二七 再会
「
もっとも重要な地点とは言えない、それは早も承知だが、ここは疑いなく戦場。この山道を制することが、一軍の命運を左右しかねない、それは間違いない。
であれば、早はきちんと
服の内側にあるのは、身を守るための最小限の金属板と、多種多様な仕事道具。現地調達が
早の刀は、山中に隠してあった。持てば重いのもあるが、何より、服の内側には入らないからだ。武器というのは奪われかねない物で、わざわざ見せびらかす必要はないと
もはや呆れ混じりに、早は正面に目を据える。やたらと目立つ
仕事のつもりで来ておいて、敵を目の前にして、これはいったい何ごとなのか。あろうことか、咎持ちである早を至近に置きながら、油断にも等しいことをしている。何のつもりだと、問いただしたくもなる。
「なれ? ねを?」
里を離れてから、幾度も繰り返し見てきた反応が、ここでも返ってきた。早の国言葉では、意思疎通がままならないのだ。折衝や契約は里の他の者に任せていたので、これまで別段大きな支障はなかったが、今回ばかりは、早はそれで良しとできなかった。
「お前はさっきからいったい何をしているんだと、そう聞いた」
つい先月まで、早は確かに国言葉でしか喋れなかった。覚えていて損はないからと、隠が標準の発音を教えてきたのだ。厳密に言えば、忘れていたものを思い出す手助けをしてくれたと言うべきか。
当初、早は抵抗したが、普段から改めろという話ではなく、必要な時に使えということだったので、おとなしく教わることにした。おそらく必要になるだろう、そんな予感も抱いたゆえに。
無償で教えてくれた隠に感謝はすれど、どうにも早は呆れてしまった。あれは軍師というより、根っからの教師だ、と。よくもまあ、あれだけ根気よく教えられるものだと、感心を通り越して恐れ入った。
「何って言われても、読書だけど」
問われた囁は、早のほうを向かず、簡潔に事象だけを述べた。そんなことは早もわかっている。そして、読書というのは敵の目前でするべきものでないことも。
囁は崖に背を預け、
囁は早の表情を見なかったが、不満の気配を察して、すぐに補足を加えた。
「きみを倒せとは言われてないんだよ。ここにいろ、ってさ」
行の指示を受け、囁はここに来た。無論ながら行は、副将である睦との間で取り決めたことを破るつもりはない。早を排除すること、それは任せていない。
加えて言えば、睦は何もかも見当違いであったわけではない。
「場所がきみの前だってだけで、言ってみれば待機だね。どうせ飽きるだろうからって、本を持たせてくれたんだよ。僕、あっちゃんほど信用ないみたいで。きみは? 僕を倒さなきゃいけないの?」
答えてやる義理はない。言うべきでもない。しかし早は、同業者の馴れ合いを優先した。
「ここを通ろうとする者を排除しろ、そう言われている」
「僕に通る気はないからさ、お互い、命令違反はよくないんじゃない? 今いいところだから、ちょっと集中させてよ」
言うなり、囁は本に食い入る。油断というよりは、これは別千千行への信頼なのだろうと、早は思い直した。本を持たせたのだから、それを読んでいても問題ないと、そう解釈しているのだ。
このように心が奪われもするだろう、と、早はわかっている。あれだけの名作には、なかなか出会えるものではない。だとしても納得がいかない。いっこうにこっちを向かない囁に対して、早は鋭く言った。
「犯人は娘の父親だ」
「ん?」
早は、物語の中で起きた事件の犯人を知っているし、物語の本当の焦点がそこにないこともまた、よく理解している。
「娘は最後、恋人になった靴屋の息子とふたり、海に身を投げる。時計屋の息子と結ばれそうに思えるだろう? そうはならない」
今、囁が夢中になって読んでいる小説を、早は読んだことがある。潤を偽の依頼でおびき寄せた時に読んでいたものだ。潤を倒しきることはできなかったが、療養に追い込んだことで先方は満足し、報酬とは別に、厚意で譲ってもらっていた。早はもう三度も読んだし、現在は四度目の途中だ。
「年長者として注意するけど、読んでる人に結末をばらすの、行儀が悪いよ」
囁も若輩には違いないが、早は
囁は本を閉じた。でまかせとも思えない。実際、娘は時計屋の息子とくっつくものとばかり思っていたからだ。まさか靴屋の息子を選ぶとは。囁としては犯人は誰でもいい、しかし三角関係のゆくえは知りたくなかった。気が削がれ、ちっとも残らない。
「
ここに居続けるべくして本を預かったというのなら、読書は怠慢ではなく、立派な作戦の遂行だ。それを名分として早は言ったが、他ならぬ囁を相手に、つまらない言い草を押し通す気にはならなかった。
「もっとも、妨害をしろという指示は受けていない。あくまで、
ここには哭日女囁があてがわれるだろう、隠はそう予見していた。戦場にあるひとつの駒として山道に留まっていた早だが、個人の心情としては、囁が来るのを待っていたと、そう表すほうが適切だった。
難敵であることは間違いない。命の奪い合いになるかもしれず、必ず勝てると思える相手ではない。それを重々承知でなお、早のうちでは、囁と会えることを楽しみに思う気持ちばかりがあった。その高鳴りをこうも台無しにされては、文句のひとつもつけたくなるし、だから早は言った。
「およそ六年ぶりの再会だというのに、そうもつれなくされては、嫌がらせのひとつもしたくなる」
再会。
耳に入った不慣れな単語に、囁はわずか、まぶたを上げ、静かに驚いた。
かつて会ったことがある、そういうことになる。
ふさわしい反応を何ら返せない自分、正しい返事を見出しようのない自分、心の
「六年前、ね」
答えあぐみ、ひとつずつ探るようにしながら、囁は言葉を継いでいった。
「僕は、
早は別段、気分を乱すところなく、「仕方あるまい」と、短く言い、すぐに引き下がった。深く責めることはできない。
「あの時の
六年前ともなれば、早は
囁は首を横に振った。再会を祝えなかったのは、早が軽んじられたゆえではないからだ。
「そうじゃなくてさ。僕、
気づいた時、囁は
「お前かどうかだと? 鉄砲の弾を後ろに飛ばせる者が、他にいるのか?」
見せてもらったのだ。咎言の力を。銃弾をまっすぐ後ろに撃つところを。だから早は、憧れたのだ。
「他にもいるかもよ。ちゃんと哭日女囁って名乗った?」
おそらく、真偽を振り分けるための問いだ、早はそう判断する。見え見えの引っかけとして映る。事情はわからないが、正答は知っている。忘れようがない。
「いいや。名乗らなかった。その女は、
「じゃあそれ、きっと僕だね」
囁は納得した。六年前なら、哭日女囁はこの世のどこにもいない。名乗るなら
「名前を改めたのか? それとも、
どちらもよくある話で、早に責めるつもりはないが、興味はあった。
「前者が近いね。囁ってのが、言わば偽名なんだよ。こうして仕事をするうえで使ってる名前でさ。列椿の国の戸籍には、ちゃんと〈哭日女
囁は本名を捨てていない。捨てたのは、乱の
「これ余談。僕は普段、さっちゃんって呼ばれてるんだけど、それ、〈ささや〉の〈さ〉じゃなくて、〈さや〉の〈さ〉なんだよね」
戦勝請負はもちろんのこと、潤も知っている。何かに署名する折には
「
ずっと、早のうちでは、哭日女
「ま、同業者の馴れ合いってことで。いいよ。でも、乱の
そう呼ばれても、囁は返事ができない。乱の
囁は今はもう、
「ね、馴れ合いついでに教えてよ。僕に残ってる一番古い記憶は、ここからずっと東の、大陸の東岸の町でのことなんだけど、僕と会ったのもやっぱりその辺?」
馴れ合いとして本名で呼ぶことを許されて、早から厚意を返さないでは筋が通らない。幸い、今回の
「確かに東ではあるが、もっと東だ」
「もっと? その先、海しかないけど」
囁には、早が言ったことの意味が掴めない。忘れているから。
「正確に言えば、北東だ。あるんだ。はるか北のさらに北、そして、はるか東のさらに東、そこに、ひとつの島国がある」
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