二七 再会



なれは先刻から、いったいをしている?」

 いくさ直中ただなかに我が身を置きながら、早は自分でも間抜けだと思える問いを発さずにはいられなかった。

 山間やまあい、垂直な崖が左右にそびえる。人に踏みしめられて草が生えずにいる土は、乾期ゆえに乾き、粗末ななりをさらしている。早は役目を負い、列椿の軍が道を抜けてから後、ずっとここに留まっていた。

 もっとも重要な地点とは言えない、それは早も承知だが、ここは疑いなく戦場。この山道を制することが、一軍の命運を左右しかねない、それは間違いない。

 であれば、早はきちんと陰手おんしゅの仕事着である装束を着ている。動きやすいように裾や袖口を詰めてある。色が黒であるのは、身を隠すためではなく、むしろ目立つためだ。昼間は無論のこと、夜となっても本当に真っ暗にはならないもの、月が浮かべばなおさら、黒というのは、本来、識別できる色なのだ。敵を引きつける役を負うことが多い早は、純黒じゅんこくの仕事着を好む。

 服の内側にあるのは、身を守るための最小限の金属板と、多種多様な仕事道具。現地調達が陰手おんしゅの常道ではあるが、自分たちが独自に作り上げた物はどうにもならない。服のうちにあるいずれの道具も、決して人手に渡ってはならない、陰手おんしゅ秘奥ひおうに値する。それを数多あまた持てるというのは、人として、戦力として、早が特に信頼されている証だった。里を裏切ることも、敵の刃にたおれることも、決してない、と。

 早の刀は、山中に隠してあった。持てば重いのもあるが、何より、服の内側には入らないからだ。武器というのは奪われかねない物で、わざわざ見せびらかす必要はないと陰手おんしゅは考える。長い黒髪は、頂点に近しいところでしっかりと結っていた。

 もはや呆れ混じりに、早は正面に目を据える。やたらと目立つ真緋あけ袖無套マントは、向こうの仕事着であるのだろう。陽動を任されることが、自分同様に多いのかもしれない、そう判じられるゆえに、早は派手な色にをつける気はない。問題は仕事着だということだ。

 仕事のつもりで来ておいて、敵を目の前にして、これはいったい何ごとなのか。あろうことか、咎持ちである早を至近に置きながら、油断にも等しいことをしている。何のつもりだと、問いただしたくもなる。

「なれ? ねを?」

 里を離れてから、幾度も繰り返し見てきた反応が、ここでも返ってきた。早の国言葉では、意思疎通がままならないのだ。折衝や契約は里の他の者に任せていたので、これまで別段大きな支障はなかったが、今回ばかりは、早はそれで良しとできなかった。

「お前はさっきからいったい何をしているんだと、そう聞いた」

 つい先月まで、早は確かに国言葉でしか喋れなかった。覚えていて損はないからと、隠が標準の発音を教えてきたのだ。厳密に言えば、忘れていたものを思い出す手助けをしてくれたと言うべきか。

 当初、早は抵抗したが、普段から改めろという話ではなく、必要な時に使えということだったので、おとなしく教わることにした。おそらく必要になるだろう、そんな予感も抱いたゆえに。

 無償で教えてくれた隠に感謝はすれど、どうにも早は呆れてしまった。あれは軍師というより、根っからの教師だ、と。よくもまあ、あれだけ根気よく教えられるものだと、感心を通り越して恐れ入った。

「何って言われても、読書だけど」

 問われた囁は、早のほうを向かず、簡潔に事象だけを述べた。そんなことは早もわかっている。そして、読書というのは敵の目前でするべきものでないことも。

 囁は崖に背を預け、袖無套マントはきちんと着ているものの、頭巾フードは被らず、目は開かれた本に長らく据えられっ放しだった。その手にある本は、海外の小説を和語に訳したもので、囁はすっかり夢中になっていた。

 囁は早の表情を見なかったが、不満の気配を察して、すぐに補足を加えた。

「きみを倒せとは言われてないんだよ。、ってさ」

 行の指示を受け、囁はここに来た。無論ながら行は、副将である睦との間で取り決めたことを破るつもりはない。早を排除すること、それは任せていない。

 加えて言えば、睦は何もかも見当違いであったわけではない。死処しどころの姫は、改にとっては負けようのない相手だが、囁にとっては、勝てる保証のない相手だ。人ならざる兵器であることを、純なる誇りとする者たち、それがすでに尋常を外れた強さであり、それこそ天栲湍でもなければ、刃を向けることは愚かなのだ。

 ページをひとつめくってから、囁は補足を続けた。

「場所がきみの前だってだけで、言ってみれば待機だね。どうせ飽きるだろうからって、本を持たせてくれたんだよ。僕、あっちゃんほど信用ないみたいで。きみは? 僕を倒さなきゃいけないの?」

 答えてやる義理はない。言うべきでもない。しかし早は、を優先した。

「ここを通ろうとする者を排除しろ、そう言われている」

「僕に通る気はないからさ、お互い、命令違反はよくないんじゃない? 今いいところだから、ちょっと集中させてよ」

 言うなり、囁は本に食い入る。油断というよりは、これは別千千行への信頼なのだろうと、早は思い直した。本を持たせたのだから、それを読んでいても問題ないと、そう解釈しているのだ。

 このように心が奪われもするだろう、と、早はわかっている。あれだけの名作には、なかなか出会えるものではない。だとしても納得がいかない。いっこうにこっちを向かない囁に対して、早は鋭く言った。

「犯人は娘の父親だ」

「ん?」

 早は、物語の中で起きた事件の犯人を知っているし、物語の本当の焦点がそこにないこともまた、よく理解している。

「娘は最後、恋人になった靴屋の息子とふたり、海に身を投げる。時計屋の息子と結ばれそうに思えるだろう? そうはならない」

 今、囁が夢中になって読んでいる小説を、早は読んだことがある。潤を偽の依頼でおびき寄せた時に読んでいたものだ。潤を倒しきることはできなかったが、療養に追い込んだことで先方は満足し、報酬とは別に、厚意で譲ってもらっていた。早はもう三度も読んだし、現在は四度目の途中だ。

「年長者として注意するけど、読んでる人に結末をばらすの、行儀が悪いよ」

 囁も若輩には違いないが、早はよわい十二で、背丈せたけも年相応に低い。なめてかかるつもりはなくとも、目線がはっきり下に向くとなれば、年齢差は意識してしまう。

 囁は本を閉じた。でまかせとも思えない。実際、娘は時計屋の息子とくっつくものとばかり思っていたからだ。まさか靴屋の息子を選ぶとは。囁としては犯人は誰でもいい、しかし三角関係のゆくえは知りたくなかった。気が削がれ、ちっとも残らない。

阿呆あほう。敵の作戦を妨害するのも、いくさのうちだろう」

 ここに居続けるべくして本を預かったというのなら、読書は怠慢ではなく、立派な作戦の遂行だ。それを名分として早は言ったが、他ならぬ囁を相手に、つまらない言い草を押し通す気にはならなかった。

「もっとも、妨害をしろという指示は受けていない。あくまで、わぬの個人的な行動だ」

 ここには哭日女囁があてがわれるだろう、隠はそう予見していた。戦場にあるひとつの駒として山道に留まっていた早だが、個人の心情としては、囁が来るのを待っていたと、そう表すほうが適切だった。

 難敵であることは間違いない。命の奪い合いになるかもしれず、必ず勝てると思える相手ではない。それを重々承知でなお、早のうちでは、囁と会えることを楽しみに思う気持ちばかりがあった。その高鳴りをこうも台無しにされては、文句のひとつもつけたくなるし、だから早は言った。

「およそだというのに、そうもつれなくされては、嫌がらせのひとつもしたくなる」

 再会。

 耳に入った不慣れな単語に、囁はわずか、まぶたを上げ、静かに驚いた。

 かつて会ったことがある、そういうことになる。

 ふさわしい反応を何ら返せない自分、正しい返事を見出しようのない自分、心の奥処おくかに湧いた自らへの苛立ちは、胸裏に沈めたまま、囁は一片ひとひらも浮かべずにおいた。うまくできたと、そう思った。上出来で、もし見破れるとしたら、それは唯一、改だけだろう。囁が本当に感情を隠す時、行であってもそれは見抜けない。

「六年前、ね」

 答えあぐみ、ひとつずつ探るようにしながら、囁は言葉を継いでいった。

「僕は、よわい十と七ヶ月、たぶん、ね。会ったことあるのかもしれないけど、ごめん、覚えてないや」

 早は別段、気分を乱すところなく、「仕方あるまい」と、短く言い、すぐに引き下がった。深く責めることはできない。

「あの時のわぬは、ただのわらしであったし、たった三日間のこと」

 六年前ともなれば、早はよわい六だ。囁からすれば、気まぐれで少しの間だけ遊び相手になってやった童女、印象に残るものではないだろう、早はそう思った。

 囁は首を横に振った。再会を祝えなかったのは、早が軽んじられたゆえではないからだ。

「そうじゃなくてさ。僕、よわい十一より前のこと、んだよ。それ本当に僕だった?」

 気づいた時、囁はよわい十一だった。おそらくは。実のところ、自分が今、本当によわい十六であるかも定かではないのだ。年と日付が書かれた首飾りをしていたので、それを誕生日とみなしただけ。

「お前かどうかだと? 鉄砲の弾をに飛ばせる者が、他にいるのか?」

 見せてもらったのだ。咎言の力を。銃弾をまっすぐ後ろに撃つところを。だから早は、憧れたのだ。

「他にもいるかもよ。ちゃんと哭日女囁って名乗った?」

 おそらく、真偽を振り分けるための問いだ、早はそう判断する。見え見えの引っかけとして映る。事情はわからないが、正答は知っている。忘れようがない。

「いいや。。その女は、哭日女なきひるめさやと名乗った。乱のさや、とな」

「じゃあそれ、きっと僕だね」

 囁は納得した。六年前なら、哭日女囁はこの世のどこにもいない。名乗るならさやのほうだろう。

「名前を改めたのか? それとも、わぬに偽名を名乗ったのか?」

 どちらもよくある話で、早に責めるつもりはないが、興味はあった。

「前者が近いね。ってのが、言わばなんだよ。こうして仕事をするうえで使ってる名前でさ。列椿の国の戸籍には、ちゃんと〈哭日女さや〉って載ってるよ」

 囁は本名を捨てていない。捨てたのは、乱のさやという通称だ。

「これ余談。僕は普段、って呼ばれてるんだけど、それ、〈ささや〉の〈さ〉じゃなくて、〈さや〉の〈さ〉なんだよね」

 戦勝請負はもちろんのこと、潤も知っている。何かに署名する折にはさやと書くし、努めて隠すことでもない。

わぬにそれを話したということは、仕事上の名前ではなく、本名で呼んでもかまわないということか? やはり、違和感はある」

 ずっと、早のうちでは、哭日女さやとして記憶されてきた。今さら囁と言われても、どうにもしっくりこない。

「ま、同業者の馴れ合いってことで。いいよ。でも、乱のさやとだけは、もう呼ばないでくれる?」

 そう呼ばれても、囁は返事ができない。乱のさやは、もういない。

 囁は今はもう、よわい十一より前、なくした過去をあえて掘り起こそうとは思わない。しかし、どこで会ったのか、場所は気になった。に繋がるのかもしれない。

「ね、馴れ合いついでに教えてよ。僕に残ってる一番古い記憶は、ここからずっと東の、大陸の東岸の町でのことなんだけど、僕と会ったのもやっぱりその辺?」

 馴れ合いとして本名で呼ぶことを許されて、早から厚意を返さないでは筋が通らない。幸い、今回のいくさに関わる話ではない、そう判じて、早は口を開いた。

「確かに東ではあるが、だ」

「もっと? その先、海しかないけど」

 囁には、早が言ったことの意味が掴めない。忘れているから。

「正確に言えば、北東だ。んだ。はるか北のさらに北、そして、はるか東のさらに東、そこに、がある」




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