三二 鬼神
八刀鹿訂は、それを狂瀾と言った。
はたして、その物言いで正しいのかどうか、そんなことさえ、もはや誰にもわからなかった。足りないとも、余るとも、どうともわからなかった。人の認識と、その尺度が、どれほどの意味を残していただろう。人の世に、地に、鬼が立つことなど、そもそもがあり得ないというのに。
どれくらいの首が、鬼に
訂は手元にあった刀をそのまま持ってきた。
いかに名刀とて、敵の肉を裂き骨を断てば、切れ味は鈍っていく。もはや、斬ることは望めない。だからと、戦いをやめられるわけがない。最前線に立つ一兵卒に、どうしてその自由があろう。
斬れぬ刀、訂はそれを握り続け、力の限りに振るった。斬れずとも、武器はこれしかない、だから、その
とうに全身が血塗れだった。これ以上、およそ濡れようがない。全てが返り血で、訂自身の血は一滴も混じっていない。血液、あるいは体液、さらには
鬼だ、鬼が来た、誰かと誰かが言った。一方は歓喜に震えて、もう一方は恐怖に蝕まれて。鬼が助けに来てくれた、鬼が自分たちを
訂は最後までこだわった。何の権利も持たない、ひとりの兵であることに。
敵兵を斬り、あるいは骨を砕けば、持っていた武器が落ちる。それらの武器は極力、自軍のものとしていったが、訂は決して、自分の刀とは持ち替えなかった。落ちた武器を味方の側に向けて蹴り飛ばし、あるいは拾ってもすぐに他の兵に渡し、斬ることのままならない自分の刀で戦い続けた。
やはり、異様に映る。その異質さに息を呑む。斬れる刀、突ける槍を拾わずに、ためらいなく、斬れぬ刀で敵を殴り殺していく。叫喚の戦場にいながら、そうして骨が砕かれる音だけ、
刃が散々にこぼれ、血と脂で塗り上げられた刀を見て、誰かが言った。
あれは鬼の刀だ、と。
わからない。誰もわからない。いったい何が起きているのか、それすら、列椿の兵も、月垂りの兵も、誰ひとり理解が及ばない。何なのか、目の前のこれはいったい何だというのか、誰も正しく答えられない。疑問を持つとして、何から問えばいいのか、その始点に立つことも、
人知が及ばぬゆえに、敵味方問わず、不可解の結論は一点に収束する。
本当に、鬼だ。
ただの人間が、鬼のすることを理解できるはずもない。何もわからないで当然なのだ。
鬼で足りるのだろうか、そんな疑問はむしろ抱く。人間ではない何か、途方もなく高みに存在する高潔な何ものか、訂にそれを見ながらも、人知のうえでは、鬼と呼ぶしかない。自分たちが見ているもの、感じているもの、それを表す言葉がない。
列椿の兵は、恐怖に震えることも満足にできなくなっていた。逃げようと思う者ほど、恐ろしさで足は動かず、なお槍を振り回す胆力を持つ者ほど、自らの死を避けられぬと認めねばならなかった。
月垂りの兵は奮わされた。陶酔に至り、無我夢中で槍を突いた。刀を振るい、殴り、組み合い、蹴り倒した。根拠もなく思わされた。負けるわけがない。こちらには鬼がいるのに、負けるわけがない。どうして負けようがある。絶対に勝てる。
訂は知っている。無論、言うに及ばず、このままでは――
――負ける。
戦線がこうも長く延びていて、訂のそばにいる兵を鼓舞した程度では、戦況はひっくり返らない。ここが無事でも、いずれ他の地点で防衛線が破られ、それを
訂は戦いながら、探している、考えている。鬼にふさわしい死に場所と、
死なねばならない。でなければ、兵の迷いは断ち切れない。
加え、時間があるでもないのだ。鬼の奮戦の報はすぐに行き渡らない。人の戦死も大差はない。ここでは人の死はありふれていて、轟かない。しかし、鬼の戦死の報は違う。轟く。その戦死とはいかなるものか。死ななければならないのは人間ではない。命を落とすことさえ、鬼のまま、鬼として、成し遂げなければ。
壮烈を極めながら、兵よりも無惨に、そして、共に戦った者には、後々までの誇りとなる、鬼はきっと、そのように死ぬ。
訂は視界の端に、澄の姿を捉えた。
「叔父貴!!」
澄がそう叫ぶのが、耳に届く。懐かしい呼び名だ。死ぬまでにせめてもう一度と願っていたそれを、もう二度も聞いた。このうえなく嬉しいと、その時は思った。
「北方向!! 距離およそ百です!!」
違った。もっと嬉しいことがあった。
方角と距離、それにこそ、訂は喜びに満ち、震えた。愛などという言葉が、陳腐に霞んでしまうほど。はたして、この幸せに及ぶものが他にあるだろうか。そして、あり得るはずのものだろうか。これこそ奇跡と、そう言うしかないのではないか。どうして、どうして、鬼が情を知れるのだ。
澄は全てを承知で、探してくれていたのだ。
行く先にあるのは、鬼の死に場所だ。
敵を薙ぎ払い、澄の導くところへ駆けながら、訂はふと思う。薄情な姪だと、そんなふうに思われてしまうのだろうか。叔父を犠牲にして勝利を得ようとしている、死ぬとわかっていて場所を示したと、そのように。涙のひとつもこぼさず、非情にも、と。
――いや、わからなくていい。
――誰もわからなくていい。
本当の意味では、正しい形では、誰ひとりわかるはずがない。駆けながら、訂は知る。なぜ、鬼が情を知ることがあり得たのか、その情とは何であるのか。
――わかられて、たまるものか。
誰より大事に思う自慢の姪が、どれだけ優しく、気高く、そして強いのか。どれだけの、こぼしたかった涙を、その身のうちに沈め、場所を示したのか。そしてきっと、本当に沈めてしまったのだ。かけがえのない叔父を死地に送りながらも、やってのけたのだ。
今や、心は澄み渡り、何の哀しみもないのだろう。どうぞ存分に、鬼らしく死んでくれと、ただ、それだけを願っている。じわり、潤い、染み込むように、訂の心奥に遅れて伝わってくる。
死ぬことを良しとして、純に願うのは鬼だ。死んでくれと願われて、心が満ちるのもまた、鬼だ。それを共に分かちあうならば、やはり、鬼だ。
――それを理解されてしまっては、鬼の恥。
人間にはわからなくていい。
これは、鬼と鬼の絆なのだから。
味方の兵は押し込まれ、戦線は今にも破られそうになっている。後方では、鉄砲隊が三十名余、斉射の構えを見せている。しかし、間に合わない。斉射などと、悠長に構えていられる様子ではない。準備に手間取るうちに、敵兵がなだれ込んでくるだろう。
無論、斉射の指示を出したのは澄だ。
澄は場所を示しただけではない。死に様まで、用意してくれていたのだ。
間に合わないと承知で斉射の指示を出したのではない。間に合うと確信するからこその指示なのだ。鬼が来れば間に合う、と。
――なるほど、
納得して、訂は思わず、口もとだけで笑ってしまった。顔とて、返り血と汚濁に塗れているのであり、わずかな口角の変化など、誰も判別できない。それは助かったが、ちっとも足りない。大笑いしたい気分だった。澄は、なんと聡明なのか、と。喜ばしく、愉快だった。
単純な帰結ではある。しかし、そう
鬼が、敵兵に、人間ごときに殺されるわけがない。それは自明。
ならば、解はひとつきりだ。
――鬼を殺すのは、味方しかないではないか。
この世で唯一、月垂りの兵ならば、鬼を殺せるのだ。なぜならば、月垂りの兵とは、鬼神の導く鬼の軍勢だからだ。鬼の一匹くらい討って然り、いったい何の不思議があろう。
瞬間が連続する。味方が突かれ、斬られ、長い戦線の一点、そこに立ち、敵を防ぐ者が、ついに誰もいなくなる。得がたい好機と、列椿の兵が槍を突きだし、怒鳴りながら、濁流のように駆け込んでくる。対する鉄砲隊の斉射は、わずか、それに遅れる。決壊は免れ得ない、そのはずが、しかし、あるべき連続性に従っていた流れは――
――そこで止まる。
鬼が、戦線に生まれた
おいそれと鬼の刀はくれてやれない。それは握りしめたままではあったが、殴らなかった。敵の向けてきた槍を、体で受けて止めた。自ら刺されることで、止めた。腹で、さらにもうひとつ腹で、左肩で、さらに投げ出した左の手のひらで掴むように、あるいは、振り上げた右足で蹴るようにして刺され、刺さったままで地に足を下ろし、結果、敵から槍を奪うような形で。
敵を倒すのが役目ではない。
真に達成すべきなのは、列椿の軍をこれより先に進ませないこと。
一兵卒は、役に殉ずるのみ。
そして同時に、鬼の死に様だ。
訂はふと、思う。
――やはり、布団の上で死ぬのでは、格好がつかんだろう。
だから、望む。
「撃て!!!」
首から上だけで振り向き、斉射の構えの整った鉄砲隊へ、訂は激声を飛ばす。
「構うな!! 儂ごと、敵を撃て!!!」
鬼の命令には逆らえない。兵たちはわかっている。
応じるしかない。感じている。
しかし、引き金にかける指は動かない。動かすことができない。
「儂ごときの命を惜しんで、好機を逃し、勝ちを捨てるか!!」
あまりのことに、敵兵も動きが止まっている。しかし、それがいつまでも続くわけではない。この機が唯一なのだ。逃せば、本当に決壊する。
「それで鬼の軍か!! 月垂りの何たるか、列椿どもにわからせてやるがいい!!!」
訂にはわかっていた。これで兵が動くものではないと。人とは元来が、臆病なのだ。自分が何を言っても、それでは聞かないと知っている。
しかし――
――大将はもう、他にいる。
「迷うな!!!」
澄は叫んだ。鉄砲隊の後ろに立ち、鬼の咆哮で、兵を動かすべくして。
「我らが鬼神を、やつらに殺させるつもりか!! お前らが撃たないで何とする!!」
兵は息を呑んだ。もはや逃れられないと、直感で知った。
鬼に挟まれて、人が何を考えられよう。指の一本をそこに留め置くことさえ、ままならない。
「鬼を討った手柄を、列椿に与えるな!! お前たちが撃ち殺すんだ!! 鬼を笑いものにしたくなければ、お前たちが!!! いいか、一斉に――」
指が、引き金にかかる指が、そろって、動く。
「――撃て!!!」
兵はもう、迷わなかった。
最前線で奮戦した将を、自分たちで撃ち殺しておいて、さらに何を迷えというのか。もう引いたのだ。引き金を。迷わずに。
鬼を殺した。
今さら、引き下がれない。過去は消せない。戦場に身を置くならば、逃れられない。
自分たちは、鬼さえ殺す、鬼の軍勢なのだ。
そして、今なお、やはり――
――凄絶な死に甘んじた、誇り高き鬼神を戴く軍なのだ。
負けていいわけがない。侵略を許すなど、到底、認められない。これで負けるなら、なぜ、鬼はあのように死んだのだ。
あまりにも命の軽い死だった。一兵卒と同じほどに。
兵はそれきり変貌し、その変化が瞬く間に伝播していく。士気が
そして、伝わったひとりひとりの兵が、鬼と同様に戦う。
その様子を見て、澄は感じていた。絶対の不条理が断ち切られたのだと。
兵に、命を惜しむなというのではない。
将と兵の命の価値が、今ここに等しくなったのだ。
迷うのは、それが不条理となるのは、命の重みに不平等を感じるからだ。鬼神の戦場においては、鬼の命さえ軽い。それが実際に示された。そして、命の軽い鬼は、これから先、兵たちの心に宿り続ける。迷い、立ち止まるわけにはいかない。
しかし、そんなことより何より、澄にはおかしく思えることがあって、兵に続けざま指示を与えながらも、笑いをこらえるのに必死だった。
思い出したからだ。訂が、自慢の妹に会うのだと言っていたことを。
つまり、天国に行くつもりだということ。
無論、行くだろう。たとえ嫌がられても、猛将、八刀鹿訂は、無理にでも乗り込んでしまうに違いない。だから澄は、おかしくてたまらない。
血と脂の臭いが立ちこめ、汚濁が川底に淀み、悲鳴と怒声が繰り返す、何ら変わらぬ修羅の図を前方に見やり、守る森を背にして、誰の耳にも届かない頃合い、結局は我慢できず、澄の口から独り言が漏れた。
「鬼が天国に行くなんて、きっと、前代未聞ですよ。さすが、叔父貴」
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