第七幕 戦勝請負
三八 意志
天幕の上部、採光のためにある薄絹の部分から差す光が、次第に
後退を続けながら、羽撃ちの軍を足留めしている
改は命令を完遂する。ならば、刻限ははっきりしている。他ならぬ行が指定した。その時刻までに理を組み立て、解を導かねばならない。
「しずっち、あのさ、」
不思議で仕方なかった。行自身、なぜそんなふうに思うのか。
最高の難易度、極致の遊戯、そのはずだったのだ。
「あたし、今――」
それは、罪を告白するのにも似ていた。
「――負けてもいいと思ってる」
沈は間違いなく行の言葉を聞いたはずで、けれど顔に浮いたのは微笑みだった。慈しむような瞳が行に向く。行の困惑は増す。責められることも覚悟して言ったのだ。
「あたしは負けてもいい。あたしは、ね。でも、その代わりと言っていいのかな、譲りたくないものがある」
沈の微笑みは変わらぬどころか、むしろ深くなる。優しくなる。行は言葉を導かれる。
「あたしはいい。でも、絶対に、睦を負けさせたくないよ」
沈は
「きっとそれは、少しだけ違うと思います」
沈は、自分の家のことを思い出す。
「ゆっちが、負けていいなんて、思うわけがありません。わたくしだって、家を出たいと思ったこと、一度も、一瞬だってありませんから」
行は知っている。こんなふうに微笑むことのできる時の沈は、誰よりも正しく、そして、
「それでもわたくしは今、ここにいます。比べるつもりはありません。双思の家にいても、ここにいても、きっとわたくしは幸せです。その代わりとか、どちらが良くて、何を捨てるかなんて、わたくしには決められないんです。選べないんです」
行は理解している。戦勝請負を戦勝請負として成り立たせているのは、自分ではないと。
自分ではない。囁でも改でもない。力ではない。
慈しみであり、真心だ。
沈がいなければ、その誠心がなければ、戦勝請負は真正面を向くことができない。
「わたくしは、ここにいる自分を望みました。だから、ここにいるんです。比べる必要も、捨てる必要も、ないと思います」
偽りない沈の優しさであり、同時に、鍵だった。
「ゆっちは、きっと、望んでいるんです」
行を貫く
「ただただ、望んだ結果として、それはあるのではありませんか?」
奇怪な戦線が、羽撃ちの将、
前に進んだ羽撃ちの兵たちは、一人の例外もなく死ぬ。死ぬというのでは足りない。ただの
「軍師の考える
裁の
「俺でよければ、解説役など仰せつかりますよ。戦況も安定していますし、ひとつふたつなら問題はないでしょう」
「
裁にとってもっとも不可解だったのは、敵の行動ではなく、味方の行動だった。
「なぜ、羽撃ちの兵は、自ら進んで死にに行くような
普通、兵は死ぬためには戦わない。生活のために戦っている者がほとんどだ。死ぬとわかれば、逃げ出すのが正常なのだ。それがない。天栲湍改を前にしながら、ほとんど全ての兵が持ち場を守り、あるいは立ち向かっていく。異様に過ぎる。
「それは、人でなしの策とでも言いましょうかね。そう表現しちゃうあたり、ま、やっぱり俺、軍師に向いてないんでしょう」
実戦経験はある。塾長として、味方が死ぬことを覚悟しろとも教えてきた。それでも今回ばかりは、隠も惑う。およそ七〇〇の兵が死ぬことが前提の策なのだ。その七〇〇を、
改の負う傷は、物を壊すだけでは深くならない。人命が関わらなければならなかった。
「遺族年金という制度が、
隠は味方に対し、死ぬことを奨励しているに等しい。
「この
最初から、隠は兵の希望を考慮して隊列を組んでいた。
望まぬ者を後方へ。そして、望む者を前へ。
隠としては、せめてもの誠意のために全員と面会したかったが、時間がなかった。防衛のために本国に残る者も含め、総勢二三○○○の羽撃ちの兵、全員に、自らの状況と希望を記入した書面を提出させ、全てに目を通した。それでさえ、二万を超える書面となれば、徹夜に近しい日々を続けてのことだった。
裁は十分に状況を理解し、また、若い軍師にみなまで言わせたいとは思えず、話の続きを引き取った。
「羽撃ちの兵は、戦おうとしているのではない、金のために、自ら殺されに行っている。なるほど、乱れないわけだ。相手が強いほど好都合というのではな」
裁は奇妙な感覚にとらわれる。人でなしを歓迎はできない、しかし、軍師という生き物は、思いついてしまうのだろう。憐憫に似たものが同居する。隠は話を続けた。
「天栲湍改を倒すことは考えにありません。休ませなければいい。彼女が先生のところまで戻った時、
隠としても、望んで採った策ではなかった。結局、称えるべきはひとりなのだろう、そう思う。敵が強くて愚痴をこぼすのも、やはり、性根が違うからか。
「天栲湍の戦う意志というものは、あの戦い方を数時間続けさせてしまうんだから、始末に負えませんって。裁将軍だって、三十分保てばいいほうじゃないですか」
裁は苦笑した。わからないわけがないだろうに。戦場で上官のご機嫌取りをしようというのでは、それが何より半人前だ。それで色恋にうつつを抜かしてもらっては困るが、さてどうするか。
罪の意識を被ってまで力を尽くす部下を、冷たくあしらうこともできない。裁はまず否定を口にしたが、表情は柔らかく、滅多に見せない微笑みにも近しかった。
「馬鹿を言うな。私なら五分も保たない。お前の言い分は認めよう。
改の移動してきた経路をなぞって、血の道が続いていた。それは、ある地点ではか細い線となり、またある地点では
その道は長く、途切れがない。
到底、ひとりの人間が流せる血の量ではない。改が咎で負う傷が、道中で治り続けるゆえに、これは起きる。流す血が、改の体内で再び満ちる、それゆえに。
「瑠璃、食べて」
やっと取り戻した声で、改は愛馬、
瑠璃竹は北方で競技用として育てられている品種ではあるが、純血ではない。また別の、
しかし、あえて飲まず食わずでいさせる理由もなく、羽撃ちの軍が続けざまに攻撃してくることがないとわかってからは、改はこうして、折を見て草を食べさせていた。馬の食事として足りるものではないが、何もないよりはいい。
もともとは
瑠璃竹の背に、半ばもたれるようにしながら、改は自らに問う。
「戦勝、請負を、始めたのは、誰?」
途切れ途切れながら、声はどうにか出せる。他はどうか。
腹は当然のように割かれ、脚の骨は神経を巻き添えにして粉々になっている。右眼の視神経は断裂し、左耳は三半規管まで含めて潰れている。ここまで治ったというのは、今日、咎による傷を重ねてから以後、覚えがない。羽撃ちの軍も余裕があるではないようだった。
「ねえ、戦勝請負を、始めた、のは――?」
改は問う。声帯はひとつしかない。
天栲湍の意志は、悲鳴を上げることよりも、自らを奮い立たせることを選んだ。
叫びたいのは山々だ、しかし叫べば、問えない。
体を巡る全ての血管を細切れにされもした。首の骨を丸ごと砕かれた。利き腕である右腕を
毒づきたくもあった。天栲湍の矜持を試そうとは、なめた
咎さえあれば裏の矛は振るえる。裏の矛さえあれば意識は損なわれない。よって、不可能にはならない。改が戦えなくなる時というのは、改の戦う意志が尽きた時なのだ。
「戦勝、請負を、始めたのは――」
改は声を絞る。自らの問いに、自らで答える。
「――私。戦勝請負を、始めたのは、私。凍罪の島の、ことを、考えたの、も、私。全ての、始まり、は、私」
保たない。叫ぶでは、毒づくでは、足りない。戦う意志に足りない。
死に換算すればどのくらいか。出血量だけでも、百は死んでいていい。数だけでは表しきれない。死ねば痛くないからだ。百の死は超える、なら二百か、千に届くか、その全てを、本当に全てを、余さず味わった。
「今さら、私は、私だけ、は、逃げられない、でしょう?」
もう他に選べない。ひとつきりの声帯で、大切な仲間たちに
「そう、なの? 逃げたって、怒られ、ない。嫌われも、しない、じゃない」
それでさえ、足りない。
埋め草が必要だった。まだ、矛を振るうに足りない。次に振るえばどうなる。頭部がふたつに割れるか、心臓が粉砕されるか、それでは済まないか。それをわかって、なお振るうのなら。
――足さなければ。
「ねえ、
その場しのぎのつもりはなかった。
本当の気持ちでなければ、この場で埋め草にはならない。
「行きたいなら、約束する、わ。必ず、連れて行くと」
潤を孤独なままにしたくないと、それは真としてあった。けれど違った。
心奥からの、別な望みがあった。
「だから、お願い――」
自分を好いてくれる人に、頼りたかった。
「――もう少しだけ、私を、戦わせて」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます