第六幕 桜散る夜
三三 煙焔
予想は
今、行は
行は考える。これが別千千行の戦術であれば、これだけの水、無駄遣いはしない。水とは資源だ。
前方にある川は、渓谷として山を抜けて、
つまり、これは水の輸送だ。将来の友好国に水という資源を提供するついでに、敵軍の足留めもできるとなれば、上出来もいいところ。
隠は時刻を定めておき、上流、
鬼の率いる八〇〇〇の兵さえも撒き餌だった。川の流れが壁になりようはずもない。これも時間稼ぎだ。
隠は最初から、不倒の壁を、
天幕の布が力なく分けられ、姿を見せたのは睦だった。その顔は、表情こそ気丈に保っているが、肌からは血の気が失せている。睦は副将として、状況を行に報告した。
「行殿の言った通りです。森が、前方の森が燃えています」
隠が目指したことは、まさにこれなのだ。不倒の壁。ついに現実となったのは、
「なにせ乾期だ。よく燃えるだろうね。風も吹いてる」
風は強まる一方で、手心を加えてくれそうにはなかった。
「東からの強風に煽られて、燃え広がっています。森の奥へ。月垂りの軍は、森の端に火を点けただけで、森の先、首府の方角へと下がる様子でした」
「この風ならね」
隠は本当に気が利く。月垂りの軍は、倍近い数の敵を相手にして消耗が著しい。さっさと引いて、体勢を立て直したいだろう。風があれば、方々に火を点けて回る手間が省ける。
「月垂りの軍は火に追いつかれないように戻ればいい。川が時間稼ぎをしてくれる。あたしたちが川を渡った頃には、もう森は火の海だ」
行が天幕の
「
行は考えを巡らせるのに必死で、睦に細かい指示は与えていなかった。それでこれなら、もしかして、睦はいつか、語り継がれるような英傑になるかもしれない。成長の速度、度合いが、今まで見てきた他の誰をも超越している。
「準備を進めさせて大正解。極限状況下では、たとえどんな命令でも、ないよりはまし。何も言わなきゃ、統率を放棄したのと同意義だからさ」だが、行がそれより感心したのは、続いた疑問の言葉のほう。統率を保つため、睦は無意味と知る命令を出したのだから。「気づいてるね。渡っても意味がないって」
睦は頷いた。失せた血の気が、さらに消える思いで。
「水を流したのは羽撃ちの軍です。羽撃ちの軍が川の流れに阻まれるなど、どうしてあるでしょう。我々が川を渡ったとしても、羽撃ちの軍が着く頃には、きっと、水は再び涸れている。そして、我々はどのみち、森を抜けることはできない」
なぜ不倒の壁たり得るのか。炎がうねるからか。否。
「そう。抜けられない。煙があるから」
睦は火事の際の常識として知っているのみだが、行はさらに踏み込んだ理解を加えた。
「焼かれることが問題なんじゃない。木が燃えることで、空気が変質することが問題なんだ。呼吸のための酸素が欠乏し、代わりに、人にとって有毒なものが満ちる。それが八〇〇〇の兵なら、あるいはその十倍でも、倒そうと思えるけど、相手が空気じゃね、どうしようもないよ」
いかに圧倒的優位、勝ちが明白な状況下でも、常に安全策は用意しておけ、行はそう教えてきた。当然、師である行もそれを実践している。
今回の
行は考えている。
本国に送った伝書鳩のことを。その鳩に託されたひとつの策のことを。
不測の事態に対処できるよう、前もって仕込んでおき、そして、羽撃ちの離反が知れた時に使った保険。
もはや意味のない保険。
効力を持つはずがない。その時、行は隠を自分と同格だとは思っていなかった。認識違いで考えたものが、うまく成るはずもない。必ず看破される。
だから、考えなくてはならない。本当なら意味のない保険を、どうすれば別な形で活かせるのかを。
こちらの動きは全て読まれ、もはや身動きもできない。月垂りの軍を敗走させた後、勝利の余勢を駆るのなら、まだ勝機もあるだろうが。
八刀鹿訂を失ったとて、月垂りの軍はまだ十分に戦える、体勢を立て直す間もある。氷月弓澄の用兵に翻弄された記憶は鮮烈。水流と火の森に意気を削がれ、退く余地なく羽撃ちの軍と向き合うか? 離反が知れ、兵の意気はさらに下がる。さらには、月垂りの軍がいつ大将の仇討ちに来るか知れないとなれば――
――勝てない。
相手を出し抜くとしたら、唯一、現時点で隠が読み切れていないものがあるとしたら、それは、たった一羽の伝書鳩だけなのだ。
だから、考えている。
たった一羽の鳩。
それが運んだ、役立たずの策。
それで、それだけで、勝つのならば?
――どうすればこの
しかし本気だ。自嘲などどこにも含まれない。行が勝利を諦めることはない。
だから単に、十三の少女としての、無考えな甘えとして、行の口から滑って出た言葉だった。伝書鳩のことを考えていたからか、ふと言っていた。
「伝書鳩、まだ残ってたよね? 睦、本国に遺書を送っといたほうがいいかもよ」
睦は、それが本気で言われたこととは思わなかった。たとえ
けれど、許せなかった。
あまりにも耐えがたかった。力を限りなくいっぱいに込め、握りしめた拳、爪が立って痛みに満ちたその手を、怒りのままぶつけてしまわないように、必死に、涙をこらえるほど必死に、耐えた。
こらえた。その拳を、腰の脇に留めおいた。
「あなたが上官でなければ、殴っている」
睦ははっきりと口にした。拳の代わりに、行を睨みつける瞳で、打ち据え、殴ろう、そんな意志の宿る眼光があった。
「兵を鼓舞するはずの将が、部下に遺書を勧めるとは、いったい何ごとなのか! まさか、八刀鹿訂が何のために死んだのか、わからないとでも言うつもりか!」
咎持ちでない、ひとりの人間の奮戦で、戦況がひっくり返るはずがない。兵だ。八刀鹿訂はその死をもって、兵を導いた。子細はわからずとも、それだけは明白だった。
「何が戦勝請負か。最初から、この世のどこにも! 必ず勝てる戦などない!!」
それでも、睦は従う。殴らず、統制を守る。
必勝不敗の神話など信じていない。行はたぐり寄せられる。切り開ける。きっと、誰よりも強く、より大きく、確かなものとして。そう信じるから、従う。
「あなたの役目は、勝てる道を、少しでも広く、少しでも先に切り開くことのはずだ! たとえ一分でも、たとえ一厘でも! 勝利の可能性が高まるならば、それを掴むことのはずだ!!」
行は何も言えず、また、うつむくこともできなかった。自責の念を覚えるより先に、堂々とした睦に目を奪われてしまっていた。
「私が遺書を書くことで、勝ちが近づくというのなら、喜んで書きましょう。何通でも。そのうえでお尋ねしますが――」
睦はなおも行を見つめる。怒りの満ちた瞳に、わずか、優しさと厳しさを混ぜ合わせて。
「――私の遺書は、勝つ可能性を、その道筋を、ほんのわずかでもたぐり寄せるものですか?」
ひとつ息を
「いいや。ちっとも、全然」
「では、外に出る許可をください」
睦はまっすぐに行を見つめる。責めることで、行を落ち込ませたいのではないと、謝罪させたいのでもないと、行にはそんなふうに見える。
「目的は?」
今の行に求められているのは、指揮官の任を果たすことだった。許可を出せるか、判断しなければならない。
「兵に指示を出します。渡河の準備をやめるな、と。ただし、羽撃ちの軍と合流の後に渡る、と。川を渡れずに焦らされたとしても、それは、進軍の遅れている羽撃ちの責任です」
「行ってよし」
行が鳩のことを考えて、勝ちを探っている間、睦は目の前の兵たちの統制をどう保つかを考えていた。いくら行でも、一度にふたつのことは考えられない。睦は副将として、指揮官が気を回せない部分を補おうとしていた。
行の承諾を得て、睦は黙して天幕を出た。行には、そんな睦の後ろ姿も、やはり堂々たるものに見えて仕方ない。憧れに似た思いさえ抱く。
ここで落ち込んでいては、睦の気概を無駄にする、行はそう思う。平静でいるべきだ。それが応えることになる。しかし、すぐさま、勝ちへの光明が見えるものでもない。そんな心の隙間に、ふと湧いたものがあった。
「ねえ、しずっち、あたし、ちっともわかんないから、だから聞きたいんだけどさ」
沈は声には出さなかったが、柔らかな微笑みを行に向けることで、快諾の返事の代わりとした。
「お姉ちゃんとか、お母さんとか、もしいたら、ああいう感じなのかなあ?」
大切な仲間はいる。気のいい弟子たちにも恵まれた。けれど行は、家族というものを知らない。
「それは、人によると思います。優しい人も厳しい人も、残念ですが、ひどい人もいるでしょう。わたくしとしても、どうとは言えません。ですが――」
質問の答えは返せなくても、沈には、ひとつはっきりとわかることがある。自分ではだめなのだ。
もし、行が甘えられる相手がいるとするなら――
「――この
慣れない気持ちを持て余し、行はどうにも落ち着かない。意味もなく姿勢を直し、やはり落ち着かなくてまた直し、さらにもう一度直してみて、けれど何も気が静まらないことを知る。
観念にも似た思いで、行は言った。
「呼んでみたいけど、あたしには難しいなぁ。……やっぱ、恥ずかしいや」
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