二二 弱点
「違う」
「足し算を間違えたんだ。八〇〇〇対二五〇〇〇じゃない」
前提が違った。勝ち目のないほうは向こうではなかった。
「一九〇〇〇対一四〇〇〇なんだよ」
足し算を間違える、
睦もまた、醒めた。
月垂りの軍、八〇〇〇。
そして、羽撃ちの軍、一一〇〇〇。
――両軍を合わせれば、一九〇〇〇になる。
すなわち、それは――
睦は、やはり枯れたような声で、行に問うた。
「まさか、羽撃ちの軍が裏切ると……?」
行は問いかけに答えず、思考の渦を裂いて走った雷撃を持て余すように、するめを積んでいた台を蹴り飛ばした。台は音を立てて転がり、天幕の布に阻まれて止まる。
怒りか、戦慄か、あるいは昂揚なのか、どうともわからないながら、行は吼えた。
「やってくれるじゃないか!
列椿の本陣から後方、後詰めとして配置されている羽撃ちの軍の本陣、赤みがかった布地の天幕を出てすぐの場所に、
隠は旅装束のみ、脇差しひとつという格好で、笠もかぶっていなかった。装束の左胸には金糸の刺繍で、
軍師たるものが、敵の矢の届く位置にいるようでは話にならない、その思いは隠の自負となり、
隠の背後、天幕の布が開かれ、女性士官が姿を見せた。
「師を裏切る気分とは、どういうものだ?」
隠のすぐ隣に立って、しかし漆黒の瞳は前方に向けたまま、裁は問いかけた。紫がかった長い銀髪が微風に揺れた。
「どういうもこういうも。正々堂々こそが無礼だ、って、そういう人ですから、騙し討たないほうが怒られますよ。敵と味方に分かれただけです」
「先生の唯一の弱点は、身内に甘いことです。いったん仲間だと思うと、無条件で信じる傾向があるんですよ。疑うことを忘れてしまうんです」
敵の弱点を知り、それを
「列椿総大将の老将軍が、なぜ先生にこの
軍議で同席してから、風呂に誘われるまでに、隠は行の不満をうまく聞き出していた。行は爺ちゃん将軍の手抜きと認識していて、何らの悪意も感じていなかった。
「あの老将軍は、最初からきな臭いと感じていたんです。それでも月垂りの国は欲しい。万一の時は敗戦の責任を先生に押しつけるつもりで、そして勝った時には英断たる人選をしたと誇るつもりで、全て任せたってわけです」
この戦乱の世、生き残ろうと思えば知略を駆使することもあろう。それ自体、そう非難できるものではない。しかし
「あの
同盟国でありながらも、列椿と羽撃ちは小競り合いを繰り返してきた。武力では圧しながら、老将軍、
ある意味では、
「それで、次はどうなる? そして何をする?」
指揮官は
「やだなぁ。策は全部書類にまとめて提出したのに、何も見ずに承認の印だけ押すんですもん」
決定権はあくまで指揮官にある、ゆえに隠は事前の承認を求めたのだが、裁は何ひとつ見定めないうちに全てを許可した。
「私はお前に任せたんだ。それとも、軍師というのは、素人に口を挟まれて嬉しいのか? そうなら考えを改めるが」
そうも言われてしまえば、隠は感服するしかない。万を超える兵を率いる指揮官が、戦術について、自らを素人と言うのである。それでいて誇りにあふれる顔を向ける。将器の見本のようだ。適材適所を知るということは、適していない場所に自分を置かないということでもある。こうも見事に実践されてはため息も出ない。
「いいえ。印だけでけっこうです。それにしても、敵方の指揮官の愛弟子を、よくもまあ、手放しで信じるものですね。内通してるかもしれないのに」
羽撃ちを裏切ろうなどとは露ほども思わないが、こうも評価されれば、隠は戸惑いを御しきれない。自分から減点したくなってしまう。
「人の仕事に口を挟むのは上品とは言えんな」
戦術は任せたとて、裁には裁の仕事がある。大将まで隠に任せたわけではない。
「疑われてやる気を出す部下など、私は知らん。私に必要なのは信じることと、万一、裏切り者が出たなら、それを斬り捨てることだ。好きにやれ。信頼に応えるか、さもなくば斬られるか、どちらかだ」
将は決して疑心を持たない。それが裁のやり方だった。疑いはいらない。必要なのは、信頼を貫くことと、信念のもとに太刀を振るうことだ。
「うーん、年上で気の強い
隠は苦笑とともに言った。裁は何も返さなかった。色じかけひとつで勝利が買えるなら安いが、それを望んで言ったのではないだろう。
「さて、列椿の軍が羽撃ちの離反に気づいた時点で、我々は全軍を前に進めます。先生は間違いなく気づきます。というより、気づいてもらわないと困るんですけどね」
最初から、裏切りに気づかれることを前提としている。大事なことは、気づかれないことではなく、いつ気づくか、予定通りの時間にものごとが進むか、隠の用意した策の
咎の数では勝負にならない。隠にしても、行に挑む気概であって、超越しているとは思えない。であれば、将と将の勝負に持ち込むべきなのだ。何をどうしようと、実際に戦うのは兵であり人だ。人の動かしかたで争えばいい。将同士の勝負をお膳立てするために策があり、予定時刻が鍵になる。
「離反に気づく、とは、何をもって判断する?」
裁は訊ねた。兵に命令を下すのは大将である裁の役目で、基準を把握しておく必要があった。
「偵察の報告を待ちます。すごくわかりやすいので、心配はいりません。我々の裏切りに気づけば、きっと先生は、月垂りの軍に対して突撃をかけます」
睦を選り抜きとして育てている列椿国軍の判断は、極めて正しい。
行の隣にいればこそ霞む。経験の乏しさは否めない。しかし元来、英傑の資質さえ持つ、優れた
だから、気づく。
改めた足し算、そこから得られた新たな兵力差、その数字以上に厳しいと。
布陣図を見た瞬間に察する。
勝ち目がないのは自軍だ。
「ここにとどまれば、
「ま、そういうことだね」
羽撃ちの軍を後詰めとして後方に配置してしまい、前方には月垂りの軍が構えている。羽撃ちが敵に寝返れば、挟み撃ちにされる。それだけならまだいい。味方と思っていた軍勢に背後を
睦は余計なことは言わなかったが、拳を強く痛いほどに握った。
――挟撃のひとつで壊滅の恐れが生じるのは、副将が乙気吹睦だからだ。
羽撃ちには、こちらの情報はつつぬけだった。指揮官の経験不足を知り、迷わずにそこを
睦はすぐに気を取り直し、拳から力を抜いた。自分の無力にうちひしがれていては、大将が副将に頼れないではないか。自分がここにいる意味が、本当になくなってしまうではないか。
「しかし、裏切る理由がありません」
睦は自分の見識が行に及ばないことを承知で、否定を投げかけた。行に必要なことだと思った。
臆するな、それはまず自分に言うべきなのだ。力不足を恐れるな。ためらうな。睦は自分に言い聞かせる。乙気吹睦より優秀は将はいくらでもいる。今ここに立つべき人間は。この
行がひとりで一刻ほども悩んでいたことが、ついさっき、睦と話してすぐに
「列椿に本気で弓を引けば、諸国連合からの脱退は避けられません。失うものが多すぎます。これは小競り合いでは済みません」
「それを上回る利益があるってこと。たぶん、これだよ」行は左手を挙げ、その甲を睦に見せた。その中指に、隠から贈られた指輪がはめられている。
「純金の安物だってさ」
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