三六 小夜



 大漁とは、とても言えたものではなかった。それでも帰りの道中、終始、早は上機嫌だった。

 ずいぶん粘ってみたが、魚は一匹しか取れなかった。陰手おんしゅといえど、自然を相手にすれば、こういうことはままある。一匹だけ取れた魚は、尖らせた枝、漁のために持ってきたそれに刺して持ち帰ってきた。魚の一匹を誇るように帰路を行く。早は何度も目をやって、その度に嬉しくなり、自然と顔がゆるむ。

 その一匹は岩魚いわなだった。どうやら好物のようなのだ。早自身の好き嫌いではない。早は、せっかくの一匹を、ほんのひと欠片かけらも、自分で食べようというつもりはなかった。これまで小夜に食べさせた物の中で、岩魚はとりわけ食いつきがよかった。岩魚は、小夜の大好物に違いないのだ。きっと喜んでくれるだろう、そう思えば、優しい心持ちで、笑みが深くなっていく。

 東屋に近づいて、早はすぐに異変を感じ取った。陰手おんしゅの一員であるゆえに。

 ――血の臭いがする。

 それを引き金として、早から思考が消えた。否、ひとつだけ残った。里を出て、陰手おんしゅさががわずかに薄れたことによって、この東屋あずまやで過ごした日々によって、陰に生きる者の本能に殺されない気持ちが残った。それは早から、冷静な状況判断を奪った。

 ――小夜を守らなければ。

 早は東屋へ駆けた。迷わずに枝から岩魚を抜いた。本能で、さがとしてそうした。刃物は持ってきていない。武器になるものは尖らせた枝だけだった。それを頼りないとは思わなかった。それひとつあれば、およそ負けることはないはずだし、早にとっては、標的を仕留められるだけの武器だった。無論、自惚れではなく、事実だった。

 下手人げしゅにんが、まだそこにいたのならば。

 東屋の床板に、血溜まりができている。

 ――どうして、どうして。

 早は、本来ならできていたはずの判断、それが失われていたことに気づいた。考えが及ばなかった。陰手おんしゅの本能が至らせようとしたものを、よわい六の童女の、無知な愛情が阻んでいた。そこに考えが至れるはずもなかった。思い知らされる。自分の浅はかさを。あらゆる意味において。

 ――どうして。

 ――どうして、だと思わなかったの?

 血を流して争っていて、小夜はそれに巻き込まれかねないでいる。早はそんなふうに思った。およそ誰も訪れないゆえに選んだ場所で、誰と誰が争うというのだろう。少なくとも、ふたり来なければならないのに。最初に想定する状況じゃない。誰かが来たのなら、それが、害する相手は?

「小夜……?」

 早は膝をつき、力なく呼びかける。

 返事が返ってこないことは、早自身、よくわかっていた。

 小夜は首をねられていたのだから。

 頭と胴体が繋がってはいなかったのだから。

 何らかの恨みによるものなのか、戯れの悪ふざけとしてやられたことなのか、それはわからない。もう手遅れだ。そのことしか、早にはわからない。

「ごめんね。ひとりにして、ごめん。痛かったよね。怖かったね」

 自分はいい。陰手おんしゅなのだ。拷問に耐える訓練もしたし、殺される覚悟もできている。けれど小夜は違う。早はそう考える。ただの猫だ。こんな自分に懐いてくれた、優しいだけの、普通の猫なのに。どうして?

 早は小夜を抱こうとして、一瞬、戸惑ってしまった。頭と胴体のふたつに分かれてしまっていて、どっちを抱き上げるべきか、判断がつかなかったのだ。

 結局、早はふたつともを抱きかかえた。血にまみれるのを嫌とは思わなかった。小夜の残した血であるならば、むしろ染まっていたいとさえ思った。どんなに心細く、どんなに苦しかっただろう、助けて欲しかっただろう、そう思って、遺骸を強く抱きしめた。

 そして、気づいた。

 早は何度も、百ではまるで足らない、千に近しく、似たような有様ありさまを見ていた。

 ――

 ――首をねた。

 ――同じことをした。

 思い至った。全く同じやり方で、他ならぬ早が、数多くの人間を殺してきたことに。

 そしてそれが、どんな利益も生まない、何らの意味もない戯れに過ぎなかったことに。

 どうしてこれで咎が持てると? 天が惹かれると? こんなに簡単にやってしまえることを、ただ繰り返すだけで?

 陰手おんしゅの技術など必要なかった。こんなにもたやすく命は奪える。

 命をひとつ奪う、それで済むのか、否。

 下手人は、

 共に生きたいと願う、大切な連れ合いを奪った。早はもう、生きた小夜をいだくことはできない。

 ――きっと誰かが、遺骸を前にして、同じように戸惑った。どちらを抱けばいいのか、わからなくて。生きてはいないと知りながら、強く抱きしめたくて。

 命と連れ合いを奪った、それは確かにそうで、けれど早は、違うようにも思う。

 もともとは何かがあった、命を奪うことで、それを奪った。自分が奪ったものとは、つまりは何なのだろうか。本当に奪われたものは? そこにあったものは?

 ――何が?

 ――私が、たくさんの誰かを殺す前、そこには何があった?

 早は自然、自分と小夜を通して考える。

 ――もし小夜が生きていたならば、その時は?

 小夜は、今頃、岩魚を食べているはずだった。

 ――全てではなくとも、それでも、数多くの、何よりの幸せがそこにあったんじゃないの? 私が斬らなければ、続いていたはずのものが。

 早は思い描く。夢中になって岩魚にかぶりつく小夜の姿を。

 ――私はそんな小夜を見て、どうしただろう。きっと思った。喜んでもらえてよかった。ここに来て、出会えてよかった、と。また岩魚を取れたなら、丸ごと、小夜に食べさせてやろう。また、いつか、その日には。また、いつか、きっと。

 明日。

 明後日。

 ――小夜が喜んでくれるのなら、きっと、私は。

 その先も、そのずっと先も。

 すっと、早の中で解が導かれる。

 ――私が奪ったものは、命じゃない。

 ――だ。

 自分が奪ったものの重みに縛られる。十や二十であっても認められないものを。千に近しい数の未来を、無根拠のままに。

 もう、早は小夜を抱いてはいられず、遺骸をそっと血溜まりに下ろした。

「ごめん、小夜、ごめん」

 早は涙をこぼした。触れることも許されないと思った。せめて、小夜の身に涙を滴らせることだけは。そう思って、泣いた。痛々しい血を、その涙で薄めた。

「小夜はきっと、私のこと、好きだったよね。私もね、きみのこと、大好きだった」

 岩魚を食べさせてあげたかった。頭と胴体が離れてしまっていては、どうしたって無理だ。いくら食べても、お腹に入らない。

 きっと誰かが思っていた。好物を用意して帰りを待っていたのに。せめてそれを食べて欲しかった。これでは食べられない。そんなふうに、誰かが。もしかしたら、とてもたくさんの人たちが。

 拷問に耐える訓練もしていない、殺される覚悟もできていない人を無益に殺し、誰かから大切な連れ合いを奪った。用を足す場所を覚えなくても早が怒る気になれなかったように、少々の欠点があっても、共に生きていくことを微塵も疑ってはいなかった者を、不条理のままに奪った。殺した。ねた。

 わからなかった。何をすべきか、何を考えるべきなのか。

 気持ちを強く抱く。ふさわしくないと思っても、胸のうちに、絶え間なく湧いてしまう。止められない。

 ――岩魚を食べさせてあげたかった。

 ――小夜が喜ぶのを、隣で見ていたかった。

 早が奪ったものが未来であるなら、早が奪われたものもまた、未来だった。

 ――それがもし、どんなにつらい一日だったとしても、同じ明日に生きていたかったよ。

 触れたかった。自らが付けた名を呼びながら抱きしめたかった。できなかった。

「私、ひどいやつだった。小夜をこんな目に遭わせたやつより、もっと、ずっと」

 小夜はきっと気にしないだろう。それはわかっていた。もし生きていたなら、名前を呼べば来てくれて、抱きかかえれば嬉しそうにしてくれると。早の腕の中、注意をすれば返事をしてくれると。

 わかっていながら、早は、腕を、指を伸ばせなかった。優しい小夜が許してくれるのだとしても、早の心胆で哭する罪の意識が、それを認めなかった。

「抱きしめてあげられないよ。ごめん、小夜、ひどいやつで、ごめん」

 ――せめて安心させてあげたいのに。

 ――小夜は、あんなに私を安らかな気持ちにしてくれたのに。

 ――返せない。

「つらかったね、って、もう大丈夫だよって、そう言って、撫でて、ぎゅうっとしてあげたいけど、そんなのおかしいよ。絶対、絶対におかしいよ。だって、私、同じことをしてきたんだよ」


 早は、小夜をお気に入りの玩具おもちゃと一緒に、とりわけ見事な桜木の近くに埋めてやった。

 東屋の床板に広がっていた血を、きれいに洗った。

 それが許されることなのかどうか、あるいは、そうせねばならないことなのかどうか、早には掴めないままだった。どうしても、小夜の遺骸をそのままにしておくことだけが忍びなかった。どんなふうに自分に言い聞かせても耐えられない、口実をどれだけ並べても正当性は得られない、しるべなく、結局は早自身の気持ちが優先された。

 そして、小夜を埋葬したならば、早は気持ちさえ失った。小夜を葬ってやりたい、それだけが唯一のもので、もう成してしまった。何も残ってはいなかった。

 屋根の上に危ない物を置いておく必要は、もはやなかった。それを降ろし、早は小刀を握った。東屋の床板、小夜がたおれていた場所に座り込んでいた。

 小夜と同じところへ行けるとは思わなかった。

 これで正しいとは、早も思わない。

 こうしないことが正しいとも、また、思えない。

 早の心中に、疑問が巡る。

 ――

 咎人とがにんは死ぬべき? 善人は生きるべき? 咎人は生きるべきではない? 善人は死ぬべきではない?

 なら、そうであるなら――

 ――どうして私は今ここに生きているの?

 ――どうして小夜は土の中にいるの?

 解は明白だ。

 

 咎人が生きることを許している。

 善人が殺されることを認めている。

 ――私は生きていて、小夜は死んだ。それが、間違いのない事実じゃないか。世界はそれを禁じてはいないじゃないか。

 罪を許さないのは誰だ?

 それは、人だ。

 そして――

 ――

 早は左手に力を込めた。握った小刀で、自分の頸動脈けいどうみゃくを断ち切った。

 そのはずだった。




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