三六 小夜
大漁とは、とても言えたものではなかった。それでも帰りの道中、終始、早は上機嫌だった。
ずいぶん粘ってみたが、魚は一匹しか取れなかった。
その一匹は
東屋に近づいて、早はすぐに異変を感じ取った。
――血の臭いがする。
それを引き金として、早から思考が消えた。否、ひとつだけ残った。里を出て、
――小夜を守らなければ。
早は東屋へ駆けた。迷わずに枝から岩魚を抜いた。本能で、
東屋の床板に、血溜まりができている。
――どうして、どうして。
早は、本来ならできていたはずの判断、それが失われていたことに気づいた。考えが及ばなかった。
――どうして。
――どうして、小夜の血の匂いだと思わなかったの?
誰かが血を流して争っていて、小夜はそれに巻き込まれかねないでいる。早はそんなふうに思った。およそ誰も訪れないゆえに選んだ場所で、誰と誰が争うというのだろう。少なくとも、ふたり来なければならないのに。最初に想定する状況じゃない。誰かが来たのなら、それがひとりならば、害する相手は?
「小夜……?」
早は膝をつき、力なく呼びかける。
返事が返ってこないことは、早自身、よくわかっていた。
小夜は首を
頭と胴体が繋がってはいなかったのだから。
何らかの恨みによるものなのか、戯れの悪ふざけとしてやられたことなのか、それはわからない。もう手遅れだ。そのことしか、早にはわからない。
「ごめんね。ひとりにして、ごめん。痛かったよね。怖かったね」
自分はいい。
早は小夜を抱こうとして、一瞬、戸惑ってしまった。頭と胴体のふたつに分かれてしまっていて、どっちを抱き上げるべきか、判断がつかなかったのだ。
結局、早はふたつともを抱きかかえた。血にまみれるのを嫌とは思わなかった。小夜の残した血であるならば、むしろ染まっていたいとさえ思った。どんなに心細く、どんなに苦しかっただろう、助けて欲しかっただろう、そう思って、遺骸を強く抱きしめた。
そして、気づいた。
早は何度も、百ではまるで足らない、千に近しく、似たような
――私もやった。
――首を
――同じことをした。
思い至った。全く同じやり方で、他ならぬ早が、数多くの人間を殺してきたことに。
そしてそれが、どんな利益も生まない、何らの意味もない戯れに過ぎなかったことに。
どうしてこれで咎が持てると? 天が惹かれると? こんなに簡単にやってしまえることを、ただ繰り返すだけで?
命をひとつ奪う、それで済むのか、否。
下手人は、早からも奪った。
共に生きたいと願う、大切な連れ合いを奪った。早はもう、生きた小夜を
――きっと誰かが、遺骸を前にして、同じように戸惑った。どちらを抱けばいいのか、わからなくて。生きてはいないと知りながら、強く抱きしめたくて。
命と連れ合いを奪った、それは確かにそうで、けれど早は、違うようにも思う。
もともとは何かがあった、命を奪うことで、それを奪った。自分が奪ったものとは、つまりは何なのだろうか。本当に奪われたものは? そこにあったものは?
――何が?
――私が、たくさんの誰かを殺す前、そこには何があった?
早は自然、自分と小夜を通して考える。
――もし小夜が生きていたならば、その時は?
小夜は、今頃、岩魚を食べているはずだった。
――全てではなくとも、それでも、数多くの、何よりの幸せがそこにあったんじゃないの? 私が斬らなければ、続いていたはずのものが。
早は思い描く。夢中になって岩魚にかぶりつく小夜の姿を。
――私はそんな小夜を見て、どうしただろう。きっと思った。喜んでもらえてよかった。ここに来て、出会えてよかった、と。また岩魚を取れたなら、丸ごと、小夜に食べさせてやろう。また、いつか、その日には。また、いつか、きっと。
明日。
明後日。
――小夜が喜んでくれるのなら、きっと、私は。
その先も、そのずっと先も。
すっと、早の中で解が導かれる。
――私が奪ったものは、命じゃない。
――未来だ。
自分が奪ったものの重みに縛られる。十や二十であっても認められないものを。千に近しい数の未来を、無根拠のままに。
もう、早は小夜を抱いてはいられず、遺骸をそっと血溜まりに下ろした。
「ごめん、小夜、ごめん」
早は涙をこぼした。触れることも許されないと思った。せめて、小夜の身に涙を滴らせることだけは。そう思って、泣いた。痛々しい血を、その涙で薄めた。
「小夜はきっと、私のこと、好きだったよね。私もね、きみのこと、大好きだった」
岩魚を食べさせてあげたかった。頭と胴体が離れてしまっていては、どうしたって無理だ。いくら食べても、お腹に入らない。
きっと誰かが思っていた。好物を用意して帰りを待っていたのに。せめてそれを食べて欲しかった。これでは食べられない。そんなふうに、誰かが。もしかしたら、とてもたくさんの人たちが。
拷問に耐える訓練もしていない、殺される覚悟もできていない人を無益に殺し、誰かから大切な連れ合いを奪った。用を足す場所を覚えなくても早が怒る気になれなかったように、少々の欠点があっても、共に生きていくことを微塵も疑ってはいなかった者を、不条理のままに奪った。殺した。
わからなかった。何をすべきか、何を考えるべきなのか。
気持ちを強く抱く。ふさわしくないと思っても、胸のうちに、絶え間なく湧いてしまう。止められない。
――岩魚を食べさせてあげたかった。
――小夜が喜ぶのを、隣で見ていたかった。
早が奪ったものが未来であるなら、早が奪われたものもまた、未来だった。
――それがもし、どんなにつらい一日だったとしても、同じ明日に生きていたかったよ。
触れたかった。自らが付けた名を呼びながら抱きしめたかった。できなかった。
「私、ひどいやつだった。小夜をこんな目に遭わせたやつより、もっと、ずっと」
小夜はきっと気にしないだろう。それはわかっていた。もし生きていたなら、名前を呼べば来てくれて、抱きかかえれば嬉しそうにしてくれると。早の腕の中、注意をすれば返事をしてくれると。
わかっていながら、早は、腕を、指を伸ばせなかった。優しい小夜が許してくれるのだとしても、早の心胆で哭する罪の意識が、それを認めなかった。
「抱きしめてあげられないよ。ごめん、小夜、ひどいやつで、ごめん」
――せめて安心させてあげたいのに。
――小夜は、あんなに私を安らかな気持ちにしてくれたのに。
――返せない。
「つらかったね、って、もう大丈夫だよって、そう言って、撫でて、ぎゅうっとしてあげたいけど、そんなのおかしいよ。絶対、絶対におかしいよ。だって、私、同じことをしてきたんだよ」
早は、小夜をお気に入りの
東屋の床板に広がっていた血を、きれいに洗った。
それが許されることなのかどうか、あるいは、そうせねばならないことなのかどうか、早には掴めないままだった。どうしても、小夜の遺骸をそのままにしておくことだけが忍びなかった。どんなふうに自分に言い聞かせても耐えられない、口実をどれだけ並べても正当性は得られない、
そして、小夜を埋葬したならば、早は気持ちさえ失った。小夜を葬ってやりたい、それだけが唯一のもので、もう成してしまった。何も残ってはいなかった。
屋根の上に危ない物を置いておく必要は、もはやなかった。それを降ろし、早は小刀を握った。東屋の床板、小夜が
小夜と同じところへ行けるとは思わなかった。
これで正しいとは、早も思わない。
こうしないことが正しいとも、また、思えない。
早の心中に、疑問が巡る。
――罪って、何?
なら、そうであるなら――
――どうして私は今ここに生きているの?
――どうして小夜は土の中にいるの?
解は明白だ。
世界は最初から許している。
咎人が生きることを許している。
善人が殺されることを認めている。
――私は生きていて、小夜は死んだ。それが、間違いのない事実じゃないか。世界はそれを禁じてはいないじゃないか。
罪を許さないのは誰だ?
それは、人だ。
そして――
――私だ。
早は左手に力を込めた。握った小刀で、自分の
そのはずだった。
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