三五 平泉



 ああ、今日はがまだだった、思いはしたが、それはとっくに装束の裏に忍ばせておいた短刀を右手で握った後だった。否、さやを侮蔑した男の頸動脈けいどうみゃくを、短刀で断ち切った後だった。

 武装した男の首から血が噴出する。無論、陰手おんしゅは無駄を好まない。考えるよりも早く、染みついたさががそれを成す。

 噴き出た血はそのまま、早の動きを隠す格好になった。それを好機として、早は男が腰に差していた刀の一振りを、左手で抜いた。同時に、短刀を投げた。早の利き腕は左、短刀を右手で握った時には、刀を奪うことまで考慮していた。さがとして、自然、そうなった。陰手おんしゅは大荷物を嫌う。機動力を削ぐからだ。陰手おんしゅの常道は現地調達。武器でさえも例外ではない。

 よわい六の童女、腕力には難があり、もともとはそこまで得意とは言えない。しかし、は大の得意だ。短刀には攪乱かくらんを超える意味はなかった。一尺に足らない刃の先が、荷車を引いていた男の片方、その右眼に突き刺さる。その男は視力を半ば失い、荷車を引いていたもうひとりは、すぐ隣にいるゆえ、それを助けようとする。恰幅かっぷくのいい男も気を取られる。早から目を離す。

 子供だろうと、老いていようと、陰手おんしゅの者は等しく兵器。それは、陰手おんしゅの真髄というものが、身体能力によって大きく損なわれることがないからだ。陰手おんしゅたっとぶ。力任せに腕を振るうよりも、最大限に腰をひねることを正とする。強引に骨を砕くよりも、骨の繋ぎ目を切断することを是とする。

 また、敵の首をねることができない者を、陰手おんしゅは認めない。首級しるしだからだ。殺した証拠を持ち帰れない者は信用されない。よわい六のわらべたち、まだ鍛錬の途中でも、半数以上はできる。斬るべき点を、正であり是である技術をもって斬り、首を落とせる。

 早はとりわけ優れていた。特別に、よわい六にしてよわい十二の者たちに混じって、より本格的な鍛錬に明け暮れていた。当然、

 手にした刀を、早は一瞥いちべつした。持ち主の男は許されないことを言ったが、刀の手入れは褒められてよかった。ふたりなら落とせるだろう。そう判じた。を決めた。

 眼に短刀を刺され、うずくまった男を、隣で心配しているもう一方の男、そっちを先にした。柔軟な体、その腰のひねりを最大限に活かし、駆け、跳ね、その勢いも組み入れて、造作なく首をねた。頭と胴体を切り離した。

 取って返し、若干の助走の後に、恰幅かっぷくのいい男の首も同様にねた。身なりのいいその男が、腰に長脇差ながわきざしを下げているのを目に入れていた。三人とも首をねてしまえるか、そう思ったゆえの順序だった。

 首から上を失った胴、その腰から脇差わきざしを抜き、早は刃を確かめるが、こちらの手入れは到底褒められたものではない。あまり期待してはいなかった。早が脇差わきざしで首をねようとなれば、相当な切れ味が求められる。

 刀で三人目を斬ったほうがよっぽどいい、そう判じて、早はつかを握り直し、残されたひとりに向かって駆けた。ためらわずに首を狙った。一刀のもとに首を切り落とすことはできないが、


 奥州の半ばを過ぎ、平泉ひらいずみに着いたところで、さやの足取りが全く掴めなくなった。

 これまでが出来過ぎで、どこかでつまずくこともあるだろう、覚悟はしていた。どんな些細な手がかりでも、いかばかり微少な可能性でも、見出せる限りは向かおう、進もう、早はそういう覚悟をしていた。考えが甘かったと、自責せねばならなかった。

 一厘でも、一毛でも、あるいは一であろうとも、可能性を見つけられる限りは行くつもりだった。それがない。調べる範囲を広げても、平泉から先、さやの行方を示すものが何ら見つけられない。皆無なのだ。これでは、この広い大倭やまと、ないしは世界で、たったひとりとたまたま会うことを祈って歩くのと変わらない。

 いくらなんでも不可解だった。よわい六の童女であるとはいえ、陰手おんしゅの一員であり、よわい十二の連中と比べて引けを取らない逸材。齢十二とは、陰手おんしゅでは、もう実戦を経験している年頃。

 早は自分が優れているのだという自覚があった。そして自惚れではなかった。将来を嘱望されていたからこそ、ただでさえ生きた心地がしない里で、誰より過酷な鍛錬を課されていたのだ。陰手おんしゅの知識と技術を駆使して、一の可能性さえ上積みできないというのは、およそ考えられなかった。

 それこそ、平泉に着いて後、さやが消えていなくなったのでなければ説明がつかない。太陽であるゆえに、天に昇ってしまったのか、早はそんなことを思いさえした。

 結局、早は平泉の町外れにあった、朽ちた東屋あずまやに居着いた。

 さやがこの平泉に来たことははっきりしている。無論、平泉に留まっているという情報は一切ない。それでも、一度は訪れているならば、二度目があるかもしれない。闇雲にあてどもなく歩を進めるよりは、ここで待っていたほうが、いくらかは希望があるように思えた。

 平泉に居着く結果として、早はがこなせなくなった。罪の意識は知らずとも、人を殺すということが敵対行為で、捕まって罰せられるものとは知っている。派手な動きをして、平泉にいられなくなることを恐れた。咎持ちにはなりたいが、さやと再会することより優先されるものではなかった。

 咎持ちになるために、早が日課として殺してきた人数、それは今や、あとひとりで千人、すなわち九九九人を数えていた。あまりにも切りが悪い。あと一で大台に乗る。それでも早は動かなかった。自分から、さやと会える道筋をわずかにも閉ざすなど、到底考えられなかった。

 気づけばもう、桜が咲く頃となっていた。朽ちた東屋に座り込み、上を見上げれば、壊れた屋根の隙間から、開き始めた桜花が覗けた。昔は園庭だったのが打ち捨てられたものであるらしく、そこかしこに名残が見られた。東屋の周りには、桜木が場所を争うように立ち並んでいた。

 度々たびたび、猫を見かけるようになった。

 額の左側に傷のある、みすぼらしい黒猫で、近くの川で取ってきた魚を、早が戯れにくれてやったせいで、味を占めたらしかった。悪い気はしなかった。その黒猫に、早はどことなく自分を見た。そして反対に、自分にはさやを見た。

 旅をしてやって来て、その地で何ものかの相手をしてやることに相似を見出して、早はその猫を見るたびに、手厚くもてなしてやった。太陽と言うにはおこがましいが、月くらいにはなれているのかもしれない、黒猫の世話をしてやると、そんなふうに思えた。

 必然、黒猫が訪れる回数が増え、幾日も数えないうちに、朽ちた東屋での同居人のようになった。ともに食事をし、ひとりと一匹でじゃれ合った。早は黒猫を抱いて眠るようになった。早は自分が月とも思わなくなった。それでは距離が遠すぎた。もっと、友達に、あるいは連れ合いに近しい何かだった。

 さやはどう思っていたのだろう。そんなことにも思いを寄せた。さやのことは太陽だと思っていたし、今も変わらないが、それでは距離が遠すぎるのではないだろうか。さや自身はどうあることを望んでいるのだろう。そもそも、


 早が昼寝から目を覚ますと、金属が軽くぶつかる音が聞こえた。

 黒猫が早の持ち物で遊んでいるようだった。装束のうちに仕込んであったものをどうやって引っ張り出したのか、それは錠前を外すために使う仕事道具だったのだが、黒猫にとっては玩具おもちゃであるらしい。

 うっかりしていた、早はそう思う。今のこれはおよそ問題ないだろうが、装束のうちには刃物もあるし、猫が呑み込んでしまいそうなものもある。きちんと管理しておかなければ、そう思うとともに、言って聞くかはわからないが、勝手に物を漁ってはいけないと教えないといけない、そう考えた。

「ねえ、」

 呼びかけようとして、早は、黒猫に名前がなかったことに気づいた。世界中の黒猫に呼びかけたいわけではないのだから、目の前の黒猫に固有の名が必要だ。黒猫、と呼んだのでは、どの猫を指しているのかわからない。自分にとって大切なのは目の前の一匹だけだ。

 黒猫が遊ぶのを見守りながら、早はしばし黙考する。この子は雌だ、かわいげのある名がいいだろう、そう考えた。早が整えてやった黒の毛並みに目をやって、名を決めた。

 近づいて、錠前を外すための仕事道具を取り上げる。案の定、奪い返そうとしてきたので、早はそれを好機として、そのまま黒猫を抱きかかえた。

「きみの名前は、小夜さよ。今日から、小夜って呼ぶからね」

 もちろんそれはさやにちなんだもので、また、黒という色に由来するものだった。それを聞いて黒猫――小夜はひとつ鳴いた。命名を喜んでいるのか、玩具を返せと言っているのか、早には判じかねたが、小夜を地に下ろして、仕事道具を返した。好事に水を差すのも大人気ないと、よわい六ながら猫を目の前にしてはそう思ってしまい、物を漁るなと言い聞かせるのは日を改めることにした。


 早が目を覚ますと、まぶたに違和感があった。おなじみになりつつある、金属のぶつかる音が耳に届いた。

 まぶたに指をやると、薄くやわらかい物に触れた。桜の花片はなびらだった。つい先日咲き始めたのに、もうすっかり散る季節であるらしい。来年の桜は、さやと一緒に見られはしないだろうか。期待と不安が入り交じった。依然、前途に光明は見えていない。

 小夜に目をやる。いろいろ貸してやったが、錠前を外す道具がいたく気に入っているようで、早は観念してそれを小夜の玩具おもちゃとして与えていた。もう仕事道具ではなく、純粋に遊ぶためのものだ。早がそれを使いたければ、小夜に頭を下げなければならない。物を漁るなといくら言っても学んではくれなかったので、危ない物は東屋の屋根に置いてしまった。

 上体を起こすと、早は呼びかけた。

「小夜、おいで」

 それを聞いて、小夜は遊んでいたのを止める。いくら注意しても何も学ばないのに、自分の名前はすぐに覚えてしまって、自分の連れ合いが抜けているのか賢いのか、早にはちっともわからない。愛らしい猫だということはよくわかる。

 すっかり早に懐いていて、お気に入りの玩具おもちゃを前にしても、早が呼べば来てくれる。やはり賢いのかもしれない。しかしそれなら、用を足す場所くらい覚えてほしいものだが。今日もすでに、早が起きる前、東屋の屋根の下で小便をしてしまったようで、合間から雑草が乱れて生える床板の一角が濡れ色となっていた。

 小夜が軽快な足取りで手元まで来たので、早はそのまま抱きかかえた。

「おしっこはね、この屋根の下でやっちゃだめなの。わかる?」

 それを聞き、小夜はにゃあと鳴く。これを了解の返事と捉えても、今までずっと期待を裏切られ続けてきた。不思議と怒る気になれないので、やはり早は今日も、了解されたと捉えることにした。

「いい子だね。じゃあ、ごはん取ってくるからね」

 近くに川が流れていて、そこには魚が泳いでいる。沢蟹も取れる。行くまでの道で山菜も摘める。だいたいは毎日、似たような道筋で食料を調達していた。

 足を伸ばして野兎を狩ることもあったが、徹底して、掠奪りゃくだつにあたること、あるいはそれに近しい行為は避けていた。猪を追うこともできたが、それを狙っている猟師がいると判じて、それを控えた。平泉に居続けるための配慮だった。

 早が漁場りょうばとしている地点は、ひどく足場が悪く、およそ誰も来ないだろうと思われた。大きな迷惑にはならない、そう判じて選んでいた。危険な場所であるから、小夜は連れて行けない。小夜はいつも留守番となっていたが、どうしてか、一匹で勝手にどこかへ行くことはないと、早は信じて疑わなかった。そして、その期待については、決して裏切られはしなかった。




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