三〇 凶報
澄のうちで、思いは満ちた。
気持ちはいくらでもあふれ、色とりどりの方向に巡る。いくらだって。母を亡くしてから後、ずっと、訂が澄の光となってきたのだ。こんなに強く照らされては、全てが鮮やかに映る。
似つかわしくはない、だから今までも言わなかった、しかしそれは、とうに確かなこととなって、澄の心にある。澄を照らし、導いてきたのは、鬼ではない。
――けれど、違う。もう、すでに違う。目の前にいるのは――
訂の願いは、決して、頷きたいものではなかった。
しかし、それでも、今ここにいるのは――
――鬼神と、鬼神の姪。
――答えなど、決まっている。
「委細承知」
言えば、そう答えれば、もう鬼神の姪ではなくなると、澄は承知していた。
――もう、鬼神の姪はここにいない。どこにもいない。
――ここにいるのは、鬼神と、鬼神だ。
わかっている。今これから最前線に赴く者が鬼神であるように、ここに残る自分もまた、鬼神となるのだと、ならねばならないと。
澄は、刺し潰された眼球をそのままに、気丈な顔で言葉を続けた。
「列椿が何するものぞ、かの戦勝請負とて、臆するに値せず」
母親譲りの負けん気がそこにあった。澄自身が望まずとも、訂の自慢の姪が、そこにいた。
「鬼であれば、天さえも不敵に相手取って、月垂りの何たるか、余すところなく示しましょう。今これよりは、鬼神たる氷月弓澄の軍勢、その全力をもって、
澄の視界、残された右が、わずかに滲んだ。
「ですが――」
ここは前線だ。兵の前で、無様をさらすわけにはいかない。
「ですが、ですが――」
澄はこらえた。
鬼は涙を流さない。
「――叔父貴と一緒に行きたかった。ともに、戦いたかった」
それを聞いて、訂は心底から嬉しそうに、豪快に笑った。
「馬鹿を言え。これから自慢の妹に会えるというのに、お前がいたら、合わせる顔がなくなってしまう」
戦場が震えた。
修羅の空間であってさえ、
人間ごときの殺し合いなど、鬼にとっては
上半身をはだけさせたまま、刀の一振りだけを握り、訂は駆けた。力に満ち満ちた、往時と変わらぬ、あるいはそれを上回る疾駆だった。
刀と槍、拳と体、兵と兵、命と命がぶつかり合う渦中、その深奥へ、駆けた。
切り込んだ。
なれば、ここが月垂りの国であり、古来の人の規則など通用しない戦場であるゆえに、そこにいるのはもはや、真に、人ではない。
――鬼神だ。
鬼は駆け、風を切りながら、雄々しく咆哮する。力強く、そして、美しく。
「地獄の鬼ども!! 地に上れぬが口惜しいか!! ここに立つ
味方の兵が、まず震えた。わからなかった。
なぜ、大将である訂が、甲冑も纏わず、刀の一振りだけで死地に飛び込むのか。
疾駆ゆえに、口上の半ばで訂は最前線に到達した。兵が現実を理解できぬうち、その目前で、敵の首がひとつ飛んだ。
「鬼も人も、そろって刮目するがいい!!!」
ひとつの奇跡、その幕開けだった。
「人の世に
――わずか、一二〇〇秒と少し後――
枯れた
――望むところではある。だからこそおかしい。
後ろから風が吹いてきていた。金色の髪が耳にかかり、今の行は、それだけで集中が乱れてしまう。気を取り直して、前を見据える。
前に進めば、追いつかれなければ挟撃されない、この理屈には続きがある。前に進み、突撃を続け、月垂りの軍を敗走させれば、取って返せる。軍の進路を反転させ、引き返し、羽撃ちの軍と正面からぶつかれる。前方にあるのは不倒の壁ではない。もともと八〇〇〇という、数に限りのあるものだ。極論、
氷月弓澄に、局地戦において圧倒されるのは、ある程度は行の想定内だった。天才と称されようと、あくまで行は戦術の専門家であり、用兵の達人ではない。氷月弓澄は聞いていた以上に手強かった、それでも、残る。強引に、兵数にものを言わせて押し切ってしまっても、それで多大な損害を与えられても、月垂りの軍を敗走させた後、羽撃ちの軍とぶつかれるだけの兵数は残る。
つきつめて言えば、行の指示した全軍突撃の目的は、前に進むことではない。できる限りすみやかに、月垂りの軍を無力化することだ。
それが今、月垂りはあろうことか、列椿と正面から組み合って戦っている。氷月弓澄は健在のはずが、用兵を放棄している。ゆえに、減る。敵方の兵数、八〇〇〇として始まった数字が、ここにきて、みるみる減っている。
決定的におかしい。月垂りの軍は少し退くだけで森に入れる。ここは月垂りの領内、広がる森は庭のようなものだろう。用兵に優れる氷月弓澄にとって、地の利とは、何にも勝る武器のはずだろう。
行は気づいている。これまで、まがりなりにも前進してきたものが、先刻から、一歩も進んでいない。戦線が動いていないのだ。違う。理に適わない。致命的なまでにおかしい。
行のすぐ隣、馬の上で、睦もやはり厳しい顔つきとなっている。前方を強く見つめ、しかし何も見通せないでいる。睦はどうにか苛立ちを抑え、落ち着きを持とうと務めた。指揮官の、行の苛立ちが伝わってくるゆえに、隣に冷静な思考がなければならないと。
理屈を重んじる行だからこそ、理に合わない事象に強く違和感を覚える。苛立ちを持て余し、こらえきれず、思わず苦い声を漏らした。
「いったい……いったい何がある」
それを聞いて、睦は――
――醒めた。
何度も見た。どんな小さな活路さえ見落とすまいと、睦は繰り返し地図を見た。囁を送る馬上でも、戻ってきてからも。頭の中で細部まで描けるほどに。それゆえ、眼前の戦場にある理に気づいた。
「川が……川があります」
そう、戦線は横に広がり、涸れた川に沿って長く延びている。広い川底に、修羅の図がある。
行が返事をしようとするのを、息を切らせた兵の叫びが遮った。
「報告! 急ぎ、大将へ報告!」
駆けてきたのは、本来の伝令の兵ではなかった。よほどの事態であるのか、伝令を介することを省き、前線で戦っていた兵が直接ここまで駆けてきたのだ。最前線の凄絶さを示すかのように、
兵は大将、
告げる側であるにもかかわらず、いまだ信じられないという顔で。
「八刀鹿訂……八刀鹿訂が!! 討ち死に!!!」
その報告は周りにいた兵、いずれの耳にも入ったが、場は、騒然となることさえ忘れた。あの鬼が、敵の大将が、どうなればこうもたやすく死ぬのか、理解が及ばず、騒ぐことを忘れ、むしろ、恐ろしさが漂う。
報告に来た兵を労うより先に、行は副将に確認した。
「睦将軍、何があるって?」
睦は瞬時、唇を引き結ぶ。これは凶報だ。敵将戦死の報を聞き、睦は確信を深める。前方の戦線には理がある。間違いなく、秋大忌隠の理が、そこにある。
そしてそれは同時に、別千千行の理なのだ。
「川です。将が命を捨ててまで、敵が死守している戦線、それは川と重なります。今は乾期ゆえに涸れている、だから川底で戦えています」
睦は見ている。行にとってはいつものことだったかもしれない。しかし睦には、強く印象に残った。百年待とうと自分には思いつかないと思った、それを、逆の形を見ている。
「先日、行殿は、砦を落とすために川を干上がらせました。秋大忌隠は、行殿の一番弟子、その戦術には共通するところがある。ならば――」
睦は最後までは言わなかった。近くで兵が聞いているために、直接的に言うことを避けた。無論、行はそれで察する。十分過ぎるほどに自軍の圧倒的窮地を知る。おかしいどころの話ではない、とうに手遅れなのだ。
即座、行は睦に指示を出した。
「睦、兵を引かせるんだ。全軍、川のこちら側へ、今すぐに。追撃は絶対にない」
睦は頷き、すぐさま、馬で駆けた。
行は考える。八刀鹿訂ほどの将が命を捨てた。逆に言えば、命を捨てさえすれば、保たせられるのだ。そうでなければ、鬼が死ぬものか。下手に粘っても、こちらに無用な被害が出るだけ。
鬼が死ぬことを前提の策で良しとはすまい。向こうにも錯誤があった。列椿の進軍開始が想定よりも早かったのだ。それを隠の見当違いとは言いきれない。睦の助けがなければ、突撃の指示はもっと遅れていた。しかし、そもそも。
進むべきではなかった。
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