三五 平泉
ああ、今日は日課がまだだった、思いはしたが、それはとっくに装束の裏に忍ばせておいた短刀を右手で握った後だった。否、
武装した男の首から血が噴出する。無論、その一点を狙って斬った。
噴き出た血はそのまま、早の動きを隠す格好になった。それを好機として、早は男が腰に差していた刀の一振りを、左手で抜いた。同時に、短刀を投げた。早の利き腕は左、短刀を右手で握った時には、刀を奪うことまで考慮していた。
子供だろうと、老いていようと、
また、敵の首を
早はとりわけ優れていた。特別に、
手にした刀を、早は
眼に短刀を刺され、うずくまった男を、隣で心配しているもう一方の男、そっちを先にした。柔軟な体、その腰のひねりを最大限に活かし、駆け、跳ね、その勢いも組み入れて、造作なく首を
取って返し、若干の助走の後に、
首から上を失った胴、その腰から
刀で三人目を斬ったほうがよっぽどいい、そう判じて、早は
奥州の半ばを過ぎ、
これまでが出来過ぎで、どこかでつまずくこともあるだろう、覚悟はしていた。どんな些細な手がかりでも、いかばかり微少な可能性でも、見出せる限りは向かおう、進もう、早はそういう覚悟をしていた。考えが甘かったと、自責せねばならなかった。
一厘でも、一毛でも、あるいは一
いくらなんでも不可解だった。
早は自分が優れているのだという自覚があった。そして自惚れではなかった。将来を嘱望されていたからこそ、ただでさえ生きた心地がしない里で、誰より過酷な鍛錬を課されていたのだ。
それこそ、平泉に着いて後、
結局、早は平泉の町外れにあった、朽ちた
平泉に居着く結果として、早は日課がこなせなくなった。罪の意識は知らずとも、人を殺すということが敵対行為で、捕まって罰せられるものとは知っている。派手な動きをして、平泉にいられなくなることを恐れた。咎持ちにはなりたいが、
咎持ちになるために、早が日課として殺してきた人数、それは今や、あとひとりで千人、すなわち九九九人を数えていた。あまりにも切りが悪い。あと一で大台に乗る。それでも早は動かなかった。自分から、
気づけばもう、桜が咲く頃となっていた。朽ちた東屋に座り込み、上を見上げれば、壊れた屋根の隙間から、開き始めた桜花が覗けた。昔は園庭だったのが打ち捨てられたものであるらしく、そこかしこに名残が見られた。東屋の周りには、桜木が場所を争うように立ち並んでいた。
額の左側に傷のある、みすぼらしい黒猫で、近くの川で取ってきた魚を、早が戯れにくれてやったせいで、味を占めたらしかった。悪い気はしなかった。その黒猫に、早はどことなく自分を見た。そして反対に、自分には
旅をしてやって来て、その地で何ものかの相手をしてやることに相似を見出して、早はその猫を見るたびに、手厚くもてなしてやった。太陽と言うにはおこがましいが、月くらいにはなれているのかもしれない、黒猫の世話をしてやると、そんなふうに思えた。
必然、黒猫が訪れる回数が増え、幾日も数えないうちに、朽ちた東屋での同居人のようになった。ともに食事をし、ひとりと一匹でじゃれ合った。早は黒猫を抱いて眠るようになった。早は自分が月とも思わなくなった。それでは距離が遠すぎた。もっと、友達に、あるいは連れ合いに近しい何かだった。
早が昼寝から目を覚ますと、金属が軽くぶつかる音が聞こえた。
黒猫が早の持ち物で遊んでいるようだった。装束のうちに仕込んであったものをどうやって引っ張り出したのか、それは錠前を外すために使う仕事道具だったのだが、黒猫にとっては
うっかりしていた、早はそう思う。今のこれはおよそ問題ないだろうが、装束の
「ねえ、」
呼びかけようとして、早は、黒猫に名前がなかったことに気づいた。世界中の黒猫に呼びかけたいわけではないのだから、目の前の黒猫に固有の名が必要だ。黒猫、と呼んだのでは、どの猫を指しているのかわからない。自分にとって大切なのは目の前の一匹だけだ。
黒猫が遊ぶのを見守りながら、早はしばし黙考する。この子は雌だ、かわいげのある名がいいだろう、そう考えた。早が整えてやった黒の毛並みに目をやって、名を決めた。
近づいて、錠前を外すための仕事道具を取り上げる。案の定、奪い返そうとしてきたので、早はそれを好機として、そのまま黒猫を抱きかかえた。
「きみの名前は、
もちろんそれは
早が目を覚ますと、まぶたに違和感があった。おなじみになりつつある、金属のぶつかる音が耳に届いた。
まぶたに指をやると、薄くやわらかい物に触れた。桜の
小夜に目をやる。いろいろ貸してやったが、錠前を外す道具がいたく気に入っているようで、早は観念してそれを小夜の
上体を起こすと、早は呼びかけた。
「小夜、おいで」
それを聞いて、小夜は遊んでいたのを止める。いくら注意しても何も学ばないのに、自分の名前はすぐに覚えてしまって、自分の連れ合いが抜けているのか賢いのか、早にはちっともわからない。愛らしい猫だということはよくわかる。
すっかり早に懐いていて、お気に入りの
小夜が軽快な足取りで手元まで来たので、早はそのまま抱きかかえた。
「おしっこはね、この屋根の下でやっちゃだめなの。わかる?」
それを聞き、小夜はにゃあと鳴く。これを了解の返事と捉えても、今までずっと期待を裏切られ続けてきた。不思議と怒る気になれないので、やはり早は今日も、了解されたと捉えることにした。
「いい子だね。じゃあ、ごはん取ってくるからね」
近くに川が流れていて、そこには魚が泳いでいる。沢蟹も取れる。行くまでの道で山菜も摘める。だいたいは毎日、似たような道筋で食料を調達していた。
足を伸ばして野兎を狩ることもあったが、徹底して、
早が
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