二四 成駒
訂の
訂は
布を分け、副将である女性士官、
「訂将軍に報告! 列椿全軍、突撃の構えです!」
副将である
澄は色気に欲を出そうとせず、黒髪はもう二十余年、ずっとおかっぱに切りそろえてきたが、整った
「
訂からみて澄は、歳の離れた妹の末娘である。孫に近いほど年齢が離れているが、姪となる。澄の母が亡くなってから、訂が面倒を見ることが増えた。
「お断りします。将軍は将軍です」
眉ひとつ動かさず、澄はきっぱりと断った。訂が何度求めても、返事は決まっている。それでも、生きているうちにもう一度聞きたいと、訂はついつい頼んでしまう。
「やれ、強情なところも母親に似ている」
聡明さと負けん気にあふれ、文句なしの器量好し、多くのものを、澄は母から受け継いだ。
「想定よりだいぶ早いですが、最前線に矛の改、
それは
「早いな。
「
月垂りの軍は、隠の用意した策に乗った。するべきことは、指定の時刻まで、列椿の軍を食い止めておくことだった。撃破する必要はない。猛将、八刀鹿訂率いる八〇〇〇の兵は、時間稼ぎに徹する。
「澄よ、
「将軍の
澄にしてみれば自明のこと。即座に、簡潔に答えた。
「その儂の思うところ、これは将棋で言うなら詰みだ。
澄が軍に入る前から、ふたりは将棋で対局していた。最初は訂の八枚落ちで実力差を埋めていたが、今となっては澄のほうが
「詰みでしょう。将棋盤の上ならば。ですが――」
そう言って、澄は駒を手に取った。形勢不利な側の、一枚の
「――ここは戦場、
自慢の姪には何か
「兵を縦に並べ、それを左右
自軍の鉄砲は火打ち式の
「わざわざ道を空けてやると?」
「はい。しかし、その中央こそ至難の道。最前線には最低限の槍兵、次ぐ前方に鉄砲を集中させます。なれば、真ん中を無理に通ると、鉄砲のいい
無論、ここに至るまでに軍議は重ねられ、本来ならば採る策は定まっていたはずだった。今や、その全てが無駄になった。列椿の進軍開始、現時点で、完全に想定の
「その後の手も考えてあるな?」
時間は限られている。細部まで聞いている暇はなく、また、澄はすでに、軍を率いるに足る将だ。こうして確認していることさえ、余計なくらいなのだ。
「無論です」
説明は求められていないと判じて、澄は肯定の返事だけをした。
澄には自信があった。防具が足りずとも、自軍の兵に何ひとつ劣るところはない、と。列椿の軍がどう応じようと、やってやれないことはない。諸国連合の上品な兵隊とは違う。月垂りという枯れた地に育まれた荒武者たちの何たるかを思い知らせてくれる。
澄の意気を感じた訂は、この局面を預けることに決めた。
「良かろう。指示を出せ。なけなしの
実際の実力がどうあれ、鬼が認めたと言ったほうが兵は奮い立つ。それが権威というもの。訂は自分の名も含めて、澄に預けた。
貴重な
「委細承知」
名を借りるということは、澄がしくじれば訂の名声が損なわれるということである。それでも臆するところなく、ひとつ頷いてから、澄は足早に天幕を出た。
天幕の
「なかなかどうして。母親に言ってやりたいところだ。用兵については、あの姪はとうに鬼神、八刀鹿訂を超えておる、と」
駒を打ちながら、訂は妹のことを思い出す。皆が口をそろえる器量好し、気が強いのに、言い寄る男は絶えなかった。兄様より弱い男は好かないとずっと言っていたのに、恥ずかしがりながら、なよやかな男を連れてきた時は驚いた。結局、妹の
「
澄の用兵が誰かに劣るということではない。ごく単純に、耐えねばならない時間が長すぎる。数々の修羅場を制してきた鬼であればこそ察する。
「
結論から言えば、これは隠の失策だった。
隠はいったい何を見誤ったか。あろうことか、土台となる部分、策の根幹のところで過っていた。すなわち、隠は――
――乙気吹睦を将として数えなかった。
あってなきが如しとして扱った。実際はそうではなかった。睦は気丈に副将を務めた。睦に助けられたからこそ、行は圧倒的な速度で状況を解し、決断し、行動に移すことができていた。
人の動かしかたで争うと言うならば、睦は行を動かしたのだ。その行が、隠の策にとっては致命的な早さをもって、列椿の全軍を動かした。
これでは
――もし、今ここに、人間しかいないのならば。
「詰みを
盤面を睨みながら、訂は決心をする。
「母親に文句を言わねばならんな。あの姪は、将棋という冷厳なものに、あれやこれやと、思いつきで決めごとを足してしまいおって、まったく血が沸かなくなったぞ、と。指していて、楽しくて仕方がない」
本来の規則に則って澄と対局することは、今や珍しい。澄の発案で加えられた独自の
澄の
「ここは月垂りの領内、ならば、列椿の連中にも、儂の自慢の姪が考えた遊び方に従ってもらうとしよう」
無論、戦勝請負に伏兵は通用しない。無論、澄の追加した
澄は、成れない何かとは別に、成れる何かについても考えた。
「儂らのやり方ではな、
成り駒、敵陣に切り込んだ駒は変貌できる。駒を裏返すことを選べる。裏を向ければ、
古来の将棋の中に、その答えはない。澄が発案し、何も書かれていなかった
訂は王将の駒を手に取り、前に進めた。裏返したうえで。
敵陣に切り込み、王将は成ったのだ。
「三三、王
訂は、そこに刻まれている二文字を読み上げた。
「――鬼神」
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