一九 架空
そして同時に、待った。
死体が誰か判別できなくなることを待った。幸いにして年が明けたばかり、この国は夏のさなか。いくらでも腐る。いくらでも虫が食い散らかす。さらには野鳥もつつく。
鞄には石で傷をつけて、列椿の紋をそれとわからなくしたうえ、損傷を加えた。他、軍票を始め、軍に関係するものは全て除いた。邪魔なものは土に埋めてしまった。
死体はもはや、見る影もない。人間だった、と、そのくらいしかわからない。先に村に来た軍の者と服が似ていると思っても、
行は、苦労してしたためたそれを、死体のそばに転がしてある鞄に入れた。もともとは調査記録書だった。今は表紙を差し替えてある。そこには〈旅行記〉と書いておいた。行は、軍から派遣された男を、諸国を渡り歩いた冒険家に偽装することを思いついたのだ。
〈旅行記〉と題されたその見聞録は、相当な
その架空の冒険家は、大旅行の末にこの村に来る。この村に調査に来た軍の者と会い、軍の者は村に寄らずに帰る。その後、冒険家は金鉱脈を見つける。まったくのでっちあげだった。それでも、嘘八百にもほどがあるのは、その後に続く言葉のほうだ。
〈王族とは親しく手紙のやりとりをしている。私の紹介であれば、この村は金山から上がる利益の一部を、より多く受け取れるに違いない。
旅行記はそこで途切れる。なぜなら、架空の冒険家は、
行は自分でも笑ってしまう。こんなあからさまな嘘に踊らされるものは、そういない。
本来ならば、穴だらけの策かもしれない。本来ならば、こんな手は使わないかもしれない。けれど今回は、決して、絶対に覆されない前提がある。村人はこの旅行記を手にする。そこに書かれていることを読む。しかし――
――それを行が書いたとは絶対に思わない。
あとはただ、村人をこの場所に招待すればそれでいい。不自然にならない程度に、難解な言葉は避けた。読めるはずだ。
この村の伝統は口頭伝承で継がれているものではないと、行が読んだ本にはあった。
きっと、誰かが書き残したものを、誰かが読んでいる。
漏れなく、村の誰しもが、正しく、禍神の子の扱い方を知っている。
読めるはずなのだ。
行はあらかじめ干しておいた草を積み、そこに
村人はこの火から上る煙に気づく。山火事がおきては一大事であるから、様子を見にくる。崖下に死体を見つける。村人が降りてきやすいよう、目につくところに紙幣をばらまいた。よっぽどの近視でなければ、金だとわかる。五〇〇
そうもわかりやすくしたのは、村人を甘く見ていたからではない。次の一手につなげたかったからだ。村人さえ騙せればいい、ではなく、村人だけ騙さねばならない、ということが求められたからだ。
草から草へ、火が燃え広がっていくのを確認してから、行は地下室へと戻った。地下室と崖下をつなぐ階段、その出口は、大部分が土でふさがれていた。引き戸は外して中に入れ、青銅の机と椅子をうまく支えにして、土を盛っていった。今や行がくぐり抜けられるだけの穴が空いているのみだ。その穴も、この後ですぐにふさぐ。崖を削って得た土を地下室にためこみ、準備を整えてある。
穴をくぐりながら、なるほど、と、行は妙に納得した。
村の者たちが信じていることは正しい。
禍神の子に言葉を覚えさせると、大いなる災厄を招く。
行は、旅行記の裏側から、別な記録を書いていた。
村人たちには決してわからない、魔法の言葉で。
満月の夜だった。
行は積み上げた本の上に立ち、明かり取りの窓から外を覗いていた。
村に火の手が上がったのを確認して、行は地下室へ降りた。隠し扉もまた、その大部分を土でふさいであった。まもなく蔵も焼かれるはずだ。夜討ちになるであろうことは予想がついていた。村人のひとりも漏らさずに焼き殺す必要があるとなれば、自然、そうなる。人が農作業に出ている昼間は、それが難しくなる。
行が旅行記の裏側から書いたもの、それは〈闘病記〉だった。
そしてそれを、海の向こうの言葉で書いた。
わかりやすく、裏側から数えて一
〈反対側から和語で書かれている旅行記は、この闘病記を王に届けるべくして書いた、まったくの嘘偽りである〉
架空の冒険家は村を王族に紹介しようとしていた。村人は証として日記を国に提出するだろう。これを渡せばきっとわかってくれると、そう思って。そして、提出された者は思うはずだ。そんな馬鹿な話があるものか、と。そもそもが、金鉱脈から上がる利益の分け前を民に与えるなど、まずないことなのである。
詳細に書かれた見聞録には真実味があり、半端な知識で書けるものではなく、つまらぬいたずらとも思いがたい。日記を仔細に見れば、裏側から西洋文字で何か書かれている。村人であれば、どんな人脈を用いてもそれは訳せない。そこで種明かしがなされているとは思わないから、無視する。国はそうではない。洋語を和語に訳せるものを手配することができる。
そして、読む。
なぜ、あの村に立ち入れば不幸があると伝えられているのか、そのわけを。まったくの嘘偽りを。
行は伝染病をひとつでっちあげた。
〈村には流行り病が蔓延しているが、村人は遺伝的な変異のために
このようなことを、行は洋語で書き綴った。
〈発病により動けなくなり、王に
架空の冒険家は動けずにいるために、金山発見の記述を必要としたのだ。
闘病記なのであるから、行は架空の伝染病についても書き記した。感染経路と思われるもの、有効な対処法と思われるもの、それらは、村民ごと村を焼き払い、十年の時間をおけば菌は消滅すると結論づけた。それで治まる伝染病など、どんな書物にも書かれてはいなかったが。
発病した一日目からの症状の記録もそこにはあった。それは十四日目で途絶える。和語に訳すなら〈意識混濁〉、その語の後には、寂しげな余白がある。震える手で書き残し、架空の冒険家はついに病死したのだ。
事実、村に軍の者が派遣され、そして帰ってきていない。国はそれを確認する。闘病記を書いた者にただならぬ知識があるのは明らか。その者が村を焼き払えと言う。
国にとっては価値のない村だ、いっそ焼いてしまいたいだろう。軍の関係者の死を隠蔽したとなれば名分も立つ。村人の言い分と冒険家の注進、どちらを信用するかは知れている。
そして、現在、行の考えていた通りになった。国の兵が夜襲をかけ、村を焼いている。このまま地下室にこもっていれば、蔵は焼け落ち、村には誰もいなくなる。外に出られるうえ、村人に捕まることもない。
誰ひとり逃れることはできないだろう。村を焼いている兵もまた、感染の恐れがあるとして、後で焼かれてしまうのではないだろうか。死病に満ちた村を襲うなどと言えば、兵は働かない。おそらくは何も知らされていない。攻勢も守勢もない。どちらも死に損の負け戦だ。
行は、自分の無知がよくわかる。蔵のひとつから出るために、これだけの大騒ぎを必要としてしまうなんて。行にとってもまた、負け戦だった。もっと優れていて確実な手はなかったのか。生き延びよう、この蔵を出よう、そういう思いが増していく。
――世界を知りたい。
――言葉をどう音にしたらいいのかを、知りたい。
村人の悲鳴や兵士の怒号が、わずか、行の耳に届く。
初めて聞く、自分以外の誰かの声。策が実ったことよりも昂揚を誘った。
もったいないと、そういうこともまた思う。
遺伝的な変異が起きているなら、生かしておいて調べるべきだ、と。
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