二九 鼓舞
鬼神の姪は、ひたすらに吼えた。
それは確かに、咆哮であるとは言える。正しいが、適切ではない。それでは美しすぎる。声の限りを絞った、無様な、女の叫び声だ。それでいいと、
――否、そうでなくてはならない。
戦場は、鬼の生き場所は、何らの慈悲も期待できぬ場所だ。
「進ませるな!! 断じてだ!!!」
澄は吼える。列椿の兵と命を潰し合っている、自軍の兵へ向けて。
ここに立ち、戦いを見やれば、ひとつのことがはっきりとわかる。
人間が、生物でしかないということが。
人間の、薄皮一枚を隔てた内側に何があるのか、ここでは隠されない。臓が散る、血が注ぐ、腕が
八〇〇〇の兵、あるいは敵方の一四〇〇〇を加えてもかまいはしない。その全てが、人として、人であるように努めて、辛苦を重ね、そして手にした人としての
鬼の生き場所では、戦えるかどうかが、その尊厳を決める。死体は戦わない。命尽きた遺骸は、土と同様に踏まれて中身がはみ出し、あるいはそこに刺さった矢は、肉を抉る弾は、ただの外れ、
――ここだ。
澄はいまだに、戦場の光景、修羅の図を前にするたび、吐き気を覚える。いつだって、それを必死にこらえている。澄はそれを、恥とも弱さとも思わない。当然だ。ここはどこだ。鬼だ。鬼なのだ。
鬼の生きる場所が、心地良いはずがない。
正しい。絶対的に正しい。
間違いないと、澄は確信する。
ここは鬼神の戦場、そして――
――自分を生かす場所だ。
生きる。業ではない。鬼神の姪が生きる、ただそれだけ。人が空気を吸うのに、いちいち業を背負うものではない。
「断じて進ませるな!! 列椿の軍、一兵たりとも、一歩たりとも!!」
もはや澄には、叫ぶことしかできない。
打てる手がない。
「行かせるな!! 奪われていいものなど、何がある!!」
士官として、ここまで前に出ては許されない場所、すでに前線の範疇、その地点まで、澄は出てきていた。白装束のままで。自軍の兵に声を聞かせる、ただそれだけのため。
「ここは月垂りの国!! 決して、決して決して決して!!!
矢と弾は
もはや、無傷でいるほうが不調和だった。鬼の戦場は、ぬるい欺瞞を持たない。せめてもの調和を取り戻そうとする。そう、一瞬のうちに
流れ矢、その
知将と称えられる裏側で示されるように、澄は武芸に秀でてはいない。まして、体中を震わせるようにして、全力で叫んでいたのだ、避けることなど不可能だった。
矢は力なく、浅く刺さるのみで、眼球より奥までもを傷つけることはなかった。それでも、今後一生、澄の左目が光を捉えることはない、それは明白に過ぎた。
鬼神の戦場で、眼を失う――
――正しい。
――何もかも全て正しい。
澄は自身に刺さった矢を握り、そして、思い直した。
――否。
――これでは鬼に足りない。慈悲がある。
それは、余分な慈しみを捨てるためではなかった。
ここにいれば、鬼に似つかわしくない慈悲とて、使う。さらなる修羅を呼び込むために。
――よくもこんな、兵を奮わせるのに都合のいい材料をくれるものだ。
澄は、竹で作られた
澄は矢を強く掴み、そのまま、それを力任せに引き抜いた。
なればこそ、正しい。
掻き乱した傷から湧出した血に、左頬が
――私が美人と、どれだけ噂しているか、知っている。
――さあ、見ろ。これもまた、修羅の図だ。私の顔、その
「私を誰と思うのか!!!」
兵たちに走った動揺、その全てを戦意に変える。それが、今この場での澄の役目だった。
「
左側の光は消えている。残された右眼、片方だけで、澄は睨んだ。心が乱れた兵たちを、まるで敵を見るかのように睨みつけた。
「鬼神の率いる軍勢も同じこと!! 応えろ!! 私の言葉に応えてみせろ!! 鬼神の兵は、月垂りの軍は、これしきで引き下がるほどに弱いのか!!!」
叫ぶことしかできない。
手は尽くした。澄は、持てる知略の全てを振り絞って兵を用いた。失敗と言えるものもなかった。局地戦で捉える限り、氷月弓澄は、
兵を巧みに動かし、前に急ごうとする列椿国軍を翻弄した。飛び道具の不足を補うために、槍を投げさえした。月垂りの荒武者だからこそできる芸当、そして、敵方に知の沈がいても成し遂げられる奇襲。不意を突かれた列椿の騎馬隊は大きく崩れ、また次の用兵、その次の用兵へとつなげていくことができた。それでも――
――もう保たない。
月垂りの軍がやるべきは、時間稼ぎ。それは、自軍が後ろに下がる余地、その空間があってこそなのだ。
もう下がれない。
隠の策を成功させるためには、今の地点より先に列椿の軍を進ませてはならない。
大きな森を背にして、前面には、乾期ゆえに水の涸れた川が横たわる。その川が、月垂りの軍が死守せねばならない線だ。もう到達しているのだ。両軍は水のない広い川底、長く横いっぱいに広がり、矢と弾が飛び交う中、槍を、刀を、あるいは拳を、
人間の中身と混ざり合い、汚濁した血が、涸れた川底に
鼓舞することだけ。
だから来た。そのために。
必死に声を振り絞るあまり、澄は、後ろから訂が向かってきたことに気づけなかった。左側に立たれてしまえば、なお難しい。左肩にそっと手を置かれて、澄はようやく気づいた。
残った右眼を向け、死地の中、修羅の図の中で、澄は見た。訂の顔、そこに、偽りのない、優しさに満ちた微笑みがあるのを。
「澄よ、そろそろ、お前が鬼神を名乗ってよい」
いったい何を言っているのか、問おうとしても、澄はそれを口から発することはできなかった。目の前の光景の異質さに呑まれていた。微笑みだけではない。訂が、あろうことか、この戦場で、叫喚の渦中、血漿の滴るここで――
――鬼の鎧、朱の甲冑を脱いでいる。
澄には何もわからなかった。今までどんな負け戦でも、訂が戦意を失ったことはない。鬼が戦う気をなくすなど、未来永劫、あるはずがない。それでは? これはいったい何なのだ。戦うつもりで甲冑を脱ぐなど、どうして起きる?
そして、なぜ、そこに微笑みがある?
訂は着物一枚でやって来て、その着物さえ着崩し、上半身はほとんどはだけている。刀を一振り、それは握っている。
あふれんばかりの優しさはそのまま、訂はその顔つきに、
「そう変な目で見るな。この歳になるとな、甲冑は重くてかなわん」
「ご冗談を」
澄にはそうとしか言えなかった。訂の胸板は服に覆われずに、陽の光に照らされ、くっきりと形を見せている。往年ほどではないとはいえ、甲冑を重いと感じられるような筋の付きかたではない。
「
やはり訂は、深く、優しく微笑んでいる。
澄はこんなふうな笑みを見たことがある。しかし、鬼の笑みではない。例えば、孫の相手をしている時、例えば、下手の横好きで料理をしている時、そういう時にだけ、
「――今これより、儂と大将を交代してくれんか」
それで、澄は察した。
――重いから着ないのではない。
――遺すために着なかったのだ。
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