第四幕 一番弟子

二一 裏側



「この睨み合い、いったいいつまで続くのかしら」

 一刻余、同じ場所から動いていない。背の低い枯れ草をぎん鍍金めっき鉄靴てっかで踏んだまま、あらたは一歩も進めずにいる。

 攻撃の指示がいっこうに出ない。しびれを切らすよりも先に、熱さで気が遠くなるのではないかと、改は半ば本気で心配になる。背後にひかえている兵たち、つまりは、そろいの甲冑をしっかり着込んでいる者たちが倒れるのが先だろうが。見事に晴天だ。

「いいんじゃないの。のんびりできて。ひなたぼっこだと思えばさ」

 ささやは気安く言うが、そう思えれば、の話だ。改は怒りさえ覚える。

 まだ矛は交えていないにせよ、すでにしてここは立派な戦場だ。改から目視できる距離に、敵方、総勢およそ八〇〇〇の兵が待ちかまえているのである。行を指揮官として列椿つらつばきの国軍およそ一四〇〇〇は歩を進め、侵攻目標である月垂つきしずりの国の領内に侵入していた。

 月垂りの軍は広大な平地まで兵を進めはしたが、無理に距離を詰めずに静観のていである。だが、いつ攻めてくるとも知れない。つまり、防具が脱げない。

「春も秋も冬も、それぞれにおもむきがあって好ましいのだけれど、夏だけは認めないわ、私。夏だけは」

 改の目つきが、眼鏡の奥で険を持っていた。今まさに、その夏が本格的に始まろうというところなのだ。

「でもほら、まだ空気が乾いてて過ごしやすいし」

 囁は言うが、慰めようとしているのか怒らせようとしているのか、改にはわからなかった。確かに今は乾期の終わり頃にあたり、湿気がないことは救いだ。であれど、今の囁にだけは言われたくない。

 改は最前線に出て矛を振るって戦うゆえに、逆に敵が振るってくる槍や刀への備えが必要になる。自慢の矛が扱いにくくなることは、他の何より嫌って、利き腕である右腕には袖がなく、また、肘当てや手甲てっこうもつけていないが、夏らしい装いなのはそこだけだ。

 ぎん鍍金めっきを施した合金の防具が、改の体の要所を守っている。胸当てに始まり、腰まわり、膝、左腕には肘当ても手甲もある。防具の下にはうぐいすの描かれた深緑ふかみどり道着どうぎを着ていて、裾は短くしてあるが、その下に仕込んだ鎖帷子くさりかたびら脚衣タイツの形で足首にまで及ぶ。金属を直に肌にあてるのは難があるため、さらに下を白の肌着で覆っている。首には丈夫な皮革を巻いてある。ひなたには違いないが、囁にはぼっこでも、改には半ば責め苦だ。暑い。

「何で私の矛からは、炎が出ないのかしらね」

 改はぼやいた。そろそろ現実逃避の領域だった。

 囁も前線に出るが、やろうと思えば、自分の周りを火柱で囲んでしまえる。その火柱は迫る槍や矢を焼き、銃弾も溶かす。激しい炎は上へ向く気流を生み出し、燃え散った矢や弾は上方じょうほうに逸れる。限りなく燃やし続けられるわけではないが、そうそう不自由もしない。金属製の防具をつければ、それは炎で熱され、囁は火傷を負ってしまう。必要なのは、防火性を重視して仕立てた真緋あけ袖無套マントだった。袖無套マントには頭巾フードがついていて、それを深く被れば頭部も守れるようになっている。

 すぐに着られるものなので、枯れた草原くさはらにすっかり座りこんでしまった囁の隣に、真緋あけ袖無套マントは放られたままになっていた。

 囁本人は、胸に巻いたさらしと、下穿きを覆っている紅葉色もみじいろの腰巻きしか着ていない。強いて言うなら、素足に草鞋わらじを履いている。改がそこに目を向けたとて、自身が履いているのは鉄靴てっかであるから、怒りをこらえるのが難しくなるだけだ。

 自分が真面目過ぎるのか、それとも囁がいい加減に過ぎるのか、改には後者に思えて仕方ない。とはいえ改だって、兜、あるいは鉢金はちがねはどうしても美意識に反するので、やはりぎん鍍金めっきを施した合金の弧髪飾りカチューシャを頭に飾り、それをもって代わりとしているので、人のことは言えない気もしてくる。いつもは左右に分ける老い緑の髪は、後ろでひとつの三つ編みにしていた。

「つまり、夏が悪いわ」

 改は強引に結論づけた。このままでは囁に怒りの矛先が向きそうだ。さすがにそれは、八つ当たりだとそしられる。囁は、一応は改をなだめようと思って立ち上がった。

「まあまあ、ゆっちは何か考えがあるんじゃないの」



 組み立てが容易ないくさ用の天幕の中で、ゆくを噛んでいた。眉根を寄せ、考えをせわしなく巡らせている。採光のために頭上にしつらえてある、薄絹の部分を通り抜ける光が、折りたたみのできる机に広げた布陣図を照らし、陰りの中に戦場のありようを浮かび上がらせる。行はそれを睨んだままでいる。

 天幕の白い布地は厚く、会話が外に漏れないようになっているが、枯れ草の上に敷いた茣蓙ござの上で足を崩しているしずは、どうとも話しかけられなかった。するめが減るのが早すぎるからだ。沈は原則として本営に留まるため、着ているのは白の上衣じょういあおい袴、足袋と草鞋わらじだ。

 台に山と積まれていたするめは、その半分が切り崩され、行の腹の中に納まった。するめは行にとってのおまじないだった。考えに詰まった時に噛むと頭が冴える、と、それ自体は嘘ではないが、あくまでも気休めとしてのものだ。

 沈が知る限り、これほど勢いよくするめが減ったことはない。いつも、悩んで食べるより、小腹が空いたから食べるというほうが多いくらいなのだ。これはいったいどういうことなのか。

「失礼します」

 入り口にあたる布を左右に広げて、むつが姿を現した。睦は正三位しょうさんみの位階を与えられたゆえに、必然、副将となっていた。士官ゆえに軽装ではあるが、銀灰色ぎんかいしょくを基調とした女性用のよろいを着ている。

 睦は行の向かいに立ち、わずかながら微笑んだ。

馬子まごにも衣装、というところですね」

 褒め言葉ではない。相手を馬子として低く見る悪口に他ならない。睦は堂々と、それを上官の行に向けて言った。行としては、このうえなく正しい表現に思え、何も言い返せない。

 指揮官を務める時、行はを着る。最上の逸品だ。行に着飾って喜ぶ気持ちはないが、見栄えを気にするのも指揮官の仕事のうちだった。であれば、いつも左側だけを結う向日葵色ひまわりいろの髪は、今日は下ろしている。

「睦、言うようになったねえ」

 気分を害するでなく、行は感心した。個人の心情としてもそうだが、大将としても。副将が大将に臆するようでは、本営が本営として機能しない。

「副将ということもありますが、何と言いましょうか、戦勝請負の皆さんに必要なのは忠実な部下ではなく、良き隣人なのではないかと思いまして」

「いいね、その適応力の高さ。きっと出世するよ」

 行は気まぐれや酔興すいきょうで睦を副将にしたのではない。まして行きがかり上のことでもない。他に適任者があれば、その者を正三位にすればいいだけ。睦に期待するところがあったから抜擢したのだ。見込み違いではなかったらしい。

 褒めつつも、行はすぐに布陣図に目を落とした。近辺の地図の上に、軍勢を表す駒を置いてある。沈が咎言で確認した配置であるから、間違いはない。だからこそ行は考えあぐねていた。

「睦将軍、実を言うと悩んでるから、相談に乗ってくれない?」

 将軍と言われて、睦は気恥ずかしいが、正三位ともなればそう呼ばれるべきだった。しかし、悩むとはどういうことなのか。

「かまいませんが、いったい何を? 戦況はこちらの圧倒的優位であると思いますが」

 睦にはせないところだった。単純に総攻撃をかけてしまってもいいくらいなのである。待機の指示が続いているのは、何を警戒してのことなのか。

「そうなんだよ。列椿の軍だけで一四〇〇〇、後詰めとして配置した羽撃はうちの軍が一一〇〇〇、合わせて二五〇〇〇。対して向こうさんは八〇〇〇だけ。どうしてここまで出てきたのかな?」

 敵方、月垂りの軍はここまで兵を進めた。南北に山地を望む広大な平原。行のいる列椿の陣営から西、山間やまあいにある森林を抜け、乾期ゆえに枯れた川を渡り、月垂りの軍は、この平地にまで顔を出しているのである。

 兵力差を考えれば、一般的には籠城するところであろう。だが、それは本来、援軍が望めるときに採る戦術である。加え、睦には思いつく理由があった。

「敵方の指揮を執っているのは、猛将の誉れ高い八刀鹿やとかていです。特に野戦では無類の強さを発揮します。対して行殿は城攻めを大の得意としていますから、それを嫌って、自分の強みが出せる戦場を選んだのでしょう」

 間違いのない模範解答ではある。軍の選抜試験であれば正解だ。ある意味では、行が聞きたかった答えだった。睦は賢い。その睦でもそういう解釈になる。そして、自軍の圧倒的優位だと思っている。ものとして、十分に機能している。

「それは筋道としては、一見正しい。けれど、から見ると、絶対におかしいんだ」

「裏側、とは?」

 呑み込めないでいる睦に対し、行は布陣図を指でとんとんと叩いた。これを見ろということだった。

「野戦、しかも原っぱだと鬼のように強いてい将軍ならさ、この布陣を見た瞬間にわかるはずなんだよ。って。野戦のことは誰より知ってる。わざわざ負けるために兵を出すかな?」

 睦は息を呑んだ。敵方に知の沈がいないとて、あの八刀鹿訂が偵察を怠るわけがない。布陣を知れば、睦だって即座に察する。

 敵の立場で考えれば、戦況は絶望的だ。こちらには沈の咎言があるために、伏兵は通用しない。同様に、奇襲も困難。正面からやり合おうとすれば、八〇〇〇対二五〇〇〇という数字が重くのしかかる。

 まして列椿の軍は戦勝請負を擁するのだ。羽撃ちにも行の弟子であるかくがいる。仮にも行の一番弟子なら、悪手は打つまい、そう考えるしかない。

 行は、睦の沈黙を、状況を理解したものと捉え、話を続けた。

「訂将軍がここまで出張ってきた以上、向こう、月垂りの軍に何らかの勝ち目がないと理屈に合わない。けれどそれが見つからない。頭の中で、あたしが月垂りの軍をどう指揮してみても、ちっとも勝てない。どこに勝ち目がある?」

 睦は考えを巡らせるが、何も見出せない。

 月垂りの国には交易の盛んな港があるが、乾いた国土が仇となっていて、せっかくの関税収入も大半は呑まれる。銃を何千ちょうとそろえる財力はないはずで、実際、沈の咎言により、旧式のものが六〇〇ちょうあるきりだと知れている。爆弩はぜゆみで応戦できる程度の火力だ。

「睦が月垂りの軍を率いていたとしたら、どうする?」

「降伏します」

 行に問われ、睦は間髪を入れずにはっきりと答えた。諦念ではない。それしかない。

「うん。いいね。優れた将は何より引き際をわきまえている。訂将軍がそれを知らないはずはないんだけどな」

 行は腕を組み、するめを噛みしめ、目を閉じた。思考は無益に渦巻くだけで、何も拾えないでいる。

 睦は改めて布陣図に目を落とす。とにかく、兵力差が重い。咎持ちの力は絶大だが、体はひとりの人間、寝首を掻くことは不可能ではない。しかしそれも手の届くところにいればの話だ。本営から出ない沈を排除したうえで、別千千ことちぢ行を相手に奇襲を成功させるか、さもなくば、三倍を超える人数の敵と正面から戦い、奇跡を願うか。

 知恵の足しになりたいが、やはり睦にはわからない。

「何しろ、この兵力差ですから、どうやってもひっくり返しようが――」

 睦の言葉をきちんと聞き終える前に、行は。歯から力が抜けて、するめが地にぽつんと落ちる。

 思考の波を、まるで光速を持つかのように、ふたつの言葉が駆け抜け、切り裂く。

 ――兵力差?

 ――




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