の量ではない。改が咎で負う傷が、道中で治り続けるゆえに、これは起きる。流す血が、改の体内で再び満ちる、それゆえに。

「瑠璃、食べて」

 やっと取り戻した声で、改は愛馬、瑠璃竹るりたけに跨がったまま、短く指示を与えた。それを受けて、瑠璃竹は目の前に生える枯れ草をみ始める。そこはまだ血に染まってはいなかった。

 瑠璃竹は北方で競技用として育てられている品種ではあるが、純血ではない。また別の、黄金種おうごんしゅと呼ばれる馬の血が一割六分近く混じっている。それがために従順であり、丈夫で、水と食料に乏しい戦場にも耐えられる。もともとの黄金種は、水を飲まずに砂漠を横断できる馬だという。

 しかし、あえて飲まず食わずでいさせる理由もなく、羽撃ちの軍が続けざまに攻撃してくることがないとわかってからは、改はこうして、折を見て草を食べさせていた。馬の食事として足りるものではないが、何もないよりはいい。

 もともとは深緑ふかみどりだった改の道着どうぎは赤い、ぎん鍍金めっきの防具も赤い、腕も、顔も、赤い。血で濡れていない場所を探せない。頭蓋とうがいを貫く穴を穿うがたれもした、せっかく編んでいた髪もほどけて、赤く濡れた。

 瑠璃竹の背に、半ばもたれるようにしながら、改は自らに問う。

「戦勝、請負を、始めたのは、誰?」

 途切れ途切れながら、声はどうにか出せる。他はどうか。

 腹は当然のように割かれ、脚の骨は神経を巻き添えにして粉々になっている。右眼の視神経は断裂し、左耳は三半規管まで含めて潰れている。というのは、今日、咎による傷を重ねてから以後、覚えがない。羽撃ちの軍も余裕があるではないようだった。

「ねえ、戦勝請負を、始めた、のは――?」

 改は問う。

 天栲湍の意志は、、自らを奮い立たせることを選んだ。

 叫びたいのは山々だ、しかし叫べば、

 体を巡る全ての血管を細切れにされもした。首の骨を丸ごと砕かれた。利き腕である右腕を微塵みじんにされながら矛を振るった時もあった。心臓を両断された。裏の矛を長く使い続けたせいなのか、負う傷は深くなるばかりだった。

 毒づきたくもあった。天栲湍の矜持を試そうとは、なめた真似まねをしてくれる、と。

 咎さえあれば裏の矛は振るえる。裏の矛さえあれば意識は損なわれない。よって、にはならない。改が戦えなくなる時というのは、改の戦う意志が尽きた時なのだ。

「戦勝、請負を、始めたのは――」

 改は声を絞る。自らの問いに、自らで答える。

「――。戦勝請負を、始めたのは、。全ての、始まり、は、

 保たない。叫ぶでは、毒づくでは、足りない。戦う意志に足りない。

 死に換算すればどのくらいか。出血量だけでも、百は死んでいていい。数だけでは表しきれない。からだ。百の死は超える、なら二百か、千に届くか、その全てを、本当に全てを、

「今さら、私は、私だけ、は、逃げられない、でしょう?」

 もう他に選べない。ひとつきりの声帯で、大切な仲間たちにすがるしか。

「そう、なの? 逃げたって、怒られ、ない。嫌われも、しない、じゃない」

 それでさえ、

 埋め草が必要だった。まだ、矛を振るうに足りない。次に振るえばどうなる。頭部がふたつに割れるか、心臓が粉砕されるか、それでは済まないか。それをわかって、なお振るうのなら。

 ――足さなければ。

「ねえ、うる、あなたも、一緒に、?」

 その場しのぎのつもりはなかった。

 本当の気持ちでなければ、この場で埋め草にはならない。

「行きたいなら、約束する、わ。必ず、連れて行くと」

 潤を孤独なままにしたくないと、それは真としてあった。けれど違った。

 心奥からの、別な望みがあった。

「だから、お願い――」

 自分を好いてくれる人に、

「――もう少しだけ、私を、戦わせて」




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