第五幕 鬼神の戦
二五 最強
「嘘でしょう?」
愛馬に跨がったまま、
そも、改の視力は悪くない。どう考えても邪魔になる、そう思い、改は眼鏡を外して、そのまま放り捨てた。南北どちらにも山を望む広大な
改が眼鏡をかけているのは、単に見た目の問題なのだ。子供の頃、弓で遠くの
改は、
加えて、もうひとつの指示がある。曰く――
――あっちゃんより先へ進もうとする者、誰ひとり通すな。
「誰ひとりって、本当に誰ひとり?」
少々の起伏がある程度の、だだっ広い
改が愕然とするのを鋭く感じ取って、愛馬、
瑠璃竹で戦場を駆けるようになって、もう二年。改が戦勝請負を離れていた一時期、逃げた先で出会ったのが、この
瑠璃竹は、この地方原産の馬ではなく、北方で競技用として育てられている品種だという。母が三冠馬で父が五冠馬と、そのようなことも聞いたが、どれだけの偉業であるのか、改にはどうともわからない。関係ない。瑠璃竹は並ぶもののない名馬だと、改は誰よりも理解している。それでいい。
瑠璃竹は、この地方の馬よりも、ひと回り体格が大きい。跨がっていれば、視点が高くなり、辺りをよく見渡せる。改が疑いたいものがそこにある。今や疑いようもなく、はっきりと瞳で捉えられる。数多くの戦旗と、そこにある国の紋。軍馬や
そこにある。
羽撃ちの、おそらくは全軍。総数一一〇〇〇。
つまり、こういうことなのだ。
――羽撃ちの全軍を、誰ひとり、改より先に進ませるな。
味方ではなかったのか。裏切ったのか。裏切ったとして、離反したのは羽撃ちの軍か、それとも戦勝請負のほうなのか。指示書には何も書かれていない。ならば、知る必要はないということだ。改は結論づけて、疑問を捨てた。敵味方を気にしていられるほど、簡単な仕事ではない。
「わかっていたことでは、あるのだけれど」
そう、わかっていた。無茶な注文であるだろう、とは。改に宛てた指示書の末尾に書かれていたのだ。〈奥の手を許可する〉と。咎言は行の許可なしには言えない。奥の手も同じくだ。使えということだ。表の矛ではなく、裏の矛を。
改は息をひとつ吐き、寸時、目をつぶり、観念する。
――自分の姓は何であるか、それを思い出せ。
「覚悟など、
厭うべきは、武門の名折れのみ。恥知らずにも今の姓を名乗ることをやめないならば、求めるべきは、武人としての誉れ、それだけ。戦え。望め。武功に勝るものなど、何ひとつないのだから。戦え。それが天栲湍だ。
「天栲湍改は、いかなる指示であっても、必ず遂行する」
羽撃ちの軍勢の
改はそれをもって、羽撃ちの軍は先に進もうとしているのだと、そう判断した。ここを通るため、邪魔になる改を撃破しようとしているのだと。
今や改は、薄く微笑んでさえいた。
切り替わっていたからだ。
――これ以上の誉れは、そう手にできるものではない。
それが、天栲湍の正しい姿だからだ。
――一対一一〇〇〇、他に誰がこの戦いを手にできるのか。
誉れを望め。武功を求めろ。それは目の前にある。
ためらいの余地などない。これを手にせずして何とするのか。それだけを考えた。
改は言った。もうひとつのことばを。
「
その問いの答えを。
ゆえに、兵を二手に分けなかった。改がたった一騎で来ると見越しながら、ここに全軍をぶつけた。隠は今も、全軍を擁してなお、案じている。自軍が全滅することを危惧している。
隠が知っている答え、その問いかけとは、つまり――
――最強とは誰か?
無論それは、一万を超える兵のことではない。
天栲湍改。
最強とは、天栲湍改のことだ。
二文字からなるその語は、ただひとり、改だけを意味するのだ。
だから行は、天幕の
行はもちろん知っている。
改が、死処の姫ごときに負けることなど、決してあり得ないと。
排除を頼めば、改は必ずそれを成し遂げる、しかしそれは、退路を確保することに過ぎない。
戦勝請負は勝たねばならない。
行は、最強の駒を羽撃ちの軍にぶつけることを選んだ。
咎言の適正に関わりなく、行は必ず、最も困難な任務は、囁ではなく改に割り振る。
信じている。
天栲湍改は、絶対にそれを完遂して帰ってくる、と。
改はすでに、裏の矛を握っている。否、その表現は正しくない。裏の矛は、改が自らの腕力で動かすものではない。咎言が矛を動かすのだ。なんとなれば、改の腕は、すぐに指一本動かせなくなると知れているからだ。矛さえそこにあるのならば、それは振るえるようになっている。たとえ改が粉々になろうと、それはなお最強のままにある。
改は咎言の力を通して、無造作にそれを振るった。
振るっただけだった。貫くことはおろか、何かに触れることさえしなかった。
裏の矛――
表の矛との、武器としての差は、およそ一点に集約される。射程が広がる。実際に突かなければ対象を破壊できなかったものが、触れなくてもよくなる。
改はもう振るった。
目前の
すなわち、改に向かって突撃してきた第一波の兵たち、その肉体、武具、ゆるい弧を描いて迫っていたはずの
――ない。
ぼんやりと煙のように立ち上る、誰かの血であったはずのもの。はらりと地に降る、誰かの骨であったはずのもの。
ならば、改が流す血のほうが、よほど多い。
改の胸から、その内奥から奔出した血は、すぐさま喉を駆け上り、腔内に満ちた。どうせ、もはや呼吸などできないと承知であるが、不快感ゆえに、改はその血を吐き捨てようとした。うまくできなかった。ただ、不格好に、無様に、唇の間から流れ落ちた。
衣服は一切、傷つかない。それは改ではないからだ。
体は傷つく。裏の矛を振るうほどに。それは改であるからだ。
奥の手を言って、
誤解するべきではない。
改たちに与えられたものは、力ではなく――
――咎だ。
こうして矛を手にして、人を
あふれる血は肌着の一枚では受けとめきれず、
裂かれている。
この時だけは、夏でも厚着でいることを、改は歓迎する。臓物をみっともなく撒き散らさずに済むゆえに。戦勝請負の他の面子のように、自分のことを乙女と言えない改にしても、女の恥じらいはある。
改の体は、右胸から左腿にかけて、深く
しかし、改は死なない。
死ねない。
天は許さない。
これが咎であるならばこそ。
改の持つ咎言、その裏、
求められているのは苦痛であり、傷ではない。
まるで、もう一度傷つけと、そう言うかのように。
死なないことに加え、改が失わないものがふたつある。
意識、そして――
――痛覚。
決して死なない、それだけだ。
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