第六幕 桜散る夜

三三 煙焔



 ゆくが兵を引かせてほどなく、涸れた川に水が流れた。むつの考え通りに。

 予想はたがわなかったが、その流れの堂々たるや、行さえ目をみはるほど。もともとが広い川を満たし尽くし、それでなお荒ぶるほどの水流。なるほど、別千千ことちぢ行を敵にまわすとはこういうことなのだ、行はそんなふうに思いもした。

 今、行はしずとともに天幕のうちにいた。天幕を組み立てたのだ。仮に川を渡るとしても、流れは激しく、渡河とかには手間取る。時間を食う。外で馬に乗っていても仕方ない。行は机を前に置き、椅子に座っている。沈はいつもの通りに茣蓙ござの上だ。

 行は考える。これが別千千行の戦術であれば、これだけの水、無駄遣いはしない。水とは資源だ。いくさだけを理由に大量に奪えば、別な誰かが敵になる。敵を倒すために敵を増やしては意味がない。ましてかくのやることだ、配慮に欠けるはずがない。そう考えれば、羽撃ちの兵をあらたに立ち向かわせることにも、何か工夫があろう。

 前方にある川は、渓谷として山を抜けて、月垂つきしずりの首府のすぐそばを通り、海に注ぐ。おそらくは、首府の近くに巨大な湖でもこしらえているだろう。そこをき止めてある。水流は海に流れ込まず、湖に溜まる。月垂りは、土地柄、慢性的な水不足に喘ぐ国。

 つまり、これはだ。将来の友好国に水という資源を提供する、敵軍の足留めもできるとなれば、上出来もいいところ。

 隠は時刻を定めておき、上流、羽撃はうちの領内にあるせきを切るよう、指示を出していた。他の川と繋ぐか、湖にでも水を溜めたか、あるいは両方、どうあれ手法は問題ではない。指定の時刻までまんまと粘られ、川は流れで満ち、すぐに止まるはずもない。その現実が問題なのだ。

 鬼の率いる八〇〇〇の兵さえも撒き餌だった。川の流れが壁になりようはずもない。これも時間稼ぎだ。

 隠は最初から、を、列椿つらつばきの軍の前に用意するつもりだった。

 天幕の布が力なく分けられ、姿を見せたのは睦だった。その顔は、表情こそ気丈に保っているが、肌からは血の気が失せている。睦は副将として、状況を行に報告した。

「行殿の言った通りです。森が、

 隠が目指したことは、まさにこれなのだ。不倒の壁。ついに現実となったのは、煙焔えんえんの森。月垂りの軍が森に退けるはずもない。は守らねばならない。

「なにせ乾期だ。よく燃えるだろうね。風も吹いてる」

 風は強まる一方で、手心を加えてくれそうにはなかった。

「東からの強風に煽られて、燃え広がっています。へ。月垂りの軍は、森の端に火を点けただけで、森の先、首府の方角へと下がる様子でした」

「この風ならね」

 隠は本当に気が利く。月垂りの軍は、倍近い数の敵を相手にして消耗が著しい。さっさと引いて、体勢を立て直したいだろう。風があれば、方々に火を点けて回る手間が省ける。

「月垂りの軍は火に追いつかれないように戻ればいい。川が時間稼ぎをしてくれる。あたしたちが川を渡った頃には、もう森は火の海だ」

 行が天幕のうちで思考を巡らせ、方策を求めている間、副将である睦が兵たちを統率していた。無論、羽撃ちの離反については説明していない。川に水が流れたのは、の工作である、そういうことになっている。

渡河とかの準備は進めさせています。しかし、渡りますか?」

 行は考えを巡らせるのに必死で、睦に細かい指示は与えていなかった。それでこれなら、もしかして、睦はいつか、語り継がれるような英傑になるかもしれない。成長の速度、度合いが、今まで見てきた他の誰をも超越している。

「準備を進めさせて大正解。極限状況下では、たとえどんな命令でも、ないよりは。何も言わなきゃ、統率を放棄したのと同意義だからさ」だが、行がそれより感心したのは、続いた疑問の言葉のほう。統率を保つため、睦はと知る命令を出したのだから。「気づいてるね。渡っても意味がないって」

 睦は頷いた。失せた血の気が、さらに消える思いで。

「水を流したのは羽撃ちの軍です。羽撃ちの軍が川の流れに阻まれるなど、どうしてあるでしょう。我々が川を渡ったとしても、羽撃ちの軍が着く頃には、きっと、水は再び涸れている。そして、我々はどのみち、森を抜けることはできない」

 なぜ不倒の壁たり得るのか。炎がうねるからか。否。

「そう。抜けられない。煙があるから」

 睦は火事の際の常識として知っているのみだが、行はさらに踏み込んだ理解を加えた。

「焼かれることが問題なんじゃない。木が燃えることで、空気が変質することが問題なんだ。呼吸のための酸素が欠乏し、代わりに、人にとって有毒なものが満ちる。それが八〇〇〇の兵なら、あるいはその十倍でも、倒そうと思えるけど、相手が空気じゃね、どうしようもないよ」

 いかに圧倒的優位、勝ちが明白な状況下でも、常に安全策は用意しておけ、行はそう教えてきた。当然、師である行もそれを実践している。紫紺六魂組しこんりくたまぐみを相手にする時でさえ、改ではなくささやを行かせた。改を行かせても失敗はないだろう。しかし、ふたつ目の咎言という保険があるかないか、それが優先された。

 今回のいくさも同じく。行は、ひとつの安全策を仕込んでいた。

 行は考えている。

 本国に送ったのことを。その鳩に託されたひとつののことを。

 不測の事態に対処できるよう、前もって仕込んでおき、そして、羽撃ちの離反が知れた時に使保険。

 

 効力を持つはずがない。その時、行は隠を自分と同格だとは思っていなかった。認識違いで考えたものが、うまく成るはずもない。必ず看破される。

 だから、考えなくてはならない。本当なら意味のない保険を、どうすれば別な形で活かせるのかを。

 こちらの動きは全て読まれ、もはや身動きもできない。月垂りの軍を敗走させた後、勝利の余勢を駆るのなら、まだ勝機もあるだろうが。

 八刀鹿訂を失ったとて、月垂りの軍はまだ十分に戦える、体勢を立て直す間もある。氷月弓澄の用兵に翻弄された記憶は鮮烈。水流と火の森に意気を削がれ、退く余地なく羽撃ちの軍と向き合うか? 離反が知れ、兵の意気はさらに下がる。さらには、月垂りの軍がいつ大将の仇討ちに来るか知れないとなれば――

 ――勝てない。

 相手を出し抜くとしたら、唯一、現時点でがあるとしたら、それは、たった一羽の伝書鳩だけなのだ。

 だから、考えている。

 たった一羽の鳩。

 それが運んだ、

 それで、それだけで、

 いくさを遊戯と考えるより、こっちのほうがよっぽど正気ではない。行自身、そう思う。

 ――どうすればこのゲームに勝てる? どうすれば。

 しかし本気だ。自嘲などどこにも含まれない。行が勝利を諦めることはない。

 だから単に、十三の少女としての、無考えな甘えとして、行の口から滑って出た言葉だった。伝書鳩のことを考えていたからか、ふと言っていた。

「伝書鳩、まだ残ってたよね? 睦、本国に遺書を送っといたほうがいいかもよ」

 睦は、それが本気で言われたこととは思わなかった。たとえ軍神いくさがみと畏怖されようと、軍を預かろうと、行はまだ人として未熟な少女でもあると、知っていた。

 けれど、

 あまりにも耐えがたかった。力を限りなくいっぱいに込め、握りしめた拳、爪が立って痛みに満ちたその手を、怒りのままぶつけてしまわないように、必死に、涙をこらえるほど必死に、耐えた。

 こらえた。その拳を、腰の脇に留めおいた。

「あなたが上官でなければ、殴っている」

 睦ははっきりと口にした。拳の代わりに、行を睨みつける瞳で、打ち据え、殴ろう、そんな意志の宿る眼光があった。

「兵を鼓舞するはずの将が、部下に遺書を勧めるとは、いったい何ごとなのか! まさか、八刀鹿訂が何のために死んだのか、わからないとでも言うつもりか!」

 咎持ちでない、ひとりの人間の奮戦で、戦況がひっくり返るはずがない。兵だ。八刀鹿訂はその死をもって、兵を導いた。子細はわからずとも、それだけは明白だった。

「何が戦勝請負か。最初から、この世のどこにも! !!」

 それでも、睦は従う。殴らず、統制を守る。

 必勝不敗の神話など信じていない。行はたぐり寄せられる。切り開ける。きっと、誰よりも強く、より大きく、確かなものとして。そう信じるから、従う。

「あなたの役目は、勝てる道を、少しでも広く、少しでも先に切り開くことのはずだ! たとえ一分でも、たとえ一厘でも! 勝利の可能性が高まるならば、それを掴むことのはずだ!!」

 行は何も言えず、また、うつむくこともできなかった。自責の念を覚えるより先に、堂々とした睦に目を奪われてしまっていた。

「私が遺書を書くことで、勝ちが近づくというのなら、喜んで書きましょう。何通でも。そのうえでお尋ねしますが――」

 睦はなおも行を見つめる。怒りの満ちた瞳に、わずか、優しさと厳しさを混ぜ合わせて。

「――私の遺書は、勝つ可能性を、その道筋を、ほんのわずかでもたぐり寄せるものですか?」

 ひとつ息をき、緊張をほどいてから、行は答えた。

「いいや。ちっとも、全然」

「では、外に出る許可をください」

 睦はまっすぐに行を見つめる。責めることで、行を落ち込ませたいのではないと、謝罪させたいのでもないと、行にはそんなふうに見える。

「目的は?」

 今の行に求められているのは、指揮官の任を果たすことだった。許可を出せるか、判断しなければならない。

「兵に指示を出します。、と。ただし、、と。川を渡れずに焦らされたとしても、それは、進軍の遅れている羽撃ちの責任です」

「行ってよし」

 行が鳩のことを考えて、勝ちを探っている間、睦は目の前の兵たちの統制をどう保つかを考えていた。いくら行でも、一度にふたつのことは考えられない。睦は副将として、指揮官が気を回せない部分を補おうとしていた。

 行の承諾を得て、睦は黙して天幕を出た。行には、そんな睦の後ろ姿も、やはり堂々たるものに見えて仕方ない。憧れに似た思いさえ抱く。

 ここで落ち込んでいては、睦の気概を無駄にする、行はそう思う。平静でいるべきだ。それが応えることになる。しかし、すぐさま、勝ちへの光明が見えるものでもない。そんな心の隙間に、ふと湧いたものがあった。

「ねえ、しずっち、あたし、ちっともわかんないから、だから聞きたいんだけどさ」

 沈は声には出さなかったが、柔らかな微笑みを行に向けることで、快諾の返事の代わりとした。

「お姉ちゃんとか、お母さんとか、もしいたら、ああいう感じなのかなあ?」

 大切な仲間はいる。気のいい弟子たちにも恵まれた。けれど行は、家族というものを知らない。

「それは、人によると思います。優しい人も厳しい人も、残念ですが、ひどい人もいるでしょう。わたくしとしても、どうとは言えません。ですが――」

 質問の答えは返せなくても、沈には、ひとつはっきりとわかることがある。自分ではだめなのだ。ささやも、あらたも、それには応えられない。行が心を許し、預け、頼ることができたとしても。

 もし、行が甘えられる相手がいるとするなら――

「――このいくさが終わった後、睦お姉ちゃんって呼んでも、きっと、怒られないと思いますよ」

 慣れない気持ちを持て余し、行はどうにも落ち着かない。意味もなく姿勢を直し、やはり落ち着かなくてまた直し、さらにもう一度直してみて、けれど何も気が静まらないことを知る。

 観念にも似た思いで、行は言った。

「呼んでみたいけど、あたしには難しいなぁ。……やっぱ、恥ずかしいや」




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