咎なることばの絡繰草子

三七 花片

　風が吹いていた。

　それに振り払われる形で、桜の花片（はなびら）が多く散っていた。夜の中、月明かりに照らされて、その柔らかな色がぼうっと浮かび、ひらりと舞った。

　地獄なんて、作り話だとばかり思っていたのに。本当にあったということなのか。地獄というのは、桜が咲くものらしい。早はそんなふうに思った。地獄でこんなに手ぬるいようなら、小夜が行った極楽は、きっと途方もなく満ち足りた場所であるだろう、そう思い、安堵した。

　それが思い違いであることに気づいたのは、月夜が、見覚えのある形に切り取られていたからだ。

　東屋の壊れた屋根、その隙間から見上げることのできる夜空、そのままだったからだ。

　早は上体を起こして、目を凝らした。月明かりを頼りに周囲を確認する。草の乱れて生える床板は、早が水で洗ったためにまだ湿りを残している。自分の血が広がっているということはなかった。小刀が、早のそばに落ちていた。小夜を埋めてやった場所、そこに立つ見事な桜木がある。

　わからなかった。自分で自分の首を切ったつもりだった。

　何かを推考するよりも先に、早は気づいた。

　知っている。

　知らなかったはずのことば、知るはずのなかったことば。

　咎言を――

　――知っている。

　明けるのが惜しい夜、それを意味することばを、知っている。

　早は嘲るように笑ってしまった。誰を嘲ろうとしたのか、判然とはしなかった。自分なのか、世界なのか、あるいは天と呼ばれる何かなのか、もしかしたら、その全てに対してだったのかもしれなかった。

「私で千人目だからじゃない」

　早は生きている。死なせてもらえなかった。

　千人目は殺せていない。

　九九九人は無益に死んだ。それは動かせない真実。だからこそ、だ。九九九の未来を不条理に奪った重みに負け、目を背けたことが、何よりの罪。

「この咎は、私が死のうとしたから。死んで、罪から逃げようとした罪。笑い話かもね。馬鹿みたいだね。あれだけ欲しいと思っていた咎言なのに。今さら？」

　早は直感で知る。罪の軽重だけが咎の基準ではないと。もっと重い罪があったっていい。天は見逃さなかった。早に咎を与えた。待ちかねたように。

　――天は与えたいんだ。

　――こっちが欲しがらなくても、与えたくて仕方ないんだ。

　咎を持たせるにあたって、もうひとつ、大事な要素があるはずだった。

　――どれほどに大きい罪でも、それに合う言葉がなくて、天は咎を与えられる？

　否、存在しない言葉は与えられない。

　天は知っていた。合う言葉を。存在していた。

　すなわち――

　光を知らなかったゆえの大罪であれば、光を求めたゆえの大罪であれば、いつまでも小夜と共にいたかった早ならば――

　――可惜夜（あたらよ）を背負うにふさわしい、と。

「ねえ、小夜。岩魚、食べてほしかったよ」

　早の瞳に涙が満ちて、こぼれる。力を得たことで、却（かえ）って無力を知る。

「小夜に、何かしてあげられるような咎じゃなくて、ごめん。ごめんね」

　自ら死のうとする意志も、もはや尽きていた。

　ふたつのことだけ、はっきりとわかる。

　小夜は死んだ。

　明（さや）を追いかけることは、もうできそうにない。どんな顔をして会えばいい？

　―――――――――――

「結局それから、もう二度と、我（わぬ）は自分で死のうとは思わなかった。不思議と、そういうものらしいな、咎持ちというのは。咎持ちが自死したという話はひとつも聞かない。天にしてみれば、咎を与えた者に勝手に死なれては、面白くはないのだろうが」

　証拠隠滅として、兎を一羽食い切った後に残った骨を土に埋めながら、早は話をまとめた。

　骨はすっかり埋まった。本当に隠したいなら、土を被せた跡が不自然に見えないように偽装するべきだが、兎の骨のひとつふたつ、どうということはないだろうと、早はその手間を省いた。陰手（おんしゅ）は無駄を好まない。囁への体裁として埋めたのみで、本当なら、埋めることさえ無駄なひと手間だった。

「それ、話を聞く限りじゃ、六年のうちに性格がねじくれたの、僕だけじゃないみたいだけど」

　結局、こうしてつっかかっている、囁はむしろ自分に呆れる。けれど、声音から刺々（とげとげ）しさが消えていると、その変化も自覚する。

「否定はしないさ」

　言いながら、早は自らの装束の内（うち）にある金属板を次々に抜いていった。急に機動力を求められた際、すぐに身を軽くできるよう、装束を着たままで金属板を外せる工夫がなされている。

「なんで外しちゃうわけ？　それ」

　わからず、囁は訊ねた。腹部の金属板には抜く理由があった、しかし、他の部分にはそれがない。

「ここは戦場だぞ。特に理由が見当たらないなら、当然、戦うためだ。誤解して欲しくはないが、炎を出させた目的はあくまで肉を焼くことだ」

　囁としては、もうそれを疑う気にはなれない。早が哭日女明（さや）を騙すとは思えなかった。

「ただ、知ってしまったのは事実だからな。焉（えん）の囁に対して、こんな板はあるだけ邪魔だと。金属を身につけていれば、手痛い火傷（やけど）を負う」

　早は考える。金属板は囁の目の前で抜いてかまわないが、金属製の仕事道具は囁の目に触れない機を探して隠さねばならないと。

　どうにも囁は力が抜ける。あれだけ馴れ合っておいて、今なお、互いに殺し合うことも想定し、行動に移している。正しいには違いないのだが。

「まあ、仕事熱心なのは美徳だけどさ」

「そうとも言えない。結局、我（わぬ）は陰手（おんしゅ）の一員だということだ。我（わぬ）たちの里というのは一風変わっていてな。我（わぬ）の望みは里の者たち全員の望みとして、里の望みは我（わぬ）の望みとして扱われる。お前と飯を食うことも、必要があればお前と殺し合うことも、どちらもあるんだ」

　力が抜けたまま、囁はげんなりした。昔話からしても、潤（うる）と渡り合ったことからしても、戦いたい相手ではない。おそらく自分では勝てないだろう、そう思う。

「そう嫌な顔をしてくれるな。今こうして、性格がねじくれた程度で済んでいるのは、我（わぬ）の里の手柄だ。馬鹿な連中だよ。行く宛てなく、我（わぬ）は生まれ故郷、天聳（あまそそ）りの里に戻ったが、その後、本気で廃業を検討し始めた」

　早は思い返す。陰で生きる術（すべ）しか持たないはずの者たちが、畑を耕そうだの、土木の仕事を受けようだの、必死に議論を交わし始めた。

「我（わぬ）は相当に傷ついていると見えたのだろうな。我（わぬ）が陰手（おんしゅ）というものを拒んでいると、そう思われた。我（わぬ）の望みは里の望み、逆も然り、我（わぬ）が望まないなら、それは、里の誰もが望まないことなんだ。里の中で矛盾はいくらでも生まれるさ。それでも、ある」

　天聳（あまそそ）りの里だからこそ、という面はあった。他の里と比べ、それこそ異常なまでに、全員を同一とみなす。

「連中は真剣だった。あまりに見ていられなくて、結局、我（わぬ）は言ってしまったよ。また斬る、この里のために働く、と」

　どうしたところで、囁には陰手（おんしゅ）の感覚は理解しきれない。ただ、気になることはあった。

「たぶんそれ、すごく仲がいいよね。こんなとこまで来て、寂しくないの？　里があるの、天聳（あまそそ）りの国なわけでしょ」

「心配無用。我（わぬ）は里を出て、死処（しどころ）の姫と呼ばれるに至ったが、それもやっと終わりだ。内情は詳しく言えんが、質問には答えられる。寂しくはない。もうすぐ、里の者たち全員と再会できる」

　もともと事情を聞こうとしたわけではない。囁は早の表情に安堵があるのを感じて、それで満足した。

「まあ、話を聞けて、ちょっと納得したかな。潤から、あっちゃんよりも達人だったって聞かされた時は、さすがに半信半疑だったけど」

「あっちゃんというのは、矛の改のことか？　神幡姫（かむはたひめ）潤から何を聞かされたのかは知らんが、いかに陰手（おんしゅ）の技とて、天栲湍（あめのたくたぎ）の武芸を超えるものではないぞ」

　陰手（おんしゅ）の技が劣るというのではなく、陰手（おんしゅ）の仕事が多岐に渡るということ。陰手（おんしゅ）は戦闘に特化した集団ではない。対して、天栲湍の家は、その分家も含めて、戦うことだけを追求する。その差は大きい。早の知るところ、矛の改は分家の出身だったはずで、ならば及ぶまい、そう判ずる。

　早には自明でも、囁にとっては情報が噛み合わない。

「でも、あっちゃんより刀を振るうのがうまかったって、潤が」

「刀で比べるからそうなる。矛の改が得意とするのは、その通称が示す通り、槍術だろう。専門外の刀でも、我（わぬ）と比較できるほどの技量がある、それが解答だ」

　早とて他の武器を扱えないわけではないが、天栲湍のそれとは次元が違う。

「刀でやり合えば、我（わぬ）に分があるかもしれない。だが、それだけだ。弓も鉄砲も馬も遠く及ぶまい。槍ならば論外。つまり、我（わぬ）でも到底相手にならないということだ」

　それを聞いて、囁はもうひとつげんなりした。知りたくなかった。

「そういうこと聞くと、あっちゃんと喧嘩するの、怖くなるよ」

　禍祓（まがばらえ）早は、何があろうと哭日女明（さや）の味方をする、力になる。それは、ひとり小田原を出た時に固めた決意で、まだ早のうちに残っている。

「仕事でなく、個人的な争いなら、助太刀（すけだち）してやってもいい」

　それは今なお灯り続ける決意でもあったし、また、願いでもあった。昔話の余韻のまま、早は、あの夜にふとこぼした言葉を、気持ちを思い出す。

　――小夜に何かをしてやれる咎ではないが、幸い、明（さや）の喧嘩に加勢するなら役立つ。

　早の願い、それが何を意味するか。咎持ちひとりの助力では済まない。

　まぶしいものを見る瞳を向けて、早は付け加えた。

「我（わぬ）の意志は里の意志だ。我（わぬ）の里の者たち、全員が明（さや）の味方につくとなれば、引き分けくらいには持ち込めるかもしれないぞ」