二三 退路
金の指輪は天幕の陰りの中でも優美を失うことはなく、素材としては安物でも、加工品としては十二分に手を尽くしたものだとうかがえる。
「
侵攻目標である月垂りの国のことを、
「羽撃ちでは
おそらくは、
羽撃ちの国と月垂りの国は以前から水面下で交渉をしていたのだ。月垂りの国は港を支配し、自国の利益や安全のために、様々な規制をしている。交渉は難航していたはずで、
周辺諸国に交易を隠しておきたかったとするなら、単純に外貨を求めたのではない。大量の
「月垂りの港から出港、船に満載した
列椿と羽撃ちの両国が、なぜ危険を冒してまで、半ば焦るようにして港を奪い合っているのか、それもまた、行には見当がつく。
「そして、二度目はないんだよ。順番争いでもある。船一杯の
行の指で輝く指輪を見て、ふと、
「その指輪は、羽撃ちの裏切りを、それとなくゆっちに知らせるため、ということなのでしょうか?」
「まさか。絶対ない」
すぐに返ってきた否定。断言。その確信の様子を見て、沈には絆の形状が見えた気がする。確かに、お互いを守り合うような関係ではないのだろう。けれど、ここには絶大な信頼がある。
「あたしは、そんなぬるいことを教えた覚えはないよ」
手を抜かない。迷わない。互いが相手でも全力で騙し討つ。それが行と隠の絆なのだ。互いが互いを、最高の戦術家のひとりだと信じているから。ふたりにとっては、騙し討たないことこそが、互いに認め合う気持ちを裏切ることになるのだ。
「この指輪は最終確認だったんだ」
行は左手の中指にある金の指輪をなでた。ここにはめるようになって日は浅いのに、なじんだ感覚がすでにあって、行にはもう、外そうと思えなかった。
「あたしが
隠の真意がどうあれ、状況として離反される恐れがあり、その理由もある。
「まだ離反の確証は得ていませんが、一度、兵を
「退かない。そして、離反については、すぐに確定させる」
他ならぬ行自身が隠に叩き込んだ戦術、気づかれることはかまわないと思っているだろう、何よりもまず、敵の行動、その選択肢を削ぎにくる、行にはその確信がある。もし、行が選べる行動がひとつきりなら、隠は未来を予知できるのと同じ。有利になる。
「しずっち、ここ、誰かいるか、情報取って」
行はそう言いながら、地図上の一カ所を指で示した。山中を貫くように通る道で、ここに来るまでに越えてきた。
「えっ、わたくしの咎言の領域内ではありますが、戦場でない場所は何も取得できないのですが……それとも奥の手で?」
沈の咎言は、何もかもをいっぺんに知るものではない。取得したい情報を選ぶ必要がある。地点についても同じく選ぶ。
山中の道はここからかなり遠い。沈の咎言の力が及ぶ範囲ではあるが、沈としては、条件を満たすようには思えず、ならば取れない。戦場の情報しかわからない。
「普通のでいい。とにかくやって。無理なら無理でいい。いや、そのほうがいい」
沈は頷いた。行にやれと言われれば、やる。それが戦勝請負で、沈もその一員だ。
「
沈は咎言を発し、指定された場所に誰かいるかを探る。
探る、というよりは、やはり、取得すると表すほうが正しい。遠見をして確認しているわけではない。沈は咎言によって、全知から情報を読み取っているのだ。過去と未来、そして現在、その全てを知る何らかのもの。そこから、現在の、力の及ぶ範囲、戦場に関することだけを読み取れる。
「……ひとり、います」
沈は言う。取得できた。取れてしまった。その道は立派な戦場であるということ。そこにひとりしかいないのなら、その者は疑いなく、参戦している。
「
聞くや否や、行は鉛筆を手に取り、地図に×印を書いた。死処の姫が立つ、その位置に。
「睦将軍、わかるね?」
もはや羽撃ちの離反は確定として扱ってよかった。そこに死処の姫を配置して誰かが得をするとすれば、それは、羽撃ちの軍が寝返ることが大前提だった。そして、列椿の軍にとっては致命的な窮地となる。
「退路が……塞がれています」
羽撃ちの軍が敵である場合のみ、それが成立する。三方を囲まれ、列椿の軍は行き場をなくす。行は鉛筆で地図上の×印をとんとんと叩いた。続きを促されたものと解釈して、睦は見解を述べた。
「狭いです。
ここまで来る際、その狭い道を進路に選んだ。ひるがえせば、他に都合のいい道がなかった。そこを通れないなら山越えとなるが、なにせ大軍勢だ、厳しい。
「正しい。でも及第点はやれないね。裏側から考える癖をつけないと」
行は多くを言わなかった。睦は聡いし、どうやら会話のやりとり、その相性がいいらしいと感じていた。これで伝わる。睦を有望と見込んで副将に据えたわけだが、どうやら拾いもののようで、行の腹心の部下として最適だった。
「あ、」行の考え通りに、睦はすぐ気づいた。さらに窮地を深める事実に。「援軍を呼んだとしても……進路がありません」
本国と前線をつなぐ唯一の道が絶たれている。本国の側からも通れない。たとえ両側から死処の姫を囲んでも、兵は一〇〇にしかならない。相手にならないだろう。
「そう。あたしたちの退路のみならず、援軍の進路も存在しない。本国からの増援は期待できないね」
そして行は、あえて質問の形を選び、睦に意見を求めた。
「あたしたちには、戦闘に向いた咎持ちがふたりもいるね。死処の姫を排除できないかな?」
「無謀です。禍祓早は、神幡姫潤と同等に渡り合ったと聞きました。戦勝請負は組みでやっと神幡姫潤と同等なのです。個の力では劣る。囁殿か改殿、どちらかを向かわせても勝てません」
睦は怖じない。現実を直視せねばならない。戦勝請負を持ち上げている余裕はない。気迫さえこもった声音で、話を続けた。
「ふたりともを向かわせても、戦場を闇に落とされれば、狙いが定まらない。その時は同士討ちになる危険性があります。分のいい賭けとは思えません」
聞き終えて、行はひとつ頷いた。
「それじゃあ、ふたりには別な仕事を任せようか」
睦は地図に目を落とす。通り道にはならないが、南に広がる山は、陣取る場所としては悪くない。
「大軍での山越えは困難でしょうが、南下しますか? 山に籠もり、高所にいる有利を活かして耐えることはできます」
「あたしたちが山に籠もれば、死処の姫は移動する。半径一
行は
「どこに活路が……」
睦は再度、地図に目を落とす。行は頼もしささえ感じる。行に任せない。力足らずは自覚しているだろう、それでも、副将であることに全力を尽くそうとしている。その頼りがいに後押しされる形で、行は結論を出した。
「どこも何もないよ。単純だ。挟み撃ちを避けたければ、追いつかれちゃいけないんだ。前に進むしかない」
羽撃ちの軍が進んだぶんだけ、こちらも前に進む。それならば挟撃されない。単純にして至難の理屈。前方には八〇〇〇の兵、挟撃を成そうとして、時間稼ぎをしてくるだろう。
「睦、羽撃ちの離反の件は、絶対に漏らすな。うちの兵の誰ひとりにも
睦は黙したまま頷いた。事実、
「さっちゃんとあっちゃんに指示書を出すから、馬の用意を。睦にはすぐに、さっちゃんを運んでもらうから、ふたり乗れるようにしといて。しずっち、本国に飛ばすから、伝書鳩を一羽連れてきて。三番の鳩で」
沈もまた、何も言わずに頷いた。
「前線にいるふたりに指示書を届けたら、号令だ。笛を鳴らしてよ。全軍突撃、と。今をもって、作戦行動開始とする」
告げられ、睦も沈もすぐさま動き出し、天幕を出た。人手が足りないことは理解していた。他の兵に
天幕にひとり残った行は、墨汁の瓶と付け
「さあ、追いかけっこに乗ってやる。一番弟子は、先生に追いつきたいんだろう?」
筆記具は世にたくさんある。行が墨汁と付け
「
今、行はこうして喋っている。和語の発音を知っている。根気よく教えてくれたのは、たまたま会っただけの団子屋の
「Catch me if you can!!」
だから、今
「あえて乱暴に和語に訳すなら、『捕まえてみやがれ!!』だ!」
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