一八 硬筆



 幸いだったのは、村人が蔵を訪れるのが決まって夜だったことと、なんとなくながら、隠し扉の奥にあるものを知られてはいけないと、すぐに察したことだった。どのみち、日が暮れれば文字が追えなくなる。蔵にも下の階にも灯りはない。夜はおとなしく蔵で過ごし、朝になったら地下室に下りる、そんな日々が続いた。

 三年という月日が、流れるように過ぎた。

 空は晴れ渡り、夏蝉なつぜみが盛んに鳴いていた。

 よわい九つを迎えてからすぐの頃、崖に囲まれた草むら、お気に入りの場所でうつぶせに寝転がり、ゆくは本をいた。毎日のように体を土で汚しては訝しまれる。特に集中して読書をしたい時だけ、地面に寝転ぶようになっていた。

 文法の全てを解き明かしてから、行は、これら書物は単なるのためにあるものではなく、意味を持ち、示し、何かを教えるものなのだと気づいた。それがさらなる熱中を呼び込み、ありったけの書物を照らし合わせ、言葉の意味を推測し、やがては確定させていった。地下室には辞書も置いてあったが、行はその役割に気づいてから、手を触れようとしなかった。からだ。

 今となっては、時折、辞書を引く。菁莪せいが覬覦きゆ渟名井ぬないぐ――使用例が少なすぎる言葉はどうやっても解けない。解ける言葉はひと通り明らかにしてしまった。虎や鷹、あるいは海、湖、沼、いずれも見たことはないが、そのだけははっきりと知っている。挿し絵がある本にはずいぶん助けられた。

 行は堂々と寝転んでいる。この崖の上に立たない限り、誰も行の姿を見ることはできない。空を飛ぶのでなければ。周辺のどの地形から見下ろしても、行を見るには角度が足りない。それを理解している。

 今、行が読んでいる本にあるのは横文字だった。西洋文字で表された、海の向こうの言語だ。ひらがなも漢字も一切使われていない。和語に翻訳されていない原書を、そのまま読んでいた。

 当初こそ、まったく違う形を目にしたことで困惑したが、それは行に、別な法則で成り立つがあると気づかせてくれた。地下室にあった洋書の冊数も尋常ではなく、別な法則がそこにあるとわかれば、行にとっては和語と大差なかった。そして、〈book〉なら〈本〉、あるいは、〈言語〉なら〈language〉、〈戦術〉なら〈tactics〉ないし〈strategy〉、そんなふうに置き換えることも容易だった。

 西洋文字でつづられた本を、行は何らつっかえることなく読み進めていく。海の向こうの戦術家が著した兵法書だった。

 行が兵法書を好んでいたのは、。暗くなれば本は読めなくなる。この頃の行は、毎晩必ずをしていた。頭の中に仮想の戦場をつくり、兵を配置し、指揮をとり、勝利を重ねていった。ただの暇つぶしとして始まったそれは、いつしか、行がもっとも好む時間となった。

 勝利を重ねていくほどに、しだいに、行の側の条件が悪くなっていった。兵の数が七〇〇〇で勝ったなら、次は六五〇〇にする。あるいは敵の兵を増やす。兵糧ひょうろうが十分ではないことにする。敵の指揮官を海の向こうの名将にする。通常ありえない地形さえも用意して、行は自分の不利を強めていった。頭の中のいくさは娯楽であって、それは調を超える意味を持っていない。

 行にとっての娯楽であればこそ、戦の流れは厳密に理屈の上で成り立ち、天運の介入を許したことはなかった。運任せにしようにも、この蔵に賽子さいころはない。行が自分で不格好な賽子さいころをつくっても、きっとそれは出る目が均等にならない。それを運とは言わない。出目の偏りを数えだしてしまうだろう。

 行は今、たったの手勢で列椿つらつばきを陥落させようとしていた。城攻めが特に好きだった。時間がかかるからだ。そのぶんだけ、楽しみが長く続く。堅固な王城に籠もる列椿の国軍三三〇〇〇、加え地方からの援軍一八五〇〇、総勢五一五〇〇を相手に、行は少数の兵で立ち回った。蔵の中では七晩、行の頭の中ではふたつき余り続いていた激戦はいよいよ大詰めとなり、もはや本丸を残すのみとなっていた。

 勝ちへの道筋は見えていたが、その手を採ると行の方にも大きな被害が出てしまう。他に何か妙手はないかと、手がかりを求めて兵法書を読んでいたのだったが、どうにも集中できない。行には今、他に考えておかなければならないことがあった。観念して、本を閉じた。

 自分がよわい十になれば殺されてしまうことを、

 地方の風習について書かれた本もあれば、地図もあった。太陽や、他の星の動き、あるいは流星群、四季の移り変わり、この草むらの生物相、それらを観察し、種々の書物と照らし合わせることで、自分の位置も現在の月日も見当がつけられた。

 また、地下室にある本の発行年と劣化の程度も比較した。もっとも新しい本は一五六八年のもので、劣化はそう深くない。

 おそらく自分は一五七五年の大晦日に、禍神の子として生まれたのだろう、現在は一五八五年の夏、いちつきであるだろう。行はそう考えていたし、実際に正しかった。

 禍神の子などと、くだらない迷信に過ぎないが、それでも村人はそれを信じている。時間が減れば採れる手も狭まる、十分な猶予のあるうちに、この蔵から出る策を考えておきたい。できれば、地下室の本を後で運び出せるような。


 もう昼過ぎだった。行は地下室を抜け、本を片手に階段を降り、崖下へ出た。引き戸を閉める。とうの昔に、地下室に虫が這入はいり込むことを避けるようになっていた。

 昨晩、明け方近くまでかかって、行は列椿の首府を陥落させていた。それがために寝坊をしたのだが、結局、行のほうにも一〇〇を超す死者が出てしまった。陥落させても、残った兵数での占領は困難。それでは何のために攻めたのか。どちらの軍の死者も死に損だ。自らの戦術の問題点を洗い出すつもりでここまで来た。

 が転がっていた。

 人であるだろう。それは行もわかる。大人の男だということも察せる。けれど死んだ人間は見たことがない。行はに則って確認した。どうやら首の骨が折れているようだが、頸部けいぶの骨折は死亡の確認に関与しない。

 行は男の状態を調べていく。呼吸をしていない。そして、心臓も動いていない。念のために男の目を太陽に向けてみたが、瞳孔は変化しない。つまり、死んでいると判断していいだろう、行はそう考えた。

 行は崖を見上げる。人が死んでもおかしくないだけの高さはある。足を滑らせるか何かして、落下の衝撃で首が折れたのではないか、そう見当をつけた。行は今一度、男を見やる。立派な旅装束を着ているから、村の人間ではなさそうだ。肩から提げているのは鞄だろう。鞄の皮革には本で見たことのある紋があった。列椿の国の紋だ。

 鞄を開けると、葉で包まれた玄米の握り飯が目についた。行は躊躇ちゅうちょなく包みを開き、握り飯を大きく噛む。乾いていない。おそらくは今朝になってから握られたものだ。この近辺で握り飯を用意できるのは、この村の者しかいない。ここから他の人里に行くまで、最低でも十里近くあるうえ、大半が山道だ。もっとも、十八年前の地図がまだ正しければ、だが。

 他、鞄にあったのは、貨幣、軍票ぐんぴょう、そして、調査記録書、及び墨汁ぼくじゅうの入ったびんと付け硬筆ペン。何かを計測するために使うのであろう道具が多数。燐寸マッチも見つけた。初めて使うゆえに悪戦苦闘し、五本の燐寸マッチを折り、六本目でようやく火をつけられた。火を見ることもまた、初めてだった。

 行は記録書を手にして、まず外側を観察してみた。本のように綴じられている。表紙も含め、紐で結んである。表紙をめくった。文は和語で書かれていて、悪筆でもなく、すんなりと読めた。

 記録を見るに、男はこの近辺の地理を調べにきたようだった。それも、を、特に気にしていた。国境くにざかいは遠くない。あるいは侵攻によって近づいているかもしれない。ここに兵を置いて構えるのは、そう悪いものではない。敵方にしてみれば、大きく迂回するより、いっそ山越えをしたくなる。単に山を突っ切るだけなら、七里ほどの行程で済む。

 事実、調査記録の中では、この山岳地帯に伏兵を潜ませ、敵を誘い出して討つべし、と、そういう内容が書かれている。この男は、列椿の軍に属する者なのだろう。調査はさらに続く予定だったのかどうか、記録書の大半は白紙のままだった。なめらかな手触りの、無地の用紙が寂しげに続く。

 伏兵を配置するつもりなら、来た目的を村人に明かしはしない。村人が口を滑らせ、企みが敵に知れるかもしれない。この男は適当な口実でごまかして真意を隠し、村人のもてなしを受けたのだろう。

 そこまで考えたところで、行のうちで結論が出た。

 ――これは使

 行はさっそく、墨汁のびんと付け硬筆ペンを錆びきった青銅の机に置き、地下室のほうから手頃な本を見つくろってきて、やはり机に置いた。

 それら全て、行の初めてのとしてあった。

 付け硬筆ペンの先を墨汁に浸してから、行はまず、を始めた。

 発音は知らない。けれど言葉の意味もも知っている。山と積まれた本、いくらでも余白は見つけられる。そこに書ける。ある程度感覚を掴んだなら、墨汁は残しておき、草の汁を絞って使おうと考えた。とにかく、自分が書き慣れなければ、この策は成立しない。




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