二〇 純金



 何もかも思い通り、とは言えなかった。

 ゆくは頃合いを見て地下室から出た。長年過ごした蔵は全焼していた。村をまわり、からくも焼け残っていたものを手にした。耕地の外れで、野ざらしにされていた服を見つけられたのは幸いだった。ぶかぶかではあったが、着られないことはなかった。

 人生で初めての服を着て下山したまではよかったが、昔の地図に載っていた村がなくなっていた。あてにしていた人里の、その跡地を通り過ぎ、さらに九里先にある街を目指さなければならなかった。初めて目にした外の世界は慣れぬことばかりで、行路は難儀が続き、ためておいた食料は中途で尽きた。

 街道に出ていた団子の屋台をどうにか見つけて、行は焦げた麻袋から、残り少なくなっていた墨汁ぼくじゅうと付け硬筆ペン、そして本の余白をちぎって作った白紙を地面に広げた。周りの視線を気にせず、硬筆ペンで文字を書いていく。

 薄汚れた子供がいったい何をしているのかと、団子を焼いていた若い男は訝しんだ。薄汚れるどころでなく、今まさに戦場から帰ってきたというような風体ふうていである。

 行は文をしたためた紙と、崖下にばらまかずにとっておいた百もんめせんを一緒に突き出した。紙には、次のように書かれていた。

〈団子を三十本売っていただけますか。焼き団子と餡団子とみたらし団子を、それぞれ十本ずつお願いします。〉

 それを読んで、若い男は慣れた手つきで団子を包み始めた。お金を出されて注文を受ければ、身なりが悪かろうが、筆談だろうが、それは客だった。

 屋台に立つ若い男は、すでにできていたものを全部包んで渡したが、三十本も一気に売る準備はしていない。足りないぶんは、これから用意せねばならない。

「残りはちょっと待ってもらうけど、いいかな?」

 問われて、行は目をぱちくりとさせた。また地に紙を敷き、行は急いで文を書いた。若い男の前に掲げられた紙には、〈声だとわからないので、紙に書いていただけませんか。〉と、あった。

 特に嫌がるでなく、男は硬筆ペンを借り、行が麻袋から新たに出した白紙に、さっき口で言ったことと同じ内容を書いた。それを読んで、行はひとつ頷き、返された硬筆ペンで、〈待ちますが、先に、今いただいたぶんのお会計をお願いします。お腹が空いているんです。〉と、返事を書き足した。行はやはり、定義に則って行動した。金銭と交換する前の団子は自分の物ではないから、食べられない。

 丁寧な段取りだなと、男は心のうちで感心した。すでに渡したぶんを会計の前に食べてしまっても、男としてはかまわなかったのだが、会計をしろと言われて拒む理由もない。

 おつりを渡した後、男は手振りで硬筆ペンと紙を求め、それを受け取ると、〈きみ、耳が悪いの。〉と書いた。文を見せられて、行は戸惑ってしまった。これは疑問として書かれたのだろう。洋語と違って、和語の書き文字には疑問符、つまりは〈?〉がない。〈耳が悪いのか?〉と、そう問われたのだ。それを理解していてなお、行が当惑したのは、自分のことを尋ねられることが初めての経験だったからだ。

 屋台のうちにいる男から硬筆ペンと紙を返してもらい、ここで書いていいというふうに、屋台の一角を示してもらったのだが、どうしたものかと行は悩まなければならなかった。

 なぜ四季があるのかと問われれば、まず地軸の傾きを説明し、太陽の周りを星が回っていることを教える。星の軌道が厳密には楕円であることを補足してもいい。しかし自分のこととなると、何をどこまで記すのが正解であるか、見当がつかなかった。

 どうとも正答を見出せず、行は結局、正確に書くことを心がけた。おそらく、喋ることもできないと誤解しているはずで、それも解いておかねばならないとも思った。

〈聴覚は機能しています。また、舌も声帯も肺も横隔膜も健康そのものなのですが、発音がわかりません。〉



 ―――――――――――



「かくして、団子屋のせがれは先生の一番弟子兼助手になり、二代目塾長を務め、三代目に席を譲って、今では羽撃はうちの国の軍師ってわけです」

 行が浴場を出た後、隠はすぐに男湯に移った。恩師の顔を立てつつ、沈に配慮した格好だった。そこで話は中断し、沈が入浴を終えた後、王城の中庭でふたり待ち合わせたうえで再開していた。隠がもらってきたかき氷を、隠より遅れて沈が食べ終えたところで、長話はようやく終わりを迎えた。

 沈と隠のふたりとも、今夜は王城に泊まる。沈には戦勝請負の他の面子と共に泊まる場所として大部屋が、隠には個室があてがわれている。部屋着として用意されていた浴衣ゆかた甚平じんべいを、それぞれ着ていた。どちらも藍染めであるのは、虫よけの効果も含めて配慮されているからだ。

「もはや、何も言葉になりません……」

 結局は言葉を口にしているのだが、沈としては他に言い表しようがなかった。石灯籠いしどうろう灯火ともしびに照らされる沈の表情は、もう驚くことも忘れてしまったというふうで、ただ呆然としている。

「これ、話しついでなんですが、沈さん、砂映すなうつりの国が滅んだ話は知ってます?」

 本当に余談だという気軽さで、隠はそれを口にした。有名な話であるから、記憶をたぐらなくても、沈はすぐ返事ができた。

「ええ、耳にしたことがあります。何者かが一晩で首府を陥落させてしまったと。攻手せめてはわずか二十人余りだったとか……」

「それ、正確には二十三名です」

 間髪を入れず、隠は曖昧な数字を正確な数字に直してみせた。

「さすが、お詳しいんですね」

 この若さで羽撃ちの国に軍師として雇われるのだから、戦術家として優れるのみならず、過去のいくさの情報にも精通していて然りだ。沈はてっきりそう思った。それは間違いではなかったが、攻手せめての人数を隠がはっきり知っているのは、それゆえではない。

「詳しいも何も、なんですから、知ってて当たり前なんです」

 やはりまた、隠の脳裏には当時のことが浮かんだ。誰もが必死だった。しかし、と確信してもいた。皆が阿吽あうんの呼吸のうちにあり、皆が優れた戦術家だったのだから。師に認められた策を携えて来たのだから。

 話がここまで至ると、沈は本当に言葉を失っていた。唖然とするばかりだ。

「砂映りの国を攻めたのは、先生の私塾で戦術を学んでいた、当時は二十三人でした」

 当世随一の戦術家、別千千行から直に教えを授かり、そして、行を恩師と慕っていた二十三人にとって、決して負けられぬいくさだった。行の門出を祝いたかった。十一歳の軍神いくさがみに贈るものは、勝利をおいて他になかった。

「砂映り攻めは、先生が囁さんたちと旅に出る直前、塾長を辞める前に俺たちに出した、最後の課題でした。もちろん、ある筋からの依頼があってやったことなんですが、でも、やっぱりあれは課題でした」

 砂映りの国を欲していたのは、砂映りと同じく諸国連合に属している隣国だった。同盟国を表立って攻めるわけにはいかない。その隣国は、隠たちによって滅ぼされた砂映りの国を、戦後、穏便に併合することができた。

ちまたでは、攻めた人数の少なさのせいか、先生のしわざだって思われてるみたいですけど、違うんです。先生はただ、俺たちがああでもないこうでもないと言って戦術を練り上げていくのを、そばで見守っていただけです」

 隠は思い出す。行は、本当に何ひとつ口出しをしなかった。見当違いな意見は山ほど出ていたのに。行は自信があったのだ。自分の生徒なら、議論を重ねる中で、自ら間違いに気づき、正すことができると。

「信じてくれてたんでしょうね。俺たちの策を。先生は決して、現場に来ようとはしませんでした。その夜は、囁さんと改さんと三人で、ずっと双六すごろくで遊んでいたそうです。思わず熱が入ったとかで」

 娯楽としての双六すごろくよりも、出る目がわずかにも偏らない賽子さいころはどう作ればいいのか考えるのに夢中だったらしいが、それは本当に余談だった。立派に見える賽子さいころでも、ほとんど全て、わずかに出目が偏るのだとは知っている。それを完全になくす設計となると、さすがの隠も自信がない。

 やはり、先生とは格が違うのだろう、隠はそう思いはする。それでも、追いつきたいと、隣に並んでみせたいと、強すぎるほどに思う。別千千行の一番弟子は師に匹敵するほどに強いのだと、それを証明してみせたい。自分なりの恩返しとして、その意志は灯り続けている。あの笑みに報いたいと。

「俺、今でもはっきり覚えてるんです。練り上げた策を見てもらった後、先生が、『さすがあたしの生徒だ!』って、そう言いながら、俺たちに向けてくれた笑顔を。忘れらんないんですよ」

 敷きつめられた玉砂利たまじやりを下駄で踏む音が近づいて、やがて石灯籠いしどうろうの光の前に姿を見せたのは、かき氷を片手に持った行だった。沈と同じく、貸された浴衣を着ている。

隠坊かくぼう、その頃の話になってもまだ、かわいさは皆無って言い張るわけ?」

 笑顔を浮かべたのだから、かわいさのひとつくらいあるだろう、そう思えど、行は何を言っても無駄なことを知っていた。結局は隠の主観の問題なのだ。判定の基準をはっきり決めなかったのは行だった。

「言い張りますよ。そりゃあ」言いながら、隠は甚平の左脇腹あたりにある物入れポケットに手を伸ばし、そこから桐の小箱を取り出した。「ま、これで勘弁してください」隠は何気ない動作で、その小箱を行に手渡す。

「先生、もうすぐ誕生日でしょう。祝いの品です。俺、大晦日は羽撃ちの国にいる予定なので、ちょっと早いですが、今ここで」

 行は一瞬、目をぱちくりとさせたが、すぐに気を取り直し、小箱を開けた。

「指輪?」中には、丁寧に指輪が収められていた。「きんだね」行でなくともすぐにそれとわかる。石灯籠いしどうろう灯火ともしびに照らされ、まばゆい金色の輝きを放っている。飾りの石はついていないが、それゆえの清廉さをまとっていた。

鍍金めっきじゃないですよ。純金です。指の大きさは測れなかったので、先生の齢の平均的なところにしちゃいましたが」

 行もまさか鍍金めっきだとは思わない。とはいえ手放しで歓喜もできなかった。

「ま、指のどれかには入るでしょ。でも隠坊かくぼうがくれたとなると、これ安物やすものだね」

「えっ、きんなのですよね? 高いのではないですか?」

 沈は疑問を口にしたが、結局それは、思い込みであり先入観なのだ。きんと見れば価値があるように思ってしまうが、違う。値段というものはいくらでも変化する。米が高騰することも、きん金屑かなくずになることもある。

「それが全く。先生の言うように安物です。うちの国、きんの価値が大暴落しちゃってて、今や銀より銅より安いんですよ」

 強いて高級品をもらおうとは思わないが、そうであっても、行は素直に喜べない。羽撃ちの国へ行けば、愛弟子からの贈り物は、鉄屑てつくずから作った指輪と大差ないのだ。列椿の国にしても、隣国の影響を受けてきんの値下がりが続いている。

「先生への贈り物なんだから、もうちょっとくらい予算あてない?」

 行は呆れ混じりに言ったが、隠は何ら動じなかった。

「でも、好きですよね。きん。先生と言ったら金色だから」

 むしろ、これしかなかったろうと、確信しているふうである。

 こうも堂々と強気に出られてしまっては、さすがの行も負けを認めるしかなかった。事実、行にとって金色は特別な色であるし、贈り物そのものの価値よりも、自分のことを理解してくれていると、その喜びに価値を見出してしまう。

「最小限の投資で最大限に女の心を掴もうとするあたり、よくできた弟子だよ、ほんと。ありがとね。大切にするよ」

 感謝の言葉は、行の掲げた白旗に他ならなかった。沈は、行がこんなふうに言い負かされたことに、ちょっとした奇跡を見る思いだった。

 思っていたよりずっとすんなりと、行から感謝の言葉を引き出せたことは、隠にしてもあまり覚えのない上首尾だった。出来過ぎだと戸惑うゆえに、隠はふっと自ら減点したくなって、余計なひと言を足した。実際、そうされては困るのであるが、単純に考えても引き当てる確率は二割。そんなこと、引いた後で言えばいいとわかっていながら。

「あくまで弟子ですから、間違っても、その指輪、薬指にはめないでくださいよ」

 行はこれでもかというほどの苦い顔をした。反射的に、隠の向こうずねを下駄で蹴った。無論、薬指にはめるつもりはない、しかし今さら、もらったものを捨てようとも思わなかった。鉄屑てつくず並の指輪でも、これは自分の弟子がくれた金色なのだ。




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