第五幕 鬼神の戦

二五 最強



「嘘でしょう?」

 愛馬に跨がったまま、あらたは思わず漏らした。その淡緑うすみどりの瞳に映るものが、見間違いか幻か、そういうものであって欲しかった。眼鏡をかけていては言い訳できない。

 そも、改の視力は悪くない。どう考えても邪魔になる、そう思い、改は眼鏡を外して、そのまま放り捨てた。南北どちらにも山を望む広大な草原くさはらに、それはぽつんと転がった。裸眼となっても、景色はむしろ見やすくなるだけで、改が疑いたい光景はそこに在り続けている。

 改が眼鏡をかけているのは、単に見た目の問題なのだ。子供の頃、弓で遠くのまとを射る際、狙いをつける助けになるかと思い、試しに眼鏡をかけてみたら、たまたま許嫁いいなずけに見られて、と言われた。以来ずっと、目が悪いと言い張っている。結局、眼鏡は何の助けにもならなかったので、伊達だてであると容易に知れてしまうのを承知で、その枠にはずっと、ただの硝子ガラスがはめこまれ続けてきた。

 改は、ぎん鍍金めっきを施された胸当て、その裏に畳んで入れておいた指示書を取り出し、内容を再び確認した。そこには時間と場所の指定がある。その時刻を目安に、指定の地点まで後退していけという。非常に遅々とした行程で、馬を走らせれば程なくのところ、夜までかけて戻るというようなていだ。

 加えて、もうひとつの指示がある。曰く――

 ――あっちゃんより先へ進もうとする者、誰ひとり通すな。

「誰ひとりって、?」

 少々の起伏がある程度の、だだっ広い草原くさはらである。狭い道でも橋でもない。通行止めにするにはあまりにも適さない場所に立っているというのに。それはこちらに向かっている。改がここに着いた直後、わずかな丘の向こうから姿を見せた。

 改が愕然とするのを鋭く感じ取って、愛馬、瑠璃竹るりたけが短く鳴いた。わずか、我に返る心持ちを得るものの、そのぶんだけ、現実を認めざるを得ない。改は瑠璃竹の黒いたてがみを指でき、落ち着きを持とうと努めた。瑠璃竹は牝馬、つまりは雌で、相変わらずの美人だ。青さを帯びた黒の毛並みの奥には、しなやかな筋がある。

 瑠璃竹で戦場を駆けるようになって、もう二年。改が戦勝請負を離れていた一時期、逃げた先で出会ったのが、この駿馬しゅんめだ。瑠璃竹は改に力をくれた。もう一度、仲間とともに戦う勇気を。瑠璃竹とともに戻ってみれば、戦勝請負には沈が加わっていた。囁と行は、粘り強く沈の勧誘を続けながら、改が帰ってくるのを待っていた。

 瑠璃竹は、この地方原産の馬ではなく、北方で競技用として育てられている品種だという。母が三冠馬で父が五冠馬と、そのようなことも聞いたが、どれだけの偉業であるのか、改にはどうともわからない。関係ない。瑠璃竹は並ぶもののない名馬だと、改は誰よりも理解している。それでいい。

 瑠璃竹は、この地方の馬よりも、ひと回り体格が大きい。跨がっていれば、視点が高くなり、辺りをよく見渡せる。改が疑いたいものがそこにある。今や疑いようもなく、はっきりと瞳で捉えられる。数多くの戦旗と、そこにある国の紋。軍馬や爆弩はぜゆみ。そろいの甲冑かっちゅうを身にまとう兵たち。

 そこにある。

 羽撃ちの、おそらくは。総数

 つまり、こういうことなのだ。

 ――羽撃ちの全軍を、誰ひとり、改より先に進ませるな。

 味方ではなかったのか。裏切ったのか。裏切ったとして、離反したのは羽撃ちの軍か、それとも戦勝請負のほうなのか。指示書には何も書かれていない。ならば、知る必要はないということだ。改は結論づけて、疑問を捨てた。敵味方を気にしていられるほど、簡単な仕事ではない。

「わかっていたことでは、あるのだけれど」

 そう、わかっていた。無茶な注文であるだろう、とは。改に宛てた指示書の末尾に書かれていたのだ。〈〉と。咎言は行の許可なしには言えない。奥の手も同じくだ。使えということだ。表の矛ではなく、裏の矛を。

 改は息をひとつ吐き、寸時、目をつぶり、観念する。

 ――自分の姓は何であるか、それを思い出せ。

「覚悟など、天栲湍あめのたくたぎ改には、不要」

 厭うべきは、武門の名折れのみ。恥知らずにも今の姓を名乗ることをやめないならば、求めるべきは、武人としての誉れ、それだけ。戦え。望め。武功に勝るものなど、何ひとつないのだから。戦え。それが天栲湍だ。

「天栲湍改は、いかなる指示であっても、必ず遂行する」

 羽撃ちの軍勢のうちで、太鼓が派手に打ち鳴らされた。それを合図として、羽撃ちの軍の最前にいた槍兵の一群が駆ける。枯れた草を踏み荒らし、猛々しく吼えながら、雄々しさで四肢を震わせ、槍を突き出し、まっすぐに改に向かってくる。爆発音が鼓膜を裂かんばかりに連続して轟き、大型の爆弩はぜゆみから一斉に矢が放たれる。十や二十では済まない数の矢だ。控えめに見積もっても五十はある。そのいずれも、間違いなく改を狙っている。

 改はそれをもって、羽撃ちの軍は先に進もうとしているのだと、そう判断した。ここを通るため、邪魔になる改を撃破しようとしているのだと。

 今や改は、薄く微笑んでさえいた。

 切り替わっていたからだ。

 ――これ以上の誉れは、そう手にできるものではない。

 それが、天栲湍の正しい姿だからだ。

 ――一対一一〇〇〇、他に誰がこの戦いを手にできるのか。

 誉れを。武功を。それは

 ためらいの余地などない。これを手にせずして何とするのか。それだけを考えた。

 改は。もうひとつのことばを。

瓊矛ぬほこ――天稲光あめのいなびかり

 かくは知っていた。

 その問いの答えを。

 ゆえに、兵を二手に分けなかった。改がたった一騎で来ると見越しながら、ここに全軍をぶつけた。隠は今も、全軍を擁してなお、案じている。

 隠が知っている答え、その問いかけとは、つまり――

 ――とは誰か?

 無論それは、一万を超える兵のことではない。八刀鹿やとかていではなく、また深葉槌みはづちさいでもない。軍神いくさがみとして名を馳せる別千千ことちぢゆくでもなく、まして秋大忌あきおおいみ隠でもない。幼子おさなごのうちに六葉帝ろくようていを殺した神幡姫かむはたひめうるでもなければ、陰手おんしゅの真髄を体現する禍祓まがばらえはやでもない。そして、かさとがである

 天栲湍改。

 最強とは、天栲湍改のことだ。

 二文字からなるその語は、ただひとり、改だけを意味するのだ。

 だから行は、天幕のうちでは何も言わなかった。肯定もしていない。あえて質問の形を選び、睦の意見をそのまま採用する形を取った。咎持ちふたりには、囁と改には、早の排除を任せない、と。

 行はもちろん知っている。

 改が、に負けることなど、決してあり得ないと。

 排除を頼めば、改は必ずそれを成し遂げる、しかしそれは、退路を確保することに過ぎない。退けばいくさに敗れる。ならば、もとより選択肢にない。

 

 行は、最強の駒を羽撃ちの軍にぶつけることを選んだ。

 咎言の適正に関わりなく、行は必ず、最も困難な任務は、囁ではなく改に割り振る。

 信じている。

 天栲湍改は、絶対にそれを完遂して帰ってくる、と。

 改はすでに、裏の矛を握っている。否、その表現は正しくない。裏の矛は、改が自らの腕力で動かすものではない。咎言が矛を動かすのだ。なんとなれば、改の腕は、すぐに指一本動かせなくなると知れているからだ。矛さえそこにあるのならば、それは振るえるようになっている。たとえ改が粉々になろうと、それはなお最強のままにある。

 改は咎言の力を通して、無造作にを振るった。

 振るっただけだった。貫くことはおろか、何かに触れることさえしなかった。

 裏の矛――天稲光あめのいなびかり、その形状は禍々しくあり、矛のていを成すかどうか、いかずちが互いを喰らい合うように列なると、強いて形容すればそうなる。彩光は雷光と言い換えたほうがふさわしい。振るわれて走る残光は、あたかもくうを裂くように伸びる。

 表の矛との、武器としての差は、およそ一点に集約される。射程が広がる。実際に突かなければ対象を破壊できなかったものが、

 改はもう振るった。

 目前のくうを薙いだ。

 すなわち、改に向かって突撃してきた第一波の兵たち、その肉体、武具、ゆるい弧を描いて迫っていたはずの爆弩はぜゆみの矢、そのいずれもが――

 ――ない。

 ぼんやりと煙のように立ち上る、誰かの血であったはずのもの。はらりと地に降る、誰かの骨であったはずのもの。塵芥ちりあくたであるものしか、もう、そこにはない。草原くさはらにわずかなごみが積もり、それもろともに枯れ草が薄く紅に染まる。何もかも、大半は消え去ってしまったうえでのこと、百近い人間の体を満たしていた血液としては、どう数えても少なすぎた。

 ならば、のほうが、よほど多い。

 改の胸から、その内奥から奔出した血は、すぐさま喉を駆け上り、腔内に満ちた。どうせ、もはや呼吸などできないと承知であるが、不快感ゆえに、改はその血を吐き捨てようとした。。ただ、不格好に、無様に、唇の間から流れ落ちた。

 衣服は一切、傷つかない。それは改ではないからだ。

 体は傷つく。裏の矛を振るうほどに。それは改であるからだ。

 奥の手を言って、天稲光あめのいなびかりを振るって、ただで済むわけがない。人に咎を与える天というものは、それを許さない。

 誤解するべきではない。

 改たちに与えられたものは、ではなく――

 ――だ。

 こうして矛を手にして、人をほふっていることのほうが、むしろ理不尽、不条理、なおさらに負う傷が深くなるのが

 あふれる血は肌着の一枚では受けとめきれず、鎖帷子くさりかたびらを汚し、まみれさせ、胴着にまで広く滲む。こぼれる。ぎん鍍金めっきの防具も紅く染め、なおもあふれる。くらあぶみを伝い、滴り、瑠璃竹の毛並みを絶え間なく滑り、地に達し、そこに血染めを広げていく。

 裂かれている。

 この時だけは、夏でも厚着でいることを、改は歓迎する。臓物をみっともなく撒き散らさずに済むゆえに。戦勝請負の他の面子のように、自分のことを乙女と言えない改にしても、女の恥じらいはある。を散らすだけならまだしも、内臓というものは普通、空っぽではないのだから。

 改の体は、右胸から左腿にかけて、深くえぐられ、広く切りひらかれている。肋骨を砕き、血管から形を奪い、肺を裂き、心臓をかすめ、横隔膜を両断し、肝臓、胃、腸、いずれも無惨な傷でしかないものに変え、その機能を止めさせ、血は際限なく溢流いつりゅうする。

 しかし、改は死なない。

 

 天は許さない。

 これが咎であるならばこそ。

 改の持つ咎言、その裏、天稲光あめのいなびかりは、ただひたすらにを求める。なれば死なない。決して死なせてはくれない。咎言によって負った傷では、改は絶対に死なない。たとえ心臓が潰されようとも。

 求められているのは苦痛であり、傷ではない。

 天稲光あめのいなびかりが改に負わせた傷は、尋常ではない速度で治り、いかなる深傷ふかでであっても、あらゆる致命傷も、完全に治癒する。

 まるで、と、そう言うかのように。

 死なないことに加え、改が失わないものがふたつある。

 意識、そして――

 ――

 決して死なない、それだけだ。

 天稲光あめのいなびかりは力ではない。咎であり、誅罰ちゅうばつなのだ。不死は救いではなく、許しでもない。天は、死ですらも安寧と見なしている。




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