一八 硬筆
幸いだったのは、村人が蔵を訪れるのが決まって夜だったことと、なんとなくながら、隠し扉の奥にあるものを知られてはいけないと、すぐに察したことだった。どのみち、日が暮れれば文字が追えなくなる。蔵にも下の階にも灯りはない。夜はおとなしく蔵で過ごし、朝になったら地下室に下りる、そんな日々が続いた。
三年という月日が、流れるように過ぎた。
空は晴れ渡り、
文法の全てを解き明かしてから、行は、これら書物は単なる謎解きのためにあるものではなく、意味を持ち、示し、何かを教えるものなのだと気づいた。それがさらなる熱中を呼び込み、ありったけの書物を照らし合わせ、言葉の意味を推測し、やがては確定させていった。地下室には辞書も置いてあったが、行はその役割に気づいてから、手を触れようとしなかった。解き明かす楽しみが減るからだ。
今となっては、時折、辞書を引く。
行は堂々と寝転んでいる。この崖の上に立たない限り、誰も行の姿を見ることはできない。空を飛ぶのでなければ。周辺のどの地形から見下ろしても、行を見るには角度が足りない。それを理解している。
今、行が読んでいる本にあるのは横文字だった。西洋文字で表された、海の向こうの言語だ。ひらがなも漢字も一切使われていない。和語に翻訳されていない原書を、そのまま読んでいた。
当初こそ、まったく違う形を目にしたことで困惑したが、それは行に、別な法則で成り立つ別な言語があると気づかせてくれた。地下室にあった洋書の冊数も尋常ではなく、別な法則がそこにあるとわかれば、行にとっては和語と大差なかった。そして、〈book〉なら〈本〉、あるいは、〈言語〉なら〈language〉、〈戦術〉なら〈tactics〉ないし〈strategy〉、そんなふうに置き換えることも容易だった。
西洋文字でつづられた本を、行は何らつっかえることなく読み進めていく。海の向こうの戦術家が著した兵法書だった。
行が兵法書を好んでいたのは、夜が暇だったからだ。暗くなれば本は読めなくなる。この頃の行は、毎晩必ず戦争をしていた。頭の中に仮想の戦場をつくり、兵を配置し、指揮をとり、勝利を重ねていった。ただの暇つぶしとして始まったそれは、いつしか、行がもっとも好む時間となった。
勝利を重ねていくほどに、しだいに、行の側の条件が悪くなっていった。兵の数が七〇〇〇で勝ったなら、次は六五〇〇にする。あるいは敵の兵を増やす。
行にとっての娯楽であればこそ、戦の流れは厳密に理屈の上で成り立ち、天運の介入を許したことはなかった。運任せにしようにも、この蔵に
行は今、たった三〇〇の手勢で
勝ちへの道筋は見えていたが、その手を採ると行の方にも大きな被害が出てしまう。他に何か妙手はないかと、手がかりを求めて兵法書を読んでいたのだったが、どうにも集中できない。行には今、他に考えておかなければならないことがあった。観念して、本を閉じた。
自分が
地方の風習について書かれた本もあれば、地図もあった。太陽や、他の星の動き、あるいは流星群、四季の移り変わり、この草むらの生物相、それらを観察し、種々の書物と照らし合わせることで、自分の位置も現在の月日も見当がつけられた。
また、地下室にある本の発行年と劣化の程度も比較した。もっとも新しい本は一五六八年のもので、劣化はそう深くない。
おそらく自分は一五七五年の大晦日に、禍神の子として生まれたのだろう、現在は一五八五年の夏、
禍神の子などと、くだらない迷信に過ぎないが、それでも村人はそれを信じている。時間が減れば採れる手も狭まる、十分な猶予のあるうちに、この蔵から出る策を考えておきたい。できれば、地下室の本を後で運び出せるような。
もう昼過ぎだった。行は地下室を抜け、本を片手に階段を降り、崖下へ出た。引き戸を閉める。とうの昔に、地下室に虫が
昨晩、明け方近くまでかかって、行は列椿の首府を陥落させていた。それがために寝坊をしたのだが、結局、行のほうにも一〇〇を超す死者が出てしまった。陥落させても、残った兵数での占領は困難。それでは何のために攻めたのか。どちらの軍の死者も死に損だ。自らの戦術の問題点を洗い出すつもりでここまで来た。
死体が転がっていた。
人であるだろう。それは行もわかる。大人の男だということも察せる。けれど死んだ人間は見たことがない。行は定義に則って確認した。どうやら首の骨が折れているようだが、それは死亡を意味しない。
行は男の状態を調べていく。呼吸をしていない。そして、心臓も動いていない。念のために男の目を太陽に向けてみたが、瞳孔は変化しない。つまり、死んでいると判断していいだろう、行はそう考えた。
行は崖を見上げる。人が死んでもおかしくないだけの高さはある。足を滑らせるか何かして、落下の衝撃で首が折れたのではないか、そう見当をつけた。行は今一度、男を見やる。立派な旅装束を着ているから、村の人間ではなさそうだ。肩から提げているのは鞄だろう。鞄の皮革には本で見たことのある紋があった。列椿の国の紋だ。
鞄を開けると、葉で包まれた玄米の握り飯が目についた。行は
他、鞄にあったのは、貨幣、
行は記録書を手にして、まず外側を観察してみた。本のように綴じられている。表紙も含め、紐で結んである。表紙をめくった。文は和語で書かれていて、悪筆でもなく、すんなりと読めた。
記録を見るに、男はこの近辺の地理を調べにきたようだった。それも、戦をするのに向いた土地であるかを、特に気にしていた。
事実、調査記録の中では、この山岳地帯に伏兵を潜ませ、敵を誘い出して討つべし、と、そういう内容が書かれている。この男は、列椿の軍に属する者なのだろう。調査はさらに続く予定だったのかどうか、記録書の大半は白紙のままだった。なめらかな手触りの、無地の用紙が寂しげに続く。
伏兵を配置するつもりなら、来た目的を村人に明かしはしない。村人が口を滑らせ、企みが敵に知れるかもしれない。この男は適当な口実でごまかして真意を隠し、村人のもてなしを受けたのだろう。
そこまで考えたところで、行のうちで結論が出た。
――これは使える。
行はさっそく、墨汁の
それら全て、行の初めての実戦としてあった。
付け
発音は知らない。けれど言葉の意味も形も知っている。山と積まれた本、いくらでも余白は見つけられる。そこに書ける。ある程度感覚を掴んだなら、墨汁は残しておき、草の汁を絞って使おうと考えた。とにかく、自分が書き慣れなければ、この策は成立しない。
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