二六 痛苦
とうに死体になっているほどの傷を負おうと、改は痛苦を明確に感じる。鈍らない意識、途切れない感覚で。たとえ全身の血が根こそぎ抜け落ちたとしても、頭と胴体が繋がっていなかったとしても、感じるのだ、痛いと、考えられるのだ、苦しいと。
この世に、
ここにいる。
咎言というのは律儀だ、そんな所感を改は覚える。矢が五十余、人が百足らず、たったそれだけで、心臓にまで手を出そうとはしない。一振りで多くを壊せば壊すほど、
羽撃ちが全軍をここにあてたのは、おそらく、自分がここに来ると見越してのことだろう、改はそうも考える。一一〇〇〇、さすがにそれだけの兵を一振りで屠ったことはない。やろうと思えばできるが、その後に改自身がどうなるか、考えたくもない。少なくとも、ちょっとした逃避行で気が晴れるものではないだろう、それが明白なら十分過ぎた。
元来、天栲湍の姓を持つ者が、戦うことに脅え、戦場から逃げるなど、あり得ない。それを成し遂げてみせた天というものを、改としては、称えてやってもいいと思う。負けは負け、それを認めないならば、それこそ武門の恥。
咎言は律儀であり、他方、人を苦しめることにひどく忠実で、また純粋だ。よく心得ている。もっとも嫌なところを的確に突いてくる。
――例えば、潤。
同じ時を過ごしたことで、改は気づいた。潤さえも、おそらくは気づいていないであろうことに。
――潤は、なぜ
寒いからか? 違う。
そこに誰もいないからだ。
潤は死ぬことを恐れているわけではない。商売柄、覚悟はしている。真に恐れているのは、世界の裏側に取り残されることだ。
世界の裏側は他のどこより孤独な場所で、そこで果てれば、誰かに葬ってもらうことさえ望めなくなる。氷漬けになり、永遠にひとりきりで残される。物心つく頃には、もう潤は六葉帝を殺していた。ずっと忌み嫌われてきた。孤独だった。
天は、孤独しか知らずに生きてきた潤に、さらなる孤独を与えようというのだ。
潤による六葉帝の暗殺、それは咎持ちとしてではなく、ただの
咎言はためらわない。不確定な、未来のことを見越してまで、もっとも効果的なやり方を選択する。これから孤独に陥るであろうと思えば、迷わずそうする。
先日、山登りなどしてしまったからなのか、ふたりで
改のうちで、考えが巡り続ける。
気休めとして。
血液のほとんどはこぼれて落ちた。体を斜めに抉られ、無事な臓器のほうが少なく、無論、呼吸もできていない。すでにして、生きている人間が感じるはずのない痛苦がここにある。鋭敏なままに保たれた意識を、十全な痛覚が圧倒的な暴威で
死ねない。
痛みから逃れることができない。
痛苦が満ちて
――生き地獄と言うのでは、なまぬるい。
文字通りに、意味通りに、死んだほうがましなのだ。本来、生きて味わえるものではない。死ぬはずの傷を、死ぬことを超えた傷を感じている。明白な帰結を導く。これは、死ぬことよりも痛い、と。
気休めが巡る。
――奥の手に
咎持ちに与えられる、咎言の裏、そこには姓から一字が取られる。神幡姫潤なら、
生まれた時、改の姓は
改に咎を負わせた何かは、改が生まれた家の姓ではなく、咎を負った当時、たった
――すでにして、天栲湍の家からすれば、私はいい
改はそう強く思えばこそ、
――私に言えたことではない。
改はそう承知で、それでも振り切ることができないでいる。振り切りたくない。持っていたい。どんなものであれ、それが夫との繋がりであるならば、何ひとつ捨て置きたくない。
馬鹿みたいな、ずいぶんと手前勝手な感傷だと、改は自分に呆れる。
――夫の死を何もかも無意味にしたのは、私なのに。
――あの人は自ら、自分の意志で、
――天栲湍を継ぐ者として、誉れを求めたゆえに。
――一門を、家族を、私を、守ろうと思ったゆえに。
守り抜いた。一門は誰も欠けることなく帰ってきた。唯一、改の夫を除いて。後日、その勇猛ぶりを称えて、敵軍は討ち取った夫の
――一門が無事に帰ってきて、あの人だけがそこにはいなくて、私は何をした?
――夫ひとりを犠牲にして、見殺しにして、おめおめと逃げ帰ってきたと、馬鹿な誤解をした。自分の命と替えて、夫が守った命、生き延びた者たちを全員、武門の恥として――
――突き殺した。
――妻である自分が。
どこか、救われるところがないでもなかった。だから、余計に恥知らずなのだ。
――あの人を心から慕っていなければ、咎になり得なかった。そして、逆から見てもそうであるからこそ、私がそれを理解していたからこそ、咎を負った。
改が生まれてから
改は知っている。
夫にとって、自分は大切な許嫁であり、婚儀を待ち遠しく思うほどの相手だったと。そして、亡くなった当時、たった
でなければ、咎にはならない。
誰より愛しい人が守った命を、誰よりも愛されていた改が奪ったからこそ、咎になる。
――笑え。
――天栲湍の嫁が、あの人の妻が、胸と腹を割かれたくらいで痛がるのか? 誉れは目の前にあるのに、矛を振るうことをやめるのか?
そして改は、本当に笑った。
こうしている間にも傷は治るが、全治には遠い。第二波の兵が迫れば、傷を重ねざるを得ない。痛いだろう、苦しいだろう。よく知っている。かつては逃げた。矛の一振りで軍勢を丸ごと
馬鹿馬鹿しい逃避だった。今さら捨てられないのだ。大切なもの、何もかも。そして、もう失いたくない。
亡くなった夫の代わりになる誰かは、この世のどこにもいない。
大切な仲間たちの代わりになる誰かも、また、どこにもいない。
改は知っている。
改が何ものであるか、それを、行が信じていることを。改が天栲湍を名乗ることの重みと意義を知り、改のうちで
改は感謝している。一度は逃げたのに、こうして痛みにまみれることを承知で、それでも任せてくれた。仲間を傷つけてしまうことを厭わない勇気で。
改も、囁も沈も、残酷な仕事を行に預けている。
大切な仲間が傷つくと知る命令を出させている。
改たちもまた、信じている。
それでも行は、小さな
四人組、その誰もが信じている。勝つことを。
戦勝請負が戦勝請負であることを。
痛みはなおもあふれかえるが、次第に傷は治ってきている。改は無様に、半ば嘔吐のようにして、喉にたまっていた血を吐いた。機能の戻りきらない体で、どうにか言葉を絞り出す。切れ切れの声で、意志を形にする。
「私は、天栲湍、改」
改は必死に声を出した。続けた。
そして、笑った。
「ゆっちにやれと、言われれば、やる。それが、戦勝請負」
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